窓に降る雪 25

窓に降る雪

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25


 三生の父の順三は夏休みに入った三生が勉強に熱中し始めたことをちょっと不審に思っていた。大学へ入学して以来、三生の様子はおかしかった。勉強も手につかない様子で夜中に泣いているようだった。もともとしっかりした娘だったのに。 順三は尋ねはしなかったが高宮と会っていないようだった。別れたのか。
 順三はたばこを吸いながら考えていた。若いふたりの、いや若い三生の恋愛だ。うまくいかなくても仕方がないものだ。どういう理由かはわからなかったが三生が自分で乗り越えるしかない。こんな時に親は何もできない。
 順三はキャスリーンと結婚していた頃のことを思い出していた。自分達だって結婚して三生が生まれていたのにうまくいかなくなってしまった。キャスリーンは映画を捨てられなかったし、順三もそれはわかっていたが、赤ん坊の三生をかかえて 留学を終えた順三はにっちもさっちもいかなくなってしまった。仕事も思うようにできない。結局、順三は三生を連れて日本へ帰ることにした。日本へ帰って自分の母親に三生のめんどうを見てもらって働くしかなかった。
 愛し合っていると思っていたのに、愛していたから子供を作ったのに、三生の存在は夫婦を続ける理由にはなってくれなかった。少なくともあのときは。
 離婚してしまった父親の自分は三生になにも言えはしなかったがそれでも見守ることはできた。が、ようやく落ち着きを取り戻した三生が夏休みに入って猛烈に勉強をし始めたのだ。
きっと受験勉強でもこんなには勉強しなかっただろう。家事以外ではほとんど机へ向かっている。作家の仕事をしている自分以上だった。とうとう順三は食事の時間に三生へ尋ねた。
「最近、勉強に精を出しているみたいだね」
「夏休み前の勉強がさんざんだったから。ちょっと気がゆるみすぎたみたい」
 目の下にうっすらとくまを作った顔で三生が答えた。
「どこにも出かけないじゃないか、図書館以外は。どうしたね?」
「別に何でもありません。今、がんばっておけば留学できるかなと思って」
「留学? どこへ?」
「ロンドン。でもまだわからない。すぐには無理だから卒業してからでも」
「そうか、がんばるのはいいが無理をしたらだめだぞ。いいな」
 三生がちょっと笑った。
 その笑顔が寂しそうで驚くほど若い頃のキャスリーンに似ていた。父親似であまり母親に似ていない三生だったが、ふとした表情はとてもキャスリーンに似ている。
「おまえももう大人だ。いろいろあるだろうが、お父さんはいつでもおまえを見守っているよ」
 順三は自分と同じくらいの背丈のこの娘をやさしく見つめていた。
 三生は父の言葉に感謝はしても勉強に熱中する以外に何もできないと思っていた。とにかく時間がたってくれればいいのだ。時間だけが自分の心の傷を奥底へと沈めてくれると思っていた。

 長い、長い夏休みだった。
 やっと休みが終わり三生は自分が立ち直れたと思えるようになっていた。
 どこへも出かけず、何の思い出もない大学1年の夏休みだったがそれで充分だった。思い出などないほうがいい。

 10月になって大学祭がにぎやかに開かれる頃、三生はいつものように授業に出ていた。何のサークルにも入っていなかったので大学祭も他人事のように過ぎていた。 帰ろうとしてふいに「やあ」と後ろから肩をたたかれて三生が振り返るとひとりの男が立っていた。学生にしては年上な感じだ。
「あれ、おれのこと忘れちゃった? 宮沢だよ。宮沢直人」
 その名前に三生はぼんやりと思いだしていた。確か前に高宮と一緒のときに……。思いだして三生は顔つきを変えた。高宮の知り合いには会いたくない。
「おれもここの卒業生なんだ。言ったろ? 君は文学部? 君を捜すのに苦労したよ。もう最後の手段として毎日大学通いさ。偶然をねらったわけ。3週間かかったけどね」
 三生は黙って歩きだした。
「やっぱりこの大学へ来ていたんだね。あの時、白広社の社長といたけど何か関係あるの?君」
「別に。何なんですか?」
 三生は不機嫌に答えた。
「なに怒ってるの? ああ、じつはね、君を雑誌広告のモデルとして使いたいんだ。白広社と関係あるんならそっちに話を通すから」
「悪いけど」
 三生は相変わらず不機嫌に答えた。
「わたしは何の仕事をする気もないし、どことも関係ありません。失礼します」
「あ、待って」
 宮沢は三生の前へ出てさえぎった。
「どことも関係ないって? ほんと、そのほうがいいよ。ね、話だけでも聞いてよ」
 強引な男だ。三生を追いかけながら話してくる。
「おれはCMクリエイターをフリーでやっているんだ。広告もやる。『ザ・フューチャー』ていう雑誌、知っている? その雑誌に載せる広告でね、……おっと!」
 三生はわざと急に立ち止まった。宮沢を黙らせるために。
「それ以上説明しても無駄ですよ。そんな気ありません」
 宮沢はあきらめなかった。
「君、君なら今の君とまったく違う別人になれるんだ。全く違う女になって写真に写ってみないか? 君、ハーフだろ?」
 三生は答えなかった。どんどん歩いていく三生に宮沢が後ろから叫んだ。
「気が変わったら連絡して!」

