彼方の空 2
彼方の空
目次
2
「おいしかったね」
「うん。とても」
ゆったりとした和食の店で食事をした後で店を出て車へ乗りながら三生はそう答えた。ここは初めて連れてきてもらった店だったが雰囲気も落ち着いていて料理もおいしかった。おいしいものを食べたら元気が出た気がするなんて、わたしって単純だなあと三生は思ってしまった。
三月に結婚してからしばらくは休日も親戚への挨拶に出かけたりとなんだか落ち着かなかった。父と二人暮らしだった三生は自分では家事はできるほうだと思っていたのだが、大学の新学期が始まるとやはり両立にはいろいろと慣れない事もあった。
「疲れた?」
高宮の片手がそっと三生の腕へ触れた。手のひらのやさしい感触だった。
高宮は三生の大学での勉強が第一だといつも言う。留学はやめたけれど大学院へ進んで勉強を続けて将来は美術品の保存や復元に関わる研究や仕事がしたい。そんな三生の希望を大切にしてくれる高宮だからこそ三生は家事もしっかりやろうと思っているのだが、こうして食事に連れ出してくれる。
車を運転する高宮の横顔。
結婚してから気がついたことだが、高宮はときどき眼鏡をかけることがある。いつもというわけではなくそれほど視力が悪いわけではないらしかったが、夕暮れ時に車の運転をするときなどに見えづらいことがあるので眼鏡を作ったと言っていた。シルバーと黒の細いフレームが黒い髪の高宮の外見に良く似合っていて三生はつい見つめてしまった。
「眼鏡も悪くないね」
高宮が前を向いたままで言った。
「え?」
「そんなふうに三生が見つめてくれるのなら」
やっぱり気がつかれていた。
でも都会の夜の絶えない灯りに照らされている彼の顔から目が離せない。時折三生を見る彼の瞳から。三生が愛する人の顔だった。
「見つめすぎ?」
「そんなことはない。私はいつでも三生に見つめられていたい。結婚しても、結婚して何年経っても三生に見つめられていたい。でもそんな熱い視線で見つめられたら早く家へ帰りたくなってしまうのが難点かな」
……この人はこんなに大人なのに。
そう思って三生は思わず笑ってしまった。
ネクタイははずしていたけれどまだスーツで仕事中のような雰囲気なのにステアリングを握りながら大真面目な顔でこんなことを言うなんて。
「……わたしも早く帰りたい。うちへ」
そう言いながらやはり顔が赤くなってしまった三生に高宮も笑った。
「ちょっと……や……」
「嫌?」
抗議の言葉にも高宮は気にしていない。
「だって……こんなふうに……」
今は高宮の腕の中で紅潮した三生の肌。頬も熱く、ぴったりと接している肌が触れあうのさえ三生には愛撫に感じられる。
抱きかかえられてゆっくりと湯へ身を沈めながら高宮の足の間へ三生も前を向くように座らされたが、マンションの浴槽で大人がふたりではいかにも狭い。後ろから回された腕に抱き締められながら肌と肌とが隙間なく密着して三生の肩や首筋に口づけする高宮の息を直接感じる。
「新しい家の風呂は大きくしよう」
楽しそうに言う高宮。そう言いながら上気してあたたかい血の色が透けて見えそうな三生の乳房を手で包んでいる。三生が思わずもがいてしまいそうになっても狭くてできない。
「動かないで」
動きたくてもできないのに。
「三生はあたたまった?」
あたたまったというよりは熱くされている……。
「熱い……」
「そう? じゃあ」
三生を支えながら高宮が立ち上がる。そのままバスルームを出るかと思ったのに後ろから引き戻された。
「あ」
思わず浴室の壁に手を突いた三生が身をよじるように振り返った。
「扇情的だ」
どっちが、と三生は思う。
彼の肌から水滴が流れていく。黒く濡れた髪。ほほ笑んでいるような彼の瞳はやさしさと同時にはっきりとある意思を感じさせる。
こんな表情を見せられてしまったら。
立ったままの三生の腰を引き寄せている手。彼の指が入り込んで三生の体がびくっと震える。指が潤みの中を滑るように動くたびに抑えきれず体が動いてしまう。灯りのついたバスルームの中で、体はまだ濡れたままで、しかも立ったままでと思うと余計に三生の体が震えてしまうけれど、それをわかっていて三生を震えさせているのも高宮だ。
「……っく」
彼にしがみつくこともできない。どうすることもできなくて浴室の壁にもたれてしまってお尻を突きだしてしまうような姿勢になってしまうのがひどく恥ずかしいのに、体の感覚が恥ずかしさを上回っている。膝が震えてもう立っていられないのに体の中が確かな質感に占められて支えられている。
「……やっ、……あっ!」
三生の声が浴室に響く。いつもより自分の声が大きく聞こえて背が反るようにびくつく。中心から広がる快感の波に任せて目を閉じたまま力が抜けていく。
そっと体の向きを変えられて抱きしめられた。まだ落ち着かない息で肩が上下している。
「三生」
うっすらとあけた目に高宮のほほ笑んでいる顔が見える。やさしく、そして三生の表情を見ている。達してしまったのが恥ずかしくてたまらないのに、彼はそうさせながら三生を見ている。
なにもかもを忘れてしまっている顔。いまのわたしはそんな顔をしているはず。
半開きの唇を高宮の胸に押しつけて肌を擦りつけた。小さな喘ぎのように漏らす息が達せられた余韻で震えている。そんな自分が高宮の理性を振り切れさせるだろうということが半ばわかりながら。
愛されて少しずつさらけだす顔。
それはすごく恥ずかしいけれど……。
そのまま三生は高宮に抱きあげられた。大きなタオルにくるまれるともう一度抱きあげられてベッドへ横たえられた。
「三生は……熱いな」
この人はそうさせておいてそんなふうに言う。
高宮らしい余裕のある言葉だったけれど、暗い部屋の中でもわかる三生を欲する彼の目の色。あっというまに占められて溶けてしまいそうなのに緊張している体の中に感じる彼の圧力は苦しいくらい。それでいてもっと求めてしまう。熱を持ったままの体がもう一度高められていく。
「……はっ、あ……」
「愛している」
快感に上りつめようとするときの三生の声はかすれていて言葉にならなかったが、ふたりには同じ快感に体を揺らしているのだと感じられる。髪が額にかかり、そうしながら三生を見ている夫の表情は三生にしか見えない。
「あっ……!」
跳ねようとする三生の体を押しつけながら彼も強く締め付ける三生に抱かれている。高宮が吐息のように詰めた息を吐き出しながら目を閉じ、そしてまた目が開かれた。息が整うのを待ってやっと彼が体をずらすと三生の体からも同時に力が抜けていった。
くったりと力が抜けたままの三生を高宮は起き上がって見ている。三生の投げ出した手が彼の手を離さない。しっかりと握りしめられながらその手に口づけが落される。
愛しい人。
愛している。
2010.10.24
目次 前頁 / 次頁
Copyright(c) 2010 Minari Shizuhara all rights reserved.
|