金色の香りが降る 3

金色の香りが降る

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 この人は本当は無口な人なのだ、と思う。けれどもわたしの家へ来ると、子どもの頃のこと、お母さんのことなどを話していく。いつも庭を見ながら。でもやがて話し疲れたように彼の言葉が途切れ黙り込んでしまう。そしてわたしはお茶を淹れなおすふりをして台所へ立つ。しばらくして部屋へ戻ると彼は畳に片腕を腕枕にして横になっている。
 
 話をしに来て。
 眠りに来て。
 
 眠れないのだと、不眠症なのだという彼はいつでも疲れたような顔をしている。少しでもそれが消えるようにわたしはそっと彼の体へ布団をかける。

 彼は時々わたしのことを尋ねる。
 取り立てて話すほどのこともなかったけれど、わたしも家族や仕事のことなどを話した。でも崇志さんはしゃべっている時間よりもはるかに眠っている時間のほうが長い。そして夕方になると静かに起き上がって帰っていく。だから彼は眠りたくてここへ来ているのだと思う。
 それでも彼が来るのはひと月かふた月に一度。そんな彼にわたしは自分自身が不思議だった。なぜ彼を待っているのだろう。なぜ彼が来ても、ただ話して眠っていくだけの彼を待っているのだろう……。



 もうすぐ彼と初めて会ってから一年になる。彼と初めて会ったときには金木犀の花が咲いていた。もうすぐその花が咲く。彼から、崇志さんから今度の日曜日にここへ来たいと連絡があった。また同じように彼は来るだろう。
 わたしは掃除をして窓を開けておいた。ひと月ぶりに彼に会う。晴れ上がった大気。そしてわたしは今日、彼に聞いてみたいことがあった。

「いい天気だね」
 家へ来た彼が珍しくそんなことを言った。男の人はあまり季節のことなどに興味がないのだろう。今まで彼がそういったことを言ったことはなかった。
「金木犀はまだ咲かないのかな」
 わたしが教えた木の名前を憶えていた。
「うん、十月にならないと」
 わたしが答えると彼は庭から視線を戻した。わたしを見ている。わたしは彼がなにかを話し出す前に、今日は彼よりも先にわたしは話し出した。わたしとてそんなにおしゃべりがうまくはない。うまく話せるだろうか。
「あの、崇志さん。崇志さんは今でもあまり眠れないの?」

 一瞬、彼の顔が陰った。うん、と言いながらうなずく。
「じゃあ、今日も眠りに来ているのね……」
 自分でもこれが良い言い方だったかどうかわからない。でも皮肉ではないつもりだった。

「ごめん。俺が来るのは迷惑だったかな」
「ううん、迷惑じゃありません。でも……崇志さんは自分のことあまり話さないから」
 彼は驚いたようだった。
「子どもの頃のこと、お母さんのこと……。でも崇志さんは今のことは話さないわ……」

「俺は……いつも俺は自分のことばかり話していると思っていた。それをいつも小夜子さんが聞いてくれるからなんとなく安心できた」
 崇志さんはわたしを見ている。
「俺は、小夜子さんは最初からあまり距離を感じさせない人だと感じていた。話を聞いてくれて俺を眠らせてくれて……」
「それでも」
 わたしは勇気を出して言った。なにかがこみ上げてくるのをこらえて。
「それでもわたしは崇志さんの今が知りたい……」



「俺の仕事はね、金融トレーダーっていうやつですよ。株の取引の仕事です。今までがむしゃらにやってきて、他のヤツを出し抜くようなこともしてきた。でも、それでいいと思っていた。自分の体調が悪くても仕事が忙しいせいだって思っていた。 眠れなくて、医者に出してもらった薬を飲んでやっと眠れるような毎日だったけど、トレーダーだったら一日でも休んだら遅れを取ってしまうと思っていた。でも、朝起きても起き上がれない日が続いて、あの日は仕事を休んだ。そしてぼんやりしていたらふと思いついたんだ。この家、俺が子どものころに住んでいたこの家はどうなっちゃったんだろうかって。だから来てしまった」

「俺はいい気になってたんだ。人よりも努力したって思っていて、だからここまでになれたって、自分の実力だって思っていた。一生懸命働いた人間に結果がついてくる。当然だ。認められて収入も大きくなって少しは余裕が出てきて、でも、これからが大切なんだ、これからが本当の勝負なんだって思ったらなんだか終わりがないような気がしてきたんだ。きりがないって。 その時、俺はたぶん自分の燃料が切れているんだろうと思ったんだ。車みたいにガソリンがなくなったガス欠だと思った。だからちょっと休んで燃料入れて、そうすればまた走れるって思っていたんだ」

「でも走れなかった。燃料を入れたつもりで走りだそうとしても、どうしても走れなかった。どうしてかな……」
 崇志さんは庭を見てつぶやいた。
「どうしてかな……」

 ぼんやりと庭を見ている崇志さんの顔。その顔は困っているようでも、悩んでいるようでもな
かった。ただどうしてかわからない、というように庭を見ているだけだった。
 わたしには表情を変えない崇志さんがどうしたいのかわからなかったが、手を伸ばすとそっと崇志さんの肩に触れた。
「だからここへ来たのね……」
「そうだ……」
 わたしのほうを見ようともしない崇志さん。
「もうトレーダーの仕事に俺がついていけるわけがない。今は休職中なんだ」

「ごめんなさい……」
「どうして謝るの」
「言いたくなかったんでしょう? 無理に聞き出してしまったみたいで……」
「同情されるのが嫌だったのかもしれない。こんなになってもまだプライドだけは残っている」
 やっと崇志さんが振り返った。目と目が合う。
「でも同情だってそんなに悪いものじゃないでしょう? わたしは崇志さんが来てくれるのが嫌
じゃありません」
 わたしは思い切って崇志さんの体へ腕をまわした。
「それにわたしは崇志さんが話してくれたことがうれしいんです……」
 信じられないといった目でわたしを見る崇志さんにわたしはなんとか少し笑った。
「わたしの言ったこと、信じられないって顔してますよ、崇志さん。でも一番信じられないのはわたしなんです」

 わたしの腕がいつのまにか崇志さんの体を抱いている。崇志さんのほうが体が大きいのに、それでもわたしは今、崇志さんを抱きしめている……。

「また、ここへ来てもいいかな……」
 少しの沈黙。
「来て……下さい。待っています」


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