窓に降る雪 27

窓に降る雪

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27


 高宮の運転する車が三生の家の前へ止まるとそれを予想していたかのように三生が玄関先に現れた。もう11時を過ぎている。
 閉めた玄関の戸の前で三生は黙って立っていた。
「三生」
 高宮が車を降りて三生の前に立つ。彼女は喪服ではなかったが黒い服を着ていた。
「もうわたしのことを苦しめないで」
「三生……」
「あなたが離婚されたことも知っています。知っていました。でもわたしはもうあんな思いはしたくない」
 三生は高宮から目をそむけた。
「どうして父の葬儀に来たりしたの……」
「三生!」
 高宮は三生の名を繰り返した。
「何と思われても仕方がないが、君に会わずにいられなかった。君に会いたかったんだ!」
 高宮が三生の手を取ったがひっこめようとする彼女の力に逆らって高宮は彼女の手を離さなかった。
「私を許してほしい」
 三生は高宮の顔を見た。初めて見る彼の表情だった。つらく悲しそうな眼の色。かつて三生の味わったのと同じ悲しみがそこにあるようだった。

「いや」
 三生がひと言だけ答えた。が、高宮はあきらめなかった。
「君がいやならいい。でもこれからは私も君と同じ思いを背負っていく。一生君を想っていくよ、君が許してくれなくてもね」
 三生が高宮の手を振りほどいた。
「もう帰って」
 三生は逃げ込むように家へ入ると家の明かりをすべて消して自分の部屋で座り込んだ。誰もいない家の中でしんと静まった暗い静寂が痛いほどに感じられる。
 どのくらいそうしていたのだろうか、やがて車のエンジンの音。去っていく車の気配に三生は
ベッドの上につっぷして固く目を閉じた。

 父が入院して以来、看病に追われ学校の勉強も最低限やっていただけで三生は他のことを考えることはやめてしまっていた。高宮のことはもうずっと前に心から消していたつもりだったし、大学で男子学生から声をかけられることもあったが 恋愛とかそういったことには近づかずに過ごしていた。やっと勉強に打ち込めればそれでいいと思えていたのだ。
 そんな時に父が体調を崩し、検査を受けた時にはもう手遅れだった。せめて良くならなくてもこのまま悪くならずにいてほしいと三生は願ったが、父は急速に悪化していくばかりだった。
 父がまだ意識のある時、浅い眠りから覚めてそばにいる三生のほうに顔を向けると父は言った。
「おまえはひとりになってしまうねえ」
 答える代わりに三生は父の手を握った。痩せてもう骨ばかりのような手だった。
「せめて……おまえのそばに高宮君のような男がいてくれたらと思うよ。彼がすぐに離婚したことをおまえは知っているのかい?」
 父が弱々しく手を握り返してきた。では父も高宮が結婚したことを知っていたのだ。三生は静かに言った。
「彼のことはもういいの。わたしは大丈夫、お父さんと一緒にいるよ」
 父は何も答えなかった。何日もたたないうちに昏睡が始まり三生はもう父と言葉を交わすことは出来なくなってしまった。

 父が高宮のことを言った日の夜、ひとりで家へ戻ると三生は泣いた。父との別れを予感してたまらなく悲しかったが、父が高宮の結婚を知っていたことも三生にはこたえた。
 彼が離婚したことは三生は知らなかった。高宮との接点がない今となっては知るすべもなかったし、知ろうとも思わなかった。しかし、高宮とのことはもう過去のことだと思っていたのにまるで触れると痛い傷口に触ってしまったようだった。 2年以上も前のことなのに三生の心の傷は隠れてはいても消えてはいなかった。
 父のことも、高宮のことも、すべてはもう元には戻らない。
 誰もいない家の中で三生はただ泣くしかなかった。

