窓に降る雪 26
窓に降る雪
目次
26
夏が来れば秋が来る。秋が来れば……。
何もしなくとも繰り返される季節。
…………
それから2年近い月日が仕事とともに流れていった。
高宮の毎日は仕事に追われるというよりは、仕事を高宮の方が追いかけている感じだった。次々とこなされていく仕事。家にはほとんど眠りに帰っているだけの生活が続いていた。
その日、高宮は会議室から自分のデスクへ戻ると新聞が置かれているのに気がついた。訃報欄が目に留まるように上にしてある。
吉岡順三 作家、アメリカ文学者。元S大学助教授。胃がんのため都内の病院で9月27日午後*時**分死去。46歳 東京都出身。**年、風間文学賞受賞。文学評論、翻訳、著書は****など。葬儀は近親者のみで30日に行う予定。
三生の父だった。
「新聞を置いたのは君だね」
『……はい、さしでがましいとは思いましたが』
電話のむこうでは秘書の野田中礼子が静かに答えていた。
「いや……ありがとう。明日の葬儀に出られるように調整してくれないか」
『かしこまりました。のちほどお時間をお知らせします』
「ありがとう、頼むよ」
高宮は電話を置くと腕を組んでじっと紙面を読み直した。三生の父はまだ若かった。こんなにも早く亡くなるなんて思ってもみなかった。
かつて三生をスキャンダルから守ったのは同時に父である順三への配慮でもあった。高校生の娘がずっと年上の男と不純な交際をしていると騒がれれば、その親へ非難が行くのは当然だ。
まして作家として名の知られている順三ならば、かつてキャスリーンと結婚していた順三ならば……。 三生のことは表には出なかったが、それでも高宮は順三に申し訳ない気持ちがあった。できることならもう一度順三と会いたかった……。
三生は、彼女は今どうしているのだろう。
ずっと前に別れた高校生姿の彼女が目に浮かぶ。三生のことを忘れたことはなかったが彼女の姿を思い出すのは久しぶりだった。
この1年半ほど、仕事に没頭して三生のことは頭のすみに追いやってしまっていたのだ。仕事に打ち込めば彼女のことは忘れられるだろうと事実そうしてみたが完全に彼女のことを忘れてしまうことはできなかった。
どんなに疲れていても夜中にふと彼女のいないことが痛いほど感じられて高宮は起き上がってしまう。苦い思いでもう三生が自分の手の中にいないことを受け入れるしかなかった。
父親を亡くして三生は悲しんでいるだろう。彼女の悲しい顔は見たくはなかったが、できることならそばにいて慰めてやりたかった。それはできない、とわかってはいたが高宮は翌日、三生の自宅近くにあるという葬祭場へ自分で車を運転して向かった。
出版社からの花輪もあったが人は思ったほど多くはなかった。親類らしい人が何人か出入りをしている。
葬祭場の建物の入口から少し離れたところで高宮は入ろうかどうか迷っていた。年配の夫婦らしいふたりが高宮のわきを歩いていく。その後ろで欧米人の男があたりを見回していた。高宮へ近づいてくる。
「Excuse me……」
その男は白い花束を手にしていた。吉岡氏の葬儀に来たが日本の葬儀は経験がないのでどうしてよいものかわからないと言う。高宮は親切に英語で答えてやっていた。たぶんこの男も若い高宮を選んで話しかけてきたのだろう。
彼に一緒に来るように言って受付へ行くと喪主の三生を呼んでほしいと通訳して高宮は後ろの人かげへ引っ込んだ。
彼女は英語は話せたはずだ。
しばらくして三生が出てくる。和服の喪服姿だった。外人の男が三生へ話しかけ三生は英語で答えていたが急に驚いた表情を浮かべるとそのまま男を伴って祭壇へ行く。男が白い花を供え、日本風に頭を下げると三生もていねいに頭をさげていた。
三生は彼が知っているころよりも髪を長くして和服にあわせて髪をまとめていた。少し痩せたようで葬儀のあいだ高宮はじっと三生を見ていた。喪服の黒い着物に白い半襟、見慣れない三生の着物姿だったが、二十歳とは思えない静けさが彼女にはあった。
大人になっていた。美しかった。
やがて高宮は焼香の列に並び前へ行く。うつむき加減にひとりひとりにお辞儀をしている三生の前に立った。三生が顔をあげる。
驚きとも動揺ともとれるその表情に高宮は祭壇へ向きなおり焼香をすませるとまた三生に頭を下げるが、同じようにお辞儀をしている三生の顔が上がる前に高宮は通り過ぎていた。
葬儀が終わり何人かが建物の外へ出て行く。さっきの外人の男は列の最後に並び、三生のところへ行き話しをしていた。三生が手を差し延べると男は三生を抱いて肩をやさしくたたく。外人の習慣の慰めにまわりの人々は
黙って見ていたが、高宮は正直この男がうらやましかった。自分もああやって彼女を慰めてやれたらどんなにいいだろう。
彼がどういう知り合いでここへきたのか高宮は知らなかったが、三生には特別の客のようだった。
駐車場へ戻って行く途中、「さっきはありがとう」とさっきの外人が追いついてきた。
「助かったよ。私は日本は初めてなので。ジョージ・グレイです」
男の自己紹介の名に高宮は驚いた。
「キャスリーン・グレイさんのお知り合いですか?」
「兄です、そしてジュンゾウがアメリカにいたときからの友人です」
「そうですか。……失礼、ユウイチ・タカミヤです」