 そうは言ったが、宮沢は毎日のように大学へ現れた。同じ授業を受けている女の子たちから「彼?」と聞かれる始末だ。
「あの人CMクリエイターの人だよね。この前、大学祭にも来ていた。うちの学校の卒業生だって」
「吉岡さん、きれいだからスカウトでもしに来たんじゃないの? CMに出て欲しいとか」
 2、3人の女の子から言われる。
「あの人のCMや広告ってすごく特徴があるんだって。大量に流したり掲載したりしない、ピンポイントみたいなやつなんだって。CMなんて見逃したらなかなか見られないらしいよ」
「へえ」
 三生は興味なく答えた。今日も授業を終えて帰ろうとすると宮沢が待っていた。
「吉岡さん、まだ気は変わらない?」
 三生は彼に聞こえるくらいにため息をついた。
「あはは、だめか。でもおれは君のこと変えてみたくてしょうがないんだ。もちろん写真の中での話だけど。ぜんぜん違う髪型、化粧でさ。……違う自分になってみたいと思わない?」
 違う自分、ふとその言葉に三生は立ち止った。以前ならそんなことは考えてもみなかったことだがこの春以来、三生はどこかが違っていた。
「そんなことできるんですか」
「もちろんだよ! 君ならすばらしい写真が撮れると思うよ。絶対!」
 三生の反応に宮沢は明らかに喜んでいた。

 宮沢と仕事をするにあたって三生は条件を付けた。三生だということが絶対にわからないようにすることだ。これは宮沢のコンセプトに合っていたので彼は承知した。取材は絶対に受けない。 名前も出さない。これも宮沢は承知した。宮沢はあっというまに撮影のセッティングを進めた。
「実はもう期限ぎりぎりなんだ。君が承知するまでに日にちを使ってしまったから。でもいい仕事にするよ」

 撮影当日、三生はスタッフに囲まれてカメラの前へ立った。事前に何回もの打ち合わせをして三生の姿が作り上げられていた。
 黒味の少しある灰色がかったような金髪の髪、かなり長く乱れたようなウェーブ、もちろんかつらだ。眼には灰緑色のカラーコンタクト、透ける生地のドレスもベージュにくすんだ灰緑色が入っている微妙な色だった。 化粧は外人風にしてアイ・メークに重点がおかれ肌の白さが浮き立つ。
 写真撮影をした後でその画像に手も加えるという。しかし何より重要なのは三生の表情だった。カメラマンの言葉に動きながら表情を少しずつ変える。初めてなので三生は勘でやるしかないのだが、何十枚という写真がどんどん撮られていく。
「動画でないのがおしいなあ」
 宮沢は撮影を見ながら言う。
「彼女だったらフィルムの上を動かしてみたい。そうだろう?」
 スタッフのひとりへ言う。
「写真だってなかなかだよ」
 カメラから顔を離さずにカメラマンが言ってよこした。
「彼女、ほんとに初めて? 没頭してる」
 三生がちらと目線を下げてからまた正面を挑むように見た、その表情をカメラマンはすかさず捉える。
「いいね」
「もう一度」
 宮沢とカメラマンの声がかかる。今の表情をもう一度というのだ。三生は自分でもわけがわからずに腹が立った。
 目の前のカメラマンに。宮沢に。そして……高宮に。
 なぜ、という問いがまた胸に湧き上がりそうになるのをこらえて無視する。しかし怒りそのものは抑えきれずに三生の目に強い光を与える。

 なぜ、あなたは何も言ってはくれない……?
 どうしてわたしはこんなことをしている……?

 連続したシャッター音だけが響いていくなかで三生の表情を見ていた宮沢が黙りこんだ。 こんなにも静かな撮影は珍しかった。宮沢やカメラマンが目の前にいるのに、三生のそれらを見てはいない視線、その表情……。
 去年のあの時、彼女は白広社の高宮社長と一緒だった。いや、社長としてではなくひとりの男としての高宮と一緒にいたのだ。高宮はあきらかに仕事ぬきという様子だったし、あの時のふたりの様子からしても……しかし今は……あのふたりは……。
 宮沢は考えずにはいられなかった。それが彼を沈黙させていた。

 撮影は1日で終わったが、三生はもう後は宮沢と会う気はなかった。写真の出来も、広告の進行具合も興味はない。あとは宮沢にまかせて雑誌の発売を待つだけだった。

 雑誌の発売の日、宮沢が大学へ雑誌を持ってきてくれた。三生へ渡しながら言う。
「おれにとってはハードな仕事だった。1回だけの約束だからもう誘わないよ。本心は違うけれどね」
 12月の年末休みに入る直前の寒い日だった。宮沢へ礼を言って三生は別れた。



