窓に降る雪 23
窓に降る雪
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23
嶺南学院を卒業して春休みになるとすぐに三生(みおう)は携帯電話を契約した。これまでは学校で禁止されていたからだ。こっそり持っている子もいたが。
真っ先に高宮の携帯番号を登録した。高宮のプライベートの携帯番号だ。仕事の時間を見計らってかけてみたが三生の期待に反して電話には出なかったが三生はこの時は気にしていなかった。仕事の都合で電話に出られないことがあると高宮は言っていたし、これまでも何度かそういうことがあった。
またあとでかけ直せばいい。いや、今度は三生も携帯だから高宮のほうからかかってくるかもしれない。三生は慣れない操作で時間をかけながら携帯番号を知らせる メールを高宮へ送っておいた。
……そのまま高宮から返事はなかった。夜になって三生がまた電話をしてみたが電源が切られていた。
それから何度電話しても携帯は通じなくなった。何度、留守電サービスにメッセージを入れても。
電源が切られているというメッセージが何日かしてこの電話番号は使われていないというメッセージに変わって三生は頭の中が真っ白になった。
全く高宮と連絡を取ることができない。高宮の自宅の電話番号も知らなかったし、高宮の名刺には会社の代表電話番号しか書かれていない。会社へ電話しても秘書の野田中礼子が出るわけではないのだ。それに礼子に何と言って話せばいいのだろう。言えるはずがなかった。
大学の入学式がせまっていた。最初はどうしたら高宮に連絡が取れるだろうかということばかり考えていた三生はやがてどうして高宮が連絡を絶ったのだろうかと考えるようになった。彼はわたしと会うのを避けている。どうして? ……わからなかった。
大学の入学式が済んでも、本格的な授業が始まっても高宮に連絡を取ることはできなかった。
三生は高宮の会社の前まで行ってみたがとても入れない。絶望的な気分で三生は考えていた。何かあったら少なくとも連絡くらいはくれるはずだ。それがないということは、一方的に携帯が解約されてしまったということは、もう高宮には自分と会う気がないということなのだろうか。
わたしのことが嫌いになった? でもあの合格発表の日にあんなにもわたしを愛してくれた。卒業パーティーのときもエスコートしてくれた。高宮の存在は同級生たちにずいぶんとうらやましがられて三生は幸せだったのに。
高宮にエスコートされることは三生も高宮を恋人として認めることだし高宮にとってもそうだった。彼は堂々と彼女の手を取っていた。あれはうそだったのだろうか。
もう一度高宮の会社の前まで行ってみた。警備員のいる正面入口には近づけなかったが何時間でもここで待っていたら、もしかしたら会えるかもしれない。もしかしたら野田中礼子がまた現われてくれるかもしれない……。時々ビルを見上げながら三生は待っていた。
しかし暗くなる空に比例するようにまわりの明かりが灯り始め、ビルから出て退社する人々の姿が消える頃になっても高宮の姿を見つけることはできなかった。
ゴールデンウィークも過ぎる頃、三生はついに思い至った。
彼はもう飽きたんだ。……わたしに。
体を抱いて飽きたらもう用はないし、若い女の子と気まぐれに遊んだだけなのだ。お金があって独身ならちょっと変わった遊びがしたかっただけ、お固い女子高の生徒を落としてみたかったのだろう。大学生なんて珍しくもない、もう興味がなくなったのだ。
時間をかけて落して、だから合格発表の後であんなにも激しく抱いたのだろう。まるでこれで自分のものになったというように。
いいように抱かれて愛されていると思いこんでいる裸の自分。そんな自分を見せていたなんて。 恥ずかしさと悔しさで三生は自分の体をつかむように腕をまわした。 思いのままになる女子高生はさぞ見ものだったろう……。
三生は高宮が今までにどんな恋愛をしてきたのかまったく知らなかった。知りたくはなかったのだが、31歳になる高宮にそういうことが全然なかったとは考えられなかった。
それに三生とつきあっていた間、彼の日常はどんなものだったのだろう。三生は寮にいて出られないのだからその間、誰と何をしようとも共通の友人もいない彼の事が三生にわかるわけもない。いい歳をした男が高校生の恋人のために待ち続けているなんて! ……そんなのありえない。
あまりにも彼のことを知らなすぎた自分。 高宮の言うことだけを素直に信じていた自分……。
