窓に降る雪 28
窓に降る雪
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その朝も彼は待っていた。
「送るよ」
高宮は声をかけてきたが三生は無言だった。車のそばで足を止めると高宮の顔をまともに見る。その彼の目元が少し赤く充血している。
「いったいいつまで続ける気? わかったわ、送って下さい。そのかわりもう来ないで。あなたはそうやっていればわたしがあなたを許すとでも思っているんでしょう!」
だんだんと大きくなる三生の声。
「三生」
「もう来ないで! もう……」
三生は怒りに顔をゆがめながらもなんとか黙った。さすがに家の前で大きな声をあげているのは憚(はばか)られる。
「乗って」
高宮が車のドアをあけながら言った。
三生からの非難は甘んじて受けるつもりだった。車へ乗って三生がさらに言いつのるかと思ったが三生は黙って座っている。車は静かに滑るように走りだしたが、やがて沈黙を破って三生が言う。
「もう毎日来るようなことはしないで」
ぶっきらぼうに言う三生の言葉に高宮がちらりと三生の顔を見た。彼女の顔は怒っている。
「何度来られても変わらない。……もうこれ以上言わせないで」
三生ももうそれ以上はしゃべらなかった。
彼女の肩が震えている。高宮は三生が泣いているのかと思ったが、違った。泣くよりももっと三生は怒っている、その顔は黙りこんで視線を合わさず彼を拒否している。
車は走っていたがやがて三生が顔をあげて、しかし彼とは視線を合わさずに言った。
「家へ帰ります。今日は大学へは行きません。降ろしてください」
高宮は返事をせずに車のアクセルを踏んだ。ぐっとスピードが上がる。
「…………」
三生が高宮を見たが何も言わなかった。
三生の家へは向かわずに高宮が1時間ほど車をとばして着いたのは山の上にあるドライブインの駐車場だった。ドライブインはまだ時間が早くて店は始まっておらず、周囲には家もなく展望台を兼ねた駐車場には他の車は1台も停まっていない。
エンジンを切り高宮は無言で座っている三生へ向き直った。
「許してほしい」
三生が高宮を見た。眼には強い光がある。
「何を? 何を許せというの!」
三生の鋭い言葉。
「……わたしのこと、遊びか気まぐれだったんでしょ? ほかに結婚したい人が現れたからさっさとその人と結婚した。銀行の頭取の娘だか何だか知らないけれど仕事に有利だから? それとも本当にその人が好きだから?
どっちでもいいけど高校生と遊んであきたらもういらないなんて、たいしたものだわ!」
この2年間の怒りが三生を叫ばせていた。
「わたしのことが嫌になったのならそう言ってくれればいいのに、あなたはそれすらも言ってくれなかった。黙って放り出して、会えなくなって、それがあなたのやり方なの? わたしが子どもだったから? だから何も言わなかったの? でもひどすぎる」
この2年間、彼女が心の中で繰り返していた問いだった。三生は怒りにまかせて自分を止められなかった。
「今さら許してほしいだなんて。あなたの都合良くはいかないわ! 戻して、車を戻して。いいえ、いい。歩いて帰る」
三生がドアを開けて車の外へ出たが高宮も車を飛び出すと三生の手をつかんだ。
彼の手をふりほどこうと三生が身をよじる。それでも高宮は手を離さない。今、手を離したらもう永久に彼女の手を取ることはできないだろう。
「離して! わたしは帰るんだから。あなたと、あなたといたくない! 離して!」
彼につかまれた手首が焼けるように感じる。
そうよ、あなたといたくないのよ、顔さえ見たくない。……苦しくて、……なのにどうしてその手を離してくれないの……。
三生の手をつかんでいた高宮の力がゆるめられた。
「私といたくない、か」
三生は怒りで彼の表情が見えていなかったがようやく動くのをやめた。高宮に手を離されたわけではなかったが彼も無理に押さえようとはしなくなった。それでも三生のそむけられたままの顔には髪がかかっていてその表情は高宮にはうかがえなかった。
「君の大学の合格発表の後に千葉へ行ったのを写真に撮られたんだ。それを公表すると言われてね。あの時の君はまだ高校生だった。私のせいだよ。
公表を止めるには頭取の娘と結婚するのが条件だったが、そんなことは私が会社を辞めればけりがつくと思った。しかし私が辞めても君のことが週刊誌にでも出れば君が傷つく。君のお母さんのことも」
写真……千葉の……ホテルでの……?
公表……公表……!?
かつて追い回された雑誌の記者の記憶がよみがえる。
週刊誌……大手広告代理店の社長が高校生をホテルへ連れ込んでいる。しかもその女子高生がアメリカの女優の娘なら、キャスリーン・グレイが若い頃に産んだ娘だと、そんなふうに書かれたら……。
三生は目をつぶって激しく首を振った。
「そんな……そんなの……あなたは……」
言葉にならなかった。
もう忘れられたと思っていたキャスリーンの娘ということがこんな形で出てくるとは。あの時、彼はだから急にわたしと会わなくなったのだろうか。わたしを守るために?