握手を交わす。
「タカミヤはジュンゾウの知り合いですか?」
「ええ、吉岡氏もお嬢さんの三生さんも存じ上げています」
「あなたはキャスリーンのことも知っているようですね。おや、ミオウがこちらを見ている」
彼に言われて高宮は建物の出口に三生が立ってこちらを見ているのに気がついた。高宮が三生へ向き直りふたりの視線がぶつかる。厳しい高宮の顔つきと三生の瞬きもしない痛いような視線。
ふたりの他人が入り込めない雰囲気にジョージ・グレイはすぐに気がついた。気がつかないわけがなかった。
さっと三生の視線が外れた。後も振り返らず中へ入ってしまう。
「ユウイチ、あなたに聞いてもらいたいことがある」
あらためてジョージが言ってきた。
ジョージを伴って会社へ戻ると社長用の応接室にジョージを案内させた。ジョージは驚いているようだった。
「あなたが白広社の社長とは! 驚いた」
ストレートに言う。
「葬祭場に残っていなくてよかったのですか?」
「長居しないほうがいいでしょう。私は日本にも不慣れだし。ミオウの顔が見られたらそれでいいんだ」
「あなたはキャスリーンのかわりに日本へ来たのですね」
ジョージがうなずく。
「そう、彼女は日本へ来ることはできない。わかるでしょう? 彼女はミオウのことが気になっている。私もです。今まで会わずにいたが別に会いたくなかったわけではない。私はキャスリーンのマネジメントをしているんだが、
彼女の立場上会わないほうがいいと思っている。冷たい言い方だがミオウは日本にいるほうがよさそうだ。
一度アメリカに来たらと言うつもりだったがミオウには言えなかった。時期も悪いようだ。あなたはミオウの恋人ですか?」
ジョージはずばりと聞いてきた。
「今は違います。残念ながら」
ジョージは高宮が白広社の社長と知って彼との出合いを歓迎していた。
高宮が事情を知っているので話が早い。かつてキャスリーンの来日を止めさせるために順三が連絡をとったのは キャスリーン本人ではなくジョージだったと聞いて高宮も納得した。
「マスコミに騒がれるのはミオウの本意ではないでしょう。キャスリーンもです。どうかあの子を見守ってやってほしい。好きなのでしょう? お互いに」
「私は好きです」 と高宮は答えた。それは三生を見守ってほしいというジョージの言葉への答えでもあった。
ジョージは短い時間を高宮と話すと成田へ戻っていった。夜の便でアメリカへ帰るという。
「偶然でもあなたに会えてよかった、ユウイチ。いつかビジネスで会いたいね」
高宮も同意した。いつかその機会もあるだろう。しかしビジネスとは関係なく三生を頼むとジョージは言っていた。三生を見守ってほしいと。
三生。
高宮はあらためて今日の三生を思い出していた。この2年、彼女のことを忘れようとしても忘れることはできなかった。高宮は今まで三生の思いと向き合うのを恐れていた自分に気がついた。彼女にしてしまった仕打ちを償わずにきてしまっていたのだ。
彼女の許しを得たい。
今、彼は切にそう願っていたが……三生は許してはくれないだろう。
その2週間後、高宮はいつもの通りデスクの上に置かれた手紙に目を通し始めた。一通の封書に目がとまる。白い定型の封書で明らかにビジネスの手紙ではなかった。裏を返すと差出人に吉岡三生の名。
手紙は順三の葬儀への列席に対する礼状で印刷の文面は決まりきったものだったが最後の三生の名前だけが肉筆で書かれていた。高宮はじっと三生の書いた名前を見つめた。
細いペンで書き込まれたその文字、三生の書いた文字を見るのは初めてだった。今さらながらと高宮は心の中で苦く笑った。彼女の書く文字さえも見たことがなかったなんて。
そして三生の名前のほかにもきちんと住所と電話番号が書かれている。それは三生の家、亡くなった父親の住所でもあり高宮はその住所と電話番号を手帳へ書き留めた。以前、携帯電話を解約して以来プライベートな携帯はもう持ってはいなかった。
高宮は机の引き出しから別の白い封書をとりだした。おととい届いたものでその時、差出人の名を見て高宮はすぐに封を切ったが手紙は三生の父、吉岡順三からの手紙だった。しかし封筒の裏に書かれた日付は順三が亡くなる1か月も前のものだった。
その夜、仕事が終わり高宮は社長室のデスクの前へ座り電話を手に取った。三生の家の電話番号を押す。
『吉岡でございます』
三生の声。
『もしもし?』
三生の声が不審げになる。
「高宮です」
やや間があって『高宮さん……』とつぶやくように彼女が言う。
『先日の……父の葬儀ではありがとうございました』
「いや……、お父さんは残念だった。ずっとお悪かったそうだね」
『はい……』
「大変だったね」
答えはなかった。電話の向こうは静かな沈黙だった。
「三生」
高宮が話しかけた。
「もう一度会って欲しい。今から行くから」
沈黙。
お互いの気配だけが感じられる沈黙だった。
突然、電話が切れた。
「三生!」
高宮の声が響いたがもはや三生には届いていなかったかもしれない。しかし受話器を置くと高宮は立ち上がった。車のキーを握りしめて。
2007.11.12掲載
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