何日も何日も、夜になると泣いてばかりいた。もがいて苦しんで泣いていた。
高宮などいいかげんな人だと自分に思いこませるように心の中でたくさんの非難を繰り返して怒りながら泣いていた。
が、一方で高宮はそんな人ではないと否定する気持ちを完全には抑え込むこともできず、それがいっそう三生を苦しめた。
なぜ、どうして……なぜ……。
せめてわけを言って欲しかった。何か言って欲しかった。嫌になったのなら、はっきりと嫌だと。それすらも彼は言ってくれないなんて……。
7月の夏休みに入る頃、三生はそれでもなんとかあきらめがついた。ついたと思いたかった。
今まで大学で何をやっていたのかまるで覚えていなかったが、ようやくいつもの自分を取り戻したと思い始めていた。成績はあまり芳しくはなかった。夏休みは遊んでいられないだろう。
家へ帰る途中に寄った小さな本屋の店頭にならぶ雑誌にふと目が行く。瑠璃(るり)の写真が女性誌の表紙に載っている。輝くような笑顔だった。
卒業後の尋香(ひろか 瑠璃の本名)の電話番号は聞いていたので家に帰ると三生は電話をしてみた。
『三生? ううん大丈夫。今、話せるよ。久しぶりね。元気だった!』
「尋香も。雑誌の写真見たよ」
『ほんと? あ……の、雑誌を見たから電話してくれたの』
何か尋香の言い方がおかしい。
「うん、見たけど」
『わたしも驚いた。あなたとつきあっているんだと思っていたのに。わたしは若林社長から聞いてびっくりよ、高宮さん』
心臓が止まったかと思った。
『高宮さん、結婚したんでしょ。その雑誌の記事に載って……三生、三生!』
三生は携帯を切った。そのまま携帯が手から滑り落ちていく。さっき買ってきた女性誌をつかむと瑠璃の写真や芸能記事などを乱暴にめくった。有名デザイナーのウェディングドレスの記事らしい新朗新婦姿の二人の並んだ写真が目に飛び込む。
小さな写真だったが確かに高宮だった。すぐ横にはもっと大きい花嫁だけのドレス姿の写真。
……6月に行われたJ銀行頭取のお嬢さんである加奈子さんと白広社社長の高宮雄一氏との結婚式のウェディングドレスは……純白のサテンに花のモチーフをあしらい……
純白の……純白の……
…………
結婚式の準備を進める加奈子を高宮は淡々とした表情で見ていた。いろいろな打ち合わせがあったが彼は極力控え目にするように釘をさしていた。
ホテルなどの大きな会場ではなく高級なレストランを借り切っての披露宴だがそうしたいと言ったのは加奈子だ。招待客の数は抑えられるが流行のトレンドなやり方なのだそうだ。
雄一さんにはわからないだろうからウェディングドレスは自由にさせてもらうとも言っていた。高宮は興味がなかったからどうぞと答えて、加奈子は自分に都合のいいようにしていた。知り合いのデザイナーに頼んで作ってもらうという。
加奈子からは毎日のように会社へ電話があったが、高宮は仕事を理由に週1回くらいしか会わなかった。
「雄一さん、つまらなそうね」
レストランで食事をともにしながら加奈子が言った。
「まるで結婚したくないみたい、わたしと」
「そんなことはありませんよ」
高宮は冷めた表情で答えた。
「まだお気にしているの?」
加奈子がほほ笑む。
「あの高校生の女の子のこと。遊びだったんでしょ?」
加奈子がデザートをひと匙、口へ運んだ。高宮は黙っていた。
「そんな子どもと遊ぶなんてあなたらしくもない。これからはお気をつけてね」
艶然と笑う。
「わたしと結婚したらそんなこと忘れさせてさしあげる」
「…………」
高宮は黙ってやり過ごした。何も言う気はない。
そんな高宮の様子に車に乗り込むと隣りに座った加奈子は運転手がいるのにもかまわず高宮にもたれてきた。
「雄一さん、お願い」
加奈子の手が高宮の太ももの上へ乗っている。
「お嬢さんのすることではありませんね」
「そう? でも私たち婚約しているんだから。来月は結婚式よ」
加奈子のつけている香水が強く香った。
「お送りしますよ」
加奈子を家まで送り届けて母親にあいさつをすると引き留められたのを断って高宮はさっさと帰ってしまった。玄関で加奈子が怒った表情でにらんでいたのに気がついていたにもかかわらず。
高宮のそっけない態度に加奈子はだんだん苛立ってきた。
自分がこんなにもしているのに高宮は一向に加奈子に気を向けない。結婚さえしてしまったらと思っていたがそれも怪しいのではないか。結婚するからには高宮を自分の思い通りにしてしまいたかった。
……結婚ってそういうものでしょ?
