彼方の空 1
彼方の空
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その日の講義が終わって本やノートを片付けていたときだった。隣に座っていた友人の中田美和が三生(みおう)の腕をつついた。
「え?」
顔を上げた三生の前にひとりの男が立っていた。
「吉岡さんだよね」
そう言ったのはハードなデザインのジャケットもシャツも黒、ブラックジーンズのパンツでちらりと見えたネックレスだけがシルバーという黒ずくめの服装の男子学生だった。
「ふーん、意外と普通なんだな。広告代理店の社長と結婚したっていうからどんなスゲー美人かと思ったら」
あまり表情を変えないで言うデザインに凝った服装の男子学生は学内で見かけた記憶は あったが、それだけだ。
「わたしに用ですか」
「いや、別に」
……だったらなぜ話しかけてくるのだろう。
三生がいぶかしげに思ったのがわかったのだろうか、立ったままの学生はじっと三生を見降ろしている。
「長谷川先輩が振られたって聞いて」
同級生の長谷川啓太のことを先輩と呼ぶこの男子学生は年下なのだろうか。
「長谷川君と知り合い?」
今まで黙っていた美和が口を出した。
「サークル同じ」
「あー、映像研究会?」
と美和。
「それでわたしに何か」
「いや、別に」
それでは話にならない。そう思って三生は立ち上がった。
「わたし達は学生課へ行かなければならないので。行こう、美和」
三生が大学四年になってから学内で知らない学生から声をかけられる、というようなことが何度かあった。声をかけてきたのは男子学生ばかりではなく女子学生もいた。
最初はそれがなぜなのかわからなかったが、声をかけてきた学生の話すことを聞いているうちにすぐに三生はこれは自分が広告代理店の社長と結婚したからなのだと気がついた。
「吉岡さんの旦那さん、白広社の取締役なんでしょう?」
四月に近寄って声をかけてきた女子学生と話すうちにそう言われた。学部も違い、今までは話したこともない相手だった。
「ね、これは真面目にお願いしているんだけど、個人的にお話しさせてもらうとか、できないかな」
「え」
「紹介してもらえないかなあ。旦那さんにわたしのことを友達だって」
言いかたは友達のような口調だったが、その女子学生の目にはなにか必死な感じがあった。思わず目を見張ってしまった三生へ女子学生は取り繕うように手を振りながら話した。
「あ、そんな、大げさに考えないで。今後のためにも是非そういう人と少しでも話をさせてもらえたらなあって思って」
広告代理店が志望。
この女子学生はそうは言わなかったが、それでもまだ三生へ直接言ってくるだけまともだった。そのうちに「強力なコネ」とか「この就職氷河期なんだから」という言葉が三生の耳に入ってくる。わざとらしく聞こえるように言われたこともあった。
……みんな、必死なのだ。
三生は留学はやめたが大学院へ進学しようと考えていたので今は就職活動はするつもりはなかった。高宮と結婚したこともあったが、院へ進んでその後も日本美術の研究をやっていきたいと考えていた。しかしまわりの同期の学生は皆ほとんどが就職活動をしていて会社訪問を何社したとか誰が内定をもらったとか水面下で情報が飛び交っている状態で、就職の難しいこの時代に皆が必死になっているのが三生にも感じられる。
経済不振とそれがもたらす閉塞感でどの業種も業績が停滞していて広告代理店も例外ではなかったが、もともと広告代理店というのは学生にとても人気のある業種だ。白広社のような大きな広告代理店ならばなおさらで、どんな小さなコネでもきっかけにして頼りたいという学生の気持ちも三生には嫌でもわかった。
それでも三生は注意深くそういったことに関わらないようにしていた。声をかけてきた学生には丁寧に断った。すると「ちょっとくらいならいいでしょ」と言い返されたり「院へ行く人はいいよな」などと言われるならまだいいほうで、あからさまな捨て台詞を言われたこともある。しかし本当に困るのはお願いします、お願いしますと真剣に何度も頭を下げられて食い下がってくる相手だった。三生がいくら断ってもなかなか引き下がってくれない。
はあっと小さなため息が出てしまった。ため息をついたところでどうにもならないが、それでも出てしまう。
高宮の会社のことは三生がどうこうしてもらえる事ではないし、高宮へこのことを話しても彼の答えは予想できる。取締役の社長だからといって会社の人事や採用をすべて彼ひとりの一存で決めるわけがなく、コネだけで採用などそんなことをする高宮でもない。でも一方で就職活動をする学生たちのどんなことでも就職の足がかりにしたいという気持ちもわかる。
わかりはするけれど……。
「あの人、三年生の沢田拓海(たくみ)っていうんだよ。自分の名前言わなかったね」
並んで歩きながら美和が言ってきた。
「うん」
「長谷川君のことを言ってたけど、あの人も広告代理店狙いなんじゃないの。だよね」
黒ずくめの男子学生。
長谷川と友人なのだろう。同好会が同じだと言っていた。
同じゼミの長谷川啓太とはつきあったことはないし、振ったつもりもない。長谷川が好意を寄せてくれていたらしいことは三生も気がついていたが、応えるつもりのない啓太の気持ちへは最初からはっきりと断ってきていた。中途半端なことをして誤解を与えたくない。そう思って。
「長谷川君だって三生が結婚する時にはおめでとうって言ってたのにね」
それなのにどうして沢田が言ってくるのかと考えていた三生と同じことを美和が言っていた。
午後、大学の帰りに夕食の買い物をして家へ戻ると三生は先に洗濯物の片づけなどの家事を済ませて机に向かった。夕食の準備を始めるまでにちょっとだけでも課題を進めておくつもりで本を見ながら自分のノートパソコンでまとめていたのだが、部屋の外から音が聞こえてくるまで高宮の帰宅時間になってしまっていたのに気がついていなかった。
「三生、ただいま」
玄関のほうから声が聞こえてきた。
「あ、うわ、こんな時間?」
ぱっと立ち上がった三生が部屋のドアを開けるともう高宮がリビングへ入ってきていた。
「お帰りなさい。ごめんなさい、気がつかなかった」
「いいんだよ。勉強していたんだろう?」
スーツのジャケットを脱いで置くと高宮が顔を傾けるように少し斜めにしてキスしてきた。軽く唇に触れて離れる。
「ごめんなさい、お夕飯の支度これからなんだ。ちょっと待っててもらえる?」
「これからじゃ大変だろう。それなら今日は外へ食べに行こうか」
「え、でも」
「以前に行ったところでね、いい店があったんだ。三生と一緒に行きたいと思っていたところ」
高宮はいつも三生の作る食事がおいしいと言って、仕事で夕食を食べるとき以外は帰りが遅くなってもほとんど家で夕食を取るようにしてくれている。
特別な物が作れるわけじゃないのに。三生はそう思うし料理のレパートリーに困るときもあるが、もともと料理をすることが好きなのでなんとかやっている。でもいつも高宮は家事も身軽に手伝ってくれる。今夜もきっと手伝ってくれるだろう。雄一さんだって今帰ってきたばかりなのに。だったらやはり外食のほうがいいだろうか。
「じゃあ、あの、そうさせて下さい」
「よろこんで」
高宮が笑いながらそう言ってジャケットを着直した。
2010.10.18
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