金色の香りが降る 4

金色の香りが降る

前頁    目次



 十月。
 小夜子に連絡をすると平日なのに? と聞かれた。
 そうだった。じゃあ土、日ならいい? と聞くと、小夜子はちょっと考えてから平日でもいいですよ、と言った。わたしも有給休暇があるからと。
 小夜子の家へ行く前に健二郎の店へ寄ってパンを買い込んだ。奥さんに言われて健二郎が奥から出てきた。
「お、来たか」
「小夜子さんのところへ来た。おまえのところにじゃないよ」
「あー、そうかい。だったらこんなところでパンなんか買ってないでさっさと行けよ」
「うん、行くよ。健二郎」
「なんだ?」
「ありがとう」
 健二郎はあきれた、という顔をした。
「おまえ、なんか変わった? いや、元からそんなだった?」


 小夜子の家はいつも通りだった。上着も要らない、長袖のシャツ一枚でちょうど良い穏やかな天気。そして庭の木戸を押して入っていく前から香る金木犀の香り。
「あ、いらっしゃい」
 庭の隅で洗濯物を取り込んでいた小夜子が振り返った。笑っている。なんだかまぶしいような、金木犀の香りに高揚しているような気分で俺は入って行った。

 小さな家の中で小夜子はすぐにお茶を出してくれた。俺が来るのを待っていたかのように座布団が置かれていた。
「わたしね、今日と明日、仕事を休むことにしたの。そしたら日曜日まで四連休よ。すごいで
しょ」
「うん」
「崇志さんは? 明日は?」
「いや、じつはね」

「会社辞めたんだ」
「それ、ほんとう……?」
「あきれるだろ?」
「ううん、そんなことないよ。崇志さん、前よりずっと安心した顔しているもの」
「安心した顔か。もともと踏ん切りの悪いほうだったけど」
 手で自分の顔をこする。小夜子はうるんだような目で見ていたが何も言わず、立ち上がった。
「ね、お夕飯食べていって下さい。わたし買い物してくるから」

 小夜子が買い物へ出かけると窓を開けて庭を見ていた。金木犀は小さなオレンジ色の花が地面に少し落ちている。金木犀の花が咲き終わって落ちると地面がオレンジ色になるのよ、と小夜子が言っていた。しかし今はまだ落ちている花は少ない。咲き始めの強い香りがあたりに漂う。
 座布団をまくらにして横になると天井を見上げていた。暑くも寒くもない家の中は静かだった。家の外も。

 ここは静かだな。
 だから眠くなるんだ……。

 いつしか眠りこんでいく。しばらくして体の上に薄い掛け布団がかけられたのがわかった。

 小夜子……。
 掛け布団を持って来て、俺の体へ掛けてくれる小夜子。なにも言わなくても俺を寝かせてくれる小夜子。この家で話をして、昼寝をして帰っていく俺を小夜子はいつでも待っていてくれたんだ。
「小夜子。好きだ……」
 眠りながら言った言葉。布団をかけている手を探ると、小夜子は俺の手を握り返してくれた。
 小夜子はなんと答えるだろう。目が覚めたらそれを聞きたい……。



 トントンと包丁の音がする。
 台所で小夜子が背を向けて料理をしているのに気がついた。ゆっくりと立ち上がった。
「あ、起きた?」
「うん」
「もうすぐお夕飯だから。お風呂へ入る?」
「夕方に風呂? 贅沢だなあ。それに」
 小夜子の前に立つと小夜子が「?」という顔をして見上げた。
「新婚さんみたいだな」
 冗談めいた言葉に小夜子は包丁を使いながら黙って顔を赤くしている。

 まだ明るさの残っているうちに風呂へ入るなど初めてだった。子どもの頃にもこんなことはしたことはなかった。濡れた髪で上がってくると小夜子が別のタオルを出してくれた。やっぱり新婚のようだ、と思う。小夜子が皿を並べ始める。
 魚の塩焼きとキノコの入った炊き込みご飯。青菜のおひたし。みそ汁。
 座卓へ並べられた小夜子の作った品が並ぶ夕食。それが終わって片づけが済むと小夜子が風呂へ入った。

 小夜子が風呂からあがってきたときには部屋の中が暗かった。
「崇志さん?」
「こうして暗くしているとよくわかるだろう?」
「なにが……?」
「金木犀の香り」

 小夜子がとなりに来て座る。ふわりと動く金木犀の香り。
 部屋のすみの窓がわずかに細く開けられている。
「今日は帰らないで……」
 小夜子の小さな、小さな声。
「うん」
 小夜子の腕にふれてそっと押し倒すとそのまま彼女を自分の体で覆った。

 闇を覆う馥郁ふくいくたる香り。家全体が金木犀の香りに包まれている。夜の空気の中でさらにそれが濃く感じられる。真っ暗な、そして香り高いその部屋の中で小夜子は声を抑えていた。ひそやかなふたりの重なる音だけ、息使いの音だけが忍び出る。
「小夜子……」
 すべすべとした小夜子の肌へ唇を滑らす。強く、時には柔らかく小夜子の体をなぞると小夜子は何度も震えていた。



「……何か考えている?」
「なにも……」
「こうなったこと、後悔している?」
「そんなこと……」
 小夜子を腕の中へ入れたまま横たわっている。肌を交わしあった後の静かな息使い。
「ここに住んでもいいかな?」
「え?」
「小夜子が住まわせてくれるならの話だけど」
「ええっ?」
「こっちで仕事を探すよ。それとも小夜子は嫌? 俺がこの家に来るのが」
「そんな、ここは……」
「ここに住みたい。そしたらもうずっと一緒にいられる。一緒にいて欲しい」
 小夜子の背中をなであげた。
「もう俺には無理だ」

 もう小夜子なしでは。
 穏やかな息をする、この小夜子なしでは。

 小夜子と眠りたい……。



「満開だな……」
 翌朝、開けた窓から庭を見てつぶやくように言った。
 ぱらぱらと散り敷き始めた金木犀の花。秋の匂い。
 小さな家に降る金色の香り。

終わり


2009.11.05
金色の香りが降る 拍手する

前頁    目次

Copyright(c) 2009 Minari all rights reserved.