彼方の空 3

彼方の空

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「何度言われても駄目だな」
「それはご本人に聞いてみなきゃわからないでしょう」
 白広社の社長用の応接室。宮沢が不服げに言う。
 宮沢直人は元は白広社の社員で今はフリーのCMクリエーターだったが、今日はCMの話ではなかった。
「話だけでもさせてもらえないでしょうか」
「断る」
「社長!」
 宮沢の声が大きくなった。テーブルへ手を突いて身を乗り出している。
「どうして社長がそう決められるんですかね!」

「アメリカのプロデューサーから話が来ているんですよ。あのモデルにって、直々に! 社長もご存知でしょう、ロジャー・バンクスですよ。それなのに奥さんに話も聞かせないで社長が断るなんて横暴だ。社長は意外と専制君主だったんですね。亭主関白以上だ」
「亭主関白以上の専制君主か。心外だな」
 高宮が少し顔をしかめたので宮沢は言い方を変えた。
「いくら若くてかわいい奥さんだからって話もしないのはどうかと思いますよ。社長が外に出したくないお気持ちはわかりますが、すごいチャンスですよ。三生さんに話だけでもしてみてくださいませんか。三生さんさえその気なら」
「妻にはそんな気はまったくないよ。それは君も知っているはずだと思うが」
「前はそうだったかもしれないけれど、もう二年以上も前のことじゃないですか。三生さんの気持ちも変わっているかもしれない。とにかく一度、三生さんに」
「いや、それはないな」
 高宮がソファーから立ち上がった。すっと立ち上がり宮沢を見ている高宮は怒っているようには見えなかったが、体はすでに宮沢が出ていくためのドアへと向き、目がこの話は終わりだと告げている。
 若くとも広告代理店の経営者として名の知られた高宮は宮沢のように社員から独立したクリ
エーターやアーティストであってもいつも気軽に会ってくれるのだが、この話に関しては取り付く島もないらしい。

 この人、マジかよ。
 宮沢はそう叫びたい気分だった。
 こんな話、どこにでも転がっているって話じゃないんだ。アメリカの映画プロデューサーから
あのモデルを映画に使いたいって内々だけど照会が来ているんだ。向こうはなんの実績もないたった一度広告に出ただけのモデルを俳優に育ててみたいって言ってるんだぞ。
 宮沢の心の叫びは止まらない。
「奥さんには選択する権利はないんですか」
 最後の希望だという気分で宮沢は言った。
「宮沢君、私は妻の意志を尊重している。これは妻の意志だ」

「無理だとは思ったんだけどなー」
 白広社のビルを出ながら宮沢はぶつぶつと文句を言った。
 高宮が三生と結婚したことを知っていたし、三生にもモデルや女優をする気などないこともわかっていた。あの時だって一度だけという約束だったのだ。高宮と一時別れていたらしい三生につけこんだわけではなかったが、条件付きで応じてくれたのに宮沢のほうも飛び付いたのだから。
 しかし今回の話は信頼できる知人を介しての話で怪しい話ではなかったし、映画をやりたい宮沢にとっても無関心ではいられない話だった。だが、高宮が言うように三生にその気がないというのも本当だろう。思い浮かぶのは若くて整った顔の三生のあの芯の強そうな目だった。
「ぐわー、ちきしょー!」
 宮沢はそう叫ぶしかなかった。






「沢田君がいる」
 美和がそう言ったのを聞いて三生は美和の陰へ下がった。校舎二階の渡り廊下にいる三生にも外にいる沢田の姿が見えている。沢田は外国人の男と連れ立って歩いていた。学生ではない四十代くらいの白人系の男で、沢田は上を通っている三生たちには気がついていないよう
だった。
「美和、そうやって見ていると」
「そうだね」
 気付かれるからと三生は言わなかったが、美和も見るのをやめて歩きだした。
「あれからまた沢田君なにか言ってきた?」
「ううん、別に」
「ふーん、就職のことじゃないのかな。沢田君て映画を作っているんだって。もしかしてそっちのほうとか」
 同じ四年生なのに就職活動とはまったく縁のない美和がむしろおもしろそうに言う。
 美和は全国規模で名の知られた華道の家元の次女だった。家元である父親も姉も華々しい活躍をしているが、美和自身は華道家として表立って活動することはしたくないと言って卒業後は宗家の仕事を裏で支える仕事をすると言っている。
 お嬢様らしい品の良い外見の美和だったが、学生たちのあいだで知られていることは人の噂などをあまり聞きたがらない三生よりはよほど良く知っていた。
 あれから沢田拓海が話しかけてきたことはなかったが、けれどもキャンパスで、カフェテラスで、講堂の中で、三生が視線を感じて見ると沢田がいるということが何度かあった。

