金色の香りが降る 1

金色の香りが降る

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 二十年振りに降り立った小さな町の駅。駅から少し離れたところにあるパン屋。
 このパン屋の息子は小学校の時の同級生だった。小学校卒業以来会ってないから、もしかしたら会