加奈子は自分の友達を集めて婚約披露を兼ねてお茶会を開いたりしていたが、高宮はそういった集まりに顔さえ出してくれない。それでも友人たちからはすばらしい人と結婚するのねえとうらやましがられて加奈子はいい気持ちだった。
高宮の容姿は見栄えがしたし、家柄も文句ない。何より彼自身が白広社の社長で、よくある跡継ぎなんてそんなものじゃない。しかも伯父は大臣なのだ。
加奈子にとっては最初は父親の意向の結婚だったが、高校生なんかに夢中の高宮を攻めただけのことはあった。その手段にさえ加奈子も父の中村も何も悪いこととは感じてはいなかった。
しかしあまりの高宮の冷淡さに加奈子はもう一手打っておくことにした。
結婚後の新居に選んだ新築のマンションはほとんど準備ができていて加奈子が選んだ家具が運び込まれている。それらを見て欲しいと頼んでやっと高宮に来てもらった。彼はまだその部屋を見に来たことさえなかった。
「雄一さんがお忙しいから準備を進めさせてもらったわ。もう6月にはお式だし。……ね、見て。こちらがあなたの書斎よ」
部屋のドアを次々開けて案内する加奈子に高宮は黙って部屋を見ていた。書斎には濃い木目色で統一されたデスクとチェアや本棚が置かれている。
「いかが?」
「結構ですね。でもソファーをひとつ入れてもらえますか。読書をするときのために」
「わかったわ」
それですんなり結婚できるのだから安いものだ。
「それから」
加奈子が開いたのは寝室のドアだった。ダブルのベッド。カーテンが引かれ薄暗い室内。
「こちらが寝室よ。あなたとわたしのね……」
加奈子がすり寄ってきた。が、高宮は何事もなかったかのように居間へ戻った。
「雄一さん!」
この人ってなんて鈍感なのかしら! わたしがここまでしているのに……。
「雄一さんって意外につまらない人なのね。それともわざと?」
高宮がほんの少し表情を変えた。しかしそれはわざとなのだと加奈子にわからせるような皮肉な表情だった。
「……そう」
白いツーピースに似合わない表情を加奈子が浮かべた。バッグから写真を取り出して高宮に突きつける。
そこには、その写真には三生が写っていた。
少しうつむき加減にショルダーバッグを肩へかけてどこかを歩いているような感じ、まわりの様子からどうも大学のようだった。ということは最近の写真か。
しかし高宮は無表情だった。加奈子がすばやく高宮に抱きついてキスをしてきた。
……高宮が応じた。
舌と舌が絡み合うキスだった。高宮の手が痛いほど力を込めて加奈子の腕をつかんでいる。最後には加奈子が息苦しくなってようやく離れた。
「……わかって下さったみたいね」
しかし高宮の目がさっきよりも冷たい氷のような視線をたたえているのを見て加奈子は一瞬すくみあがってしまった。それを見て高宮はゆっくりと部屋から出て無言でマンションを後にした。
その夜、高宮は自分の部屋へ帰ると乱暴にウィスキーをグラスに注いだ。氷も入れずに飲む。
このところ酒を飲む量が増えていた。が、ふいに飲みかけのそのグラスをたたきつけるように投げた。固いクリスタルのグラスが床に弾け、飛び散った。
三生! また三生のことを持ち出すのか!
あの時、高宮は血が逆流するような怒りを現さずに封じ込めた。怒りのためには指一本動かすまい。完全に無視した。それを加奈子は高宮がいいなりになったと思ったようだった。しかし違った。
加奈子は自分が三生の写真を見せたことで高宮に暗い怒りを抱かせたことに気がついていなかった。高宮を言いなりにさせるためにまた三生のことを持ち出したのが失敗だったとは加奈子には永久にわからないだろう。
三生のことを二度と利用されたくない。
このまま加奈子と結婚するのはしかたがないだろう。結婚はする。しかしそれ以上のことはしないし、させないつもりだった。しかし三生のことを封じるにはどうしたらいい?取引には取引で対抗するしかないのだ。中村の弱みを握るしかない。
高宮はこれまでそういった情報に必要以上には気を配ってこなかった。
「おれも甘かったな」
暗い怒りを胸に高宮はひとり自分を嘲った。
2007.11.01掲載
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