 見られている。
 三生にはあまり好意的な視線ではないように感じられた。やはりあの人は広告代理店が志望なのだろうか。それならばなにか言ってくるだろうが、じっと見ていることはあっても沢田は話しかけてこなかった。
 沢田でなくともこんなふうに人の視線を感じることはある。母親がアメリカ人だから自分の外見がなんとなく人目を引いてしまうことも三生は子どもの頃から感じてわかっていた。いまは肩につくくらいにしている髪は黒くてもしなやかなウェーブがあって緩くパーマをかけているように見える。高校生まではそれが同級生たちのなかで目立ってしまうように思えてずっとショートにしていた。 背も高くなってしまったし、色白で、それはどうしようもないことだったけれど、そのほかのことでことさら目立つようなことがないように気をつけていた。自分では気にしていない、気にしないでいようと思っていても好奇の目で見られるのは嫌だ。ハーフという容姿だけを見られているようで。

 沢田はどうしてわたしを見るのだろう。できれば彼には近づきたくない。
 そう思っていたのに渡り廊下から外階段へ出て降りて来たら英語で話す声が聞こえて三生は思わず足を止めた。さっきの沢田と外国人の男が意外なほど近くにいる。後ろを向いて降りてきた階段をまた上ろうかと思ったが、それはあまりに不自然だ。それに美和もいる。
「吉岡さん」
 そのまま通り過ぎようとして沢田に呼び止められた。沢田は外国人の男を案内しているらしく、でも三生がちょうど来たので話しかけたとでもいうようだった。
「帰るの?」
「そうですが」
 三生が素っ気なく答えると沢田と目が合った。
「なにか」
「あ、いや、いいんだ。じゃあまた」
 学生同士、なにか用があるとでもいうような話し方だったが、沢田にこんな話し方をされる理由がわからない。白人の男はなにも言わずふたりのやり取りを見ている。友人同士ならここで沢田が白人の男に三生を紹介するところだろう。
 白人の男は無造作に頬ひげを生やし、濃い眉とばさつくようにカールしている耳が隠れるほどの長さの髪で、髪もひげも黒かったが目はグレーがかった青っぽい瞳だった。黒いTシャツに
ジャケットを重ねている服装で気取りがなかったが、外国人というだけではない存在感を感じさせる。三生はさりげなく目をそらした。
「まったねー、沢田君」
 わざと軽く言う美和の口調とともに三生はその場を離れた。美和が振り返りながら沢田ではなく白人の男へ気軽に手を振っている。男も手を振っていた。
「知っているひと?」
「まさか。でもちょっと特別な感じっていうか、なにかオーラを感じない? あの人きっとアーティストかなにかだと思うな」
 アーティスト?
「美和もアーティストだからわかるの?」
「わたし? わたしは子どもの頃からやらされているから出来るっていうだけ。アーティストだなんてとんでもありませーん」
 美和はそう言うが、実際のところはどうだろう。
 結婚することになって美和のことを高宮へ話したら高宮は美和のことを知っていた。美和の家の華道流派が白広社の顧客でもあるという。定期的に大きな華道展や家元たちの個展なども行っていて、雑誌や新聞、その他の広告関係に白広社が関わっている。
「昨年の華道展のポスターのデザインは美和さんがおもになってやっていたよ」
 高宮によればそのデザインは高宮も見ていて途中からデザイナーのアドバイスも入れたが元になった美和のデザインが良かったと言った。三生とは平安時代の古典文学の講義で知り合った美和だったが、華道だけでない才能を持っているのだろう。

 わたしが見られているとしたら、きっと外見のせい。
 沢田君の興味を引くようなものがわたしにあったとしても、わたしには関係のないことだもの……。


2010.11.05

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