金色の香りが降る 2

金色の香りが降る

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「…………」
 目が覚めると天井が見えた。板張りの天井と蛍光灯。部屋の中は明るかったが、知らない部屋のような気がする……。
 起き上がって気がつく。薄い掛け布団が体へ掛けられている。畳の部屋の中。低い位置にある腰窓には白いレースのカーテンがかかっていたが、そんなものは以前はなかった……。

 どうして?
 どうして俺はそんなことを?
 ここは……ここは……?



「あ、起きられました?」
 不意に若い女性が現れて、でも俺はまだわからなかった。
「大丈夫ですか?」
 大丈夫?
「……大丈夫です。あの、ここは?」
「わたしの家です。パン屋さんを、沢野ベーカリーをご存じでしょう? パン屋さんがあなたを連れて来たんですよ」
 え……?
「健二郎が……どうして」
「パン屋さんと同級生なんでしょう?」
 布団の脇へ座った女性が安心させるように少しほほえんだ。自分よりも若い、二十代後半といった人なのに。
「あなた、遊歩道の入口のベンチで寝ていたんですよ。パン屋さんが探しに行ったら寝ていたから起こそうとしたそうなんですけど、なんだか朦朧としているみたいで。パン屋さんがここまでおぶって来たんですよ。覚えていませんか?」
 健二郎が?
 ぼんやりした頭をはっきりさせるように額へ手を当てると、なんとなく夢をみていたような記憶があった。半分目が覚めながら誰かとしゃべったような……。
「じゃあ、僕は健二郎に……。すみません、なんだか迷惑をかけてしまったみたいで……」
「いいえ、いいんです。わたし今日仕事が休みなのでちょうど家にいてよかった」
 その時、玄関の戸が開く音がして聞き覚えのある声がした。健二郎の声だった。
「小夜ちゃん、悪いね」
「あ、パン屋さん。お友達の目が覚めましたよ」

「おー、崇志」
 入って来たのはやはり健二郎だった。
「大丈夫か? おまえ、あんまり驚かすなよ。家を見るだけなのに戻ってこないから探しに行ったらベンチで寝ているし。立ちあがらせてもふらついて夢遊病者みたいだし。具合でも悪かったのか?」
「いや、ごめん。なんか……寝てしまったというか。悪い、この人にも迷惑をかけてしまった」
「いいえ、いいんですよ」
「この人は? おまえの知り合いか?」
 健二郎と女性、ふたりを問うように見た。
「俺の女房の高校の時の後輩。この家に住んでいるんだよ」
「この家……?」
「崇志、覚えてないのか? ほら、おまえが子どもの頃に住んでいた家だよ。おまえが今日見に来た家だよ」

 やっとこの女性が金木犀を教えてくれた人だと思い出した。しかし家の中は俺の記憶にあったものとは違っていて、なんとなく窓や襖の位置に見覚えがあるというくらいにしか思い出せなかった。
「俺、ずっと寝ていたんだろうか」
「いや、ここではそんなに寝てないよ。俺はお前を置くと車を取りに店へ戻ってすぐに来たから」
「そうか」
「これから病院へ行くか?」
 健二郎が車で送ろうかと言ったが。
「いや……原因はわかっているよ」

「俺、眠れなくて、ここのところずっと眠れなかったんだ。医者から出してもらった薬を飲むと少しは眠れるんだけど、すぐに目が覚めてしまって。 ここひと月たいして寝ていなかったんだ。体調も良くないし、もう仕事にも集中できなくて、今日は仕事を休んだ。ぼうっとしていて、そしたらふと思いついたんだ。俺が子どもの頃住んでいたあの家、まだあるのかなって。それで来てし
まったんだけど、パン食べてベンチへ横になったらなぜかすごく眠くなって。今までそんなことはなかったのに」
「それで眠りこんでしまったってわけか。意識がないかってくらいに寝ていたぞ。もう少しで救急車呼ぶところだった」
「ごめん」
「いいって。でも救急車呼ばなくてよかったよ。病院で『ただ眠っているだけです』なんて言われたりして」
 健二郎はおかしそうに笑った。

「すみません。ありがとうございました」
 健二郎と家を出るときに頭を下げると健二郎が小夜ちゃんと呼んだ女性が
「いいえ、なんともなくてよかったですね」
 と言ってくれた。
「あの、また改めてお礼に来ます。ご迷惑でなければ」
 女性の少しほほ笑んだ顔と明るい目。
「いいえ、お礼なんて。どうぞ気にしないで」

 東京へ戻ればいつも通りだった。住んでいるマンションの部屋はあの小さな家よりも広くて物があったが、寒々しく感じた。が、それもいつも通りだった。小さな町でも、田舎でも、あの女性の住んでいる町のほうがはるかに人が住んでいるのに違いない。こんなビルだらけのところよりは。

 それからも時々、あの小さな家のことを考えていた。
 また眠れない日が戻ってきて俺はどうしてあの時眠れたのかが不思議だった。
 またあの町へ行けば眠れるのかもしれない……。



 あのベンチへ行くつもりで、またあの小夜子という女性はいるだろうか、と思いながら小さな家のそばを通りがかったが、そう偶然があるわけでもなく彼女の姿は見えなかった。
 ベンチまで行くと腰を降ろして小さな家を眺めた。今日は健二郎のところのパンは持っていない。もしかしたらあのパンがないとだめなのかもしれないな。そんなふうに自分で考えながら心の中で笑った。馬鹿だ。俺。

 あのときはただあの家が見たかっただけなのに。子どもの頃に暮らしたあの家が見たかっただけなのに。
 それなのに、どうしてここはこんなに静かなんだ?
 どうして……?

「またベンチでお昼寝ですか?」
 不意に声が降って来た。顔を上げると小夜子というあの人が俺の顔を覗き込むように立っている。
「いや、寝ていませんよ」
「そうですね。ここはお昼寝向きじゃないですね。風邪ひきますよ」
 俺がなぜ? という顔をしていたからだろう。
「わたしの家からここ、よく見えるんです。あれからここを時々見ているようになって。なぜだか」
 小夜子が少し笑った。
「よかったらうちでお茶でもいかがですか」

 彼女の出してくれたお茶を飲んで、庭を眺めながら子どもの頃のことを話した。母のことも。体の弱かった母との思い出は少なかったが、特別な思い出よりはこの家で暮らした年月が思い出だった。
 今まで自分でもしゃべらないほうだと思っていた。こんなこと、人に話したことなどなかった。穏やかに俺の話を聞いてくれる人がいて普段よりずっと饒舌になっていた。自分で驚くほどに。でもやはり話すことに慣れていない俺は疲れて口をつぐむ。彼女が台所へ行っているあいだ、陽当りの良い庭を眺めながら畳へ寝転んだ。 眠れるだろうという予感があった。そして彼女は寝かせておいてくれるだろうという予感も。
 遠くから聞こえるような小さな物音を聞きながら、落ち込むように眠りの淵へと引き込まれていく……。


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