 高宮は12月の月末最後の仕事を済ませると家へ帰った。年末年始の仕事はすべて受けなかった。
 ひと月前に離婚は成立していた。
 それ以前から加奈子とは暮さずにもといた自分のマンションへ戻っていたが、結婚してもこのマンションは手放す気はなかった。高宮にとって加奈子との結婚をうまくやろうとする気は始めからなかったからだ。また三生の事を持ち出されてももう応ずる気はなかった。 取引に応じるのは1度だけだ。その1度が高宮にとっては最大の痛手だったのだが。

 高宮は加奈子と離婚するのにあたって自分がされた取引で結婚を迫られたように加奈子にも同じように取引で別れさせたのだった。
 あれから中村の長男のことはいろいろと調べた。中村はひた隠しにして今はその長男はJ銀行の関連会社へ入れてあるが問題はその長男の大学時代の素行だった。昨年、大学生が詐欺まがいのことをしてパーティーを開き女の子を巻き込んで傷害事件を起こした裁判の判決が報道されていたが、 実は長男は大学時代にその事件にかかわっていた。長男の名が出なかったのは中村が裏で金を使ったからだ。この息子では政治家の秘書になっても続くまい。広沢と比べるまでもない。
 高宮はかつて中村に言われた事とそっくりそのまま、スクープ雑誌は誰のどんな記事でもいいのだと言ってやった。中村はすでに長男の名前を出さないためにカネを使っている。金を渡した相手もわかっている。広沢の紹介してくれた興信所はさすがだった。 そして高宮はあるひとりの記者へ貸しがあった。
 かつて三生を追いかけていたその記者。その記者が書きたいと言った別の記事のためにつぶれてしまったスクープ雑誌の代わりに別の雑誌を作る資金を提供したのは高宮だ。三生の記事を出させないための取引きには違いなかったが、 だからいつでもその記者に、その雑誌に中村の息子の件を書かせることができる。脅しだけではない証拠にその記者に中村との面会を求めさせた。
 高宮は必要な情報は手に入れて別居をしたが加奈子に同情する気持ちはなかった。愛する者を奪われれば冷酷になるものだ。

 高宮は自分の部屋のソファーの上へ会社に送られてきていた何十冊もの雑誌の中から適当につかんできた数冊を放り出した。休みの間に退屈しのぎに読むつもりだった。 自分で食事を作り、ビールを片手にぱらぱらと雑誌をめくる。高宮の手がとまった。広告写真に目が釘付けになる。

 ウェーブのある長い髪、目の色、髪の色、欧米人のような東洋人のようなどちらともつかない顔立ち。濃い眉やまつ毛の化粧。肌の色に近いルージュの色。顔は少し斜めになっていたが射すようにこちらを見ている。髪や服が風をうけて髪が一筋、顔にかかっていた。
 グレーがかった金髪とそれに合わせた服、陶器のような女の白い肌のなめらかさ。全体がそういったトーンだった。それは高宮が全く見たこともない女だったが、同時に吉岡三生でもあった。 高宮でさえも別人かと思えるほどの写真だった。誰も三生だとは思わないだろう。高宮だから気がついたのだ。
 透ける服の下の腕や首筋ははっとするほど女性的で、はかないと言ってもよかったが普段の三生にはこんな印象はなかった。細くても体つきに張りがあり骨格のしっかりした感じだ。ぜんぜん違う。……しかしどうしてこんな広告に出ているのか。前はあんなに目立つことを嫌がっていたのに。
 それにこの表情。この目。彼女は何を見ているのか。
 高宮はやはり三生の変化は自分が結婚したことが理由だとしか思えなかった。三生はこの広告が高宮の目に留まることを予想しているのだろう。突然断ち切られたように会えなくなった高宮に三生は何が言いたいのだろう、その目で。

 ……自分は三生を裏切ってしまった。三生を守りたくてしたことでも。離婚しようとそれは変わらない。変えられないのだ。
 高宮はじっとその写真を見るしかなかった。

 年が明けて出社した高宮はすぐにあの雑誌の広告を調べさせた。高宮の会社にとって調べるのは簡単だった。しかし宮沢直人が手がけた広告ということはわかってもモデルの名前さえも所属や経歴もまったくわからなかった。宮沢のほうでもそれらを公表していなかった。
「宮沢か」
 高宮には宮沢が三生を使ったことに心当たりがあった。以前M大学へ三生と一緒に見学へ行ったときに偶然彼と会っている。
 高宮はもうそれ以上調べさせなかった。広告は業界でもかなり評判になっていたがその後、宮沢もそのモデルを二度と使わなかった。モデルに対していろいろなところから取材やオファーが来ていると聞いたがどれにも応じないという話だった。
 ……ただ1度だけだったのだ。


2007.11.08掲載            

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