足ががくがくとして三生は立っていられるのが不思議だった。気がつくと高宮が支えてくれている。高宮の顔を見たが彼の腕がなければ倒れてしまいそうだった。何も言えずただ高宮の顔を見つめている。
高宮が三生の体にまわした腕に力を込めて三生を抱き寄せた。彼も何も言わない。
彼の腕の中で三生の体が震えていたが三生の頬は濡れてはおらずなんの声もあげない。ただ三生は震えていた。
沈黙の時間が流れ、やっと三生が静かになってくるまで高宮は三生を支えて抱いていた。彼女の顔は見えなかったが彼のあごには彼女の髪がふれている。甘やかな彼女の香り、今、腕のなかには三生がいる。
しかしやがて三生は高宮の体を押し返してきた。高宮が腕をほどく。
「車へ戻ろう」
高宮にうながされて三生は車へ戻った。
高宮がドアを開け、三生を助手席へ座らせてから高宮も運転席へ座るとそっと彼女の頬を指でなでた。
一瞬のことだったが彼女の頬は柔らかでなつかしいその感触に高宮は痛いような心の痛みを覚えていたが、頬に触れられた三生は触れられた反応のように茫然とした表情を高宮に向けた。
「……どうして話してくれなかったの?」
そう聞かれることは予想していたが高宮は苦いもののように言葉を吐き出した。
「君の未来を潰したくはなかった。これから大学で勉強しようって時にスキャンダルに追い回されるようなことにはしたくなかった。スキャンダルにさらされるくらいなら私のことは失恋のひとつにしてくれればいいと思ったんだ。
大人ぶるつもりはないが君はまだ若かった。取り返しのつかないことになるよりは失恋で済ませられるならそのほうがいいと思ったんだ」
三生は顔を隠すように両手で覆った。
「そんなふうに考えられるなんて」
高宮はやっぱり自分のことを子どもだと思っていたのだ。
失恋で泣いてそれで気が済んで忘れられるなんて、そんなの子どもでしかない。三生がどんなに苦しんだか、結局は高宮に遊ばれたのだと無理に自分を納得させるまでにどんなに時間がかかったか彼は知らないのだ。
たとえキャスリーンのことがあったにせよ彼のやりかたは三生には許せなかった。感情が許してはいなかった。
「だから……だから結婚したのね……わたしの記事を出さないために。どうしてわたしのせいだと言わないの!」
三生は最後にはまた叫ぶような口調になってしまう。
「君のせいじゃない」
「あなたのせいでもないでしょ……」
三生の激しい感情の狂おしいような表情はかつて高宮が見たことのないものだった。そう、静かな外見に隠れて三生は強い一面を持っている。それが三生をしっかりしていると感じさせるのだが同時に三生は自分の納得しないことにはひどく強情だった。高校生の頃から。それは今も変わらない。
「ホテルでの写真を撮られたのは私がうかつだった。あれがなければ君のお母さんのことを持ち出されることもなかった。すまない」
「……でも言って欲しかった。わたしのことなのに。私たちのことだったのに!」
高宮はそれ以上言い訳もできないと悟った。彼女のために仕方なく選択したことだったが確かに彼女にとっては仕打ちでしかなかった。
三生はやっと彼がしたことが自分をスキャンダルから守るためだったとわかったが、あの時スキャンダルに晒されるのと高宮から突き放されるのと、どちらが自分にとって深い傷になったかはもう三生にはわからなくなっていた。
母のことがなければこんなことにはならなかったのだろうか。
三生は自分の母親がキャスリーンだということをこの時ほど忘れてしまいたいと思ったことはなかった。一緒に暮らしたこともない、その腕に抱いてもらった記憶すらない母親。
そして母のことだけではなかった。自分は高校生で、たとえそれが真剣でも世間から見れば年の離れた会社社長の高宮とつきあうことが非難されても仕方のないことだとわかっていて彼に自分から抱かれたのだ。好きだったから、愛していたからという理由で。
彼はそれをすべて自分で引きかぶっている……?
どうにもならないことが多すぎる。
三生は必死に落ち着こうと息を整えて顔を上げた。やはりとなりにいる高宮の顔を見ずにはいられない。
父の葬儀の時も、三生の家へ車で来るようになってからも、彼は変わってはいないと思っていたが、今、目の前の彼はやはり2年前の彼とは違っていた。三生の見たことのない疲れのにじんだ目元の陰り。その悲しい目は……。
「わたしはどうしたらいいの……」
三生は自分自身に問うようにやっと言った。
「許しを乞うているのは私のほうだ。今すぐ許してくれとは言わない。君が落ち着いて考えられるようになるまで待つよ」
三生は沈黙した。高宮の言う通り、今は何も考えられない。
「……戻って下さい」
三生はつぶやいた。
「帰ります。……送ってください」
「もう来ないで。あなたが無理をするのを見たくない」
家の前へ着くと三生が車を降りる前に座ったまま力なく言った。
高宮は夕べも来ていたし、そして今朝も来ている。もうこんなことが数週間も続いている。三生の家と高宮の家を往復するだけで2時間はかかるだろう。昼間は仕事のはずだ。
高宮が三生の手を握った。
「私には他にできることはないんだ」
「……」
「三生」
「少し……考えさせて。あなたの言う通りに」
「わかった。しばらくしたら私から電話をしてもいいだろうか」
三生は高宮に握られたままの自分の手を見た。
「……わからない……」
それだけ言うのがやっとだった。
三生は彼の手を振りほどきはしなかったが彼の手を押し戻して立ち上がった。ほんの少しの間ふたりは見つめあう。
高宮の目。
何かを言いたげではあったが三生は視線をはずして黙ってドアを閉めた。
2007.11.19掲載
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