 それから父が亡くなるまでの間、父を見守る時間が続いた。そして亡くなってからは葬儀にかかわる様々なことに忙殺されて三生は自分が何をしてきたかほとんど覚えてはいなかった。
 そんな中で葬儀の時にジョージ・グレイが来てくれたことは驚きだった。一度も会ったことのない母の兄だったが誰が知らせたのだろう。しかし伯父と会った驚きも高宮の姿を見た瞬間に忘れてしまっていた。
 以前と変わらない背の高いその姿、見たことのない喪服姿ではあったが彼はやっぱり三生の心の奥底にいる彼のままだった。彼が目の前にいるという事実に三生は足が震えてお辞儀をすることしかできなかったが、彼はあっという間に出て行ってしまった。波立つ三生の心を残して。
 三生は必死で自分を保とうとしたが思わず出口まで出てしまっていた。ジョージと一緒にいた高宮と視線が合うと彼は視線をそらさずにまっすぐにわたしのほうを見ていた。先に目をそらしたのはわたしのほうだ。
 あの時、きっと何時間見つめあっていても彼は決して自分のほうから目をそらすようなことはしないだろうと三生は冷たい布団の上で考えていた。彼が……彼が自分の知っている高宮のはずなら……そんなふうに考える自分がとても悲しくつらかった。


 次の日の朝、三生が玄関から出ようとすると家の前に高宮の車があるのを見つけて三生はあわてた。
 まさか帰らなかったのでは? そんなことはないはずだ。ゆうべは確かに……混乱して考えながら玄関から出ると高宮が車から降りて迎えた。
「おはよう、送っていくよ」
 彼はスーツでさえなかった。白いニットシャツと軽いジャケット。
「まさかずっとここに?」
「違うよ。今朝、君を迎えにきたんだ。送らせてほしい」
「いいんです。大学へ行くだけですから。それより」
 三生は腕時計へちらっと眼をやった。もう9時近い。高宮はとっくに仕事の時間だろう。
「仕事なんでしょう、こんなところにいていいんですか」
「かまわない。言っただろう、君を送らせてほしい」
 三生は首を振った。昨夜と同じだった。
「帰ってください」
 三生は高宮の車が出るのを待たず足早に駅へ向かって歩き始めた。ぐずぐずしていて高宮の顔を見ていると三生の心も崩れそうに思えたからだった。改めて見る彼の姿を見て何も感じずにいるのはむずかしかった。高宮の車にまた乗れたらどんなにいいだろう。 しかし彼女はそれを考えることをずっと自分自身に禁じてきたのだった。

 悲しくてたまらなかった。
 その日、1日中三生は悲しい気持ちで過ごし、大学での授業や調べ物をやっとのことで終えた。ゼミがないのが幸いだった。だれとも話したくはなかったし、ひとりで買い物をして遅くなってからやっと家へたどりついた。疲れにまかせてすぐに横になってしまう。
 高宮の事を考えなくていいように眠りたかった。早く時間が過ぎてしまえばいい。うとうとした時にかすかにエンジンの音を聞いたように思えたが三生は耳をふさいで眠ったふりをしていた。何も、何も聞きたくはない……。

 次の朝も、次の夜も彼は待っていた。
 三生が大学へ行く日も行かない日も。夜遅く高宮の車の気配を感じて三生はそっと部屋の窓から外をうかがう。家の中は真っ暗で高宮には三生が彼の車を見ていることはわからないだろう。しばらく彼は車のわきにじっと立ちつくしている。黒い影の中で確かに彼の気配は感じられた。
 窓から隠れるようにして、それでも三生は壁際から離れられなかった。高宮がいると思うだけでつらかった。真っ暗な部屋の中の冷えた夜の冷気の中で膝をかかえるようにして座り込んで三生は身動きしなかった。

 ……やがて幾晩目からだろう。三生の部屋の灯りがついているようになったのは。
 灯りの少ない家の中でその部屋の小さな灯りだけが三生のいることを示していた。そしてやがて三生が部屋の灯りを消し、彼女が床に入るとしばらくしてエンジンがかかる音がして車が去っていく。 身動きひとつせず横たわりながら三生はその音を聞く。遠ざかる車の音を聞きながら三生は暗闇を見上げて見つめていた。いつまでも。


2007.11.15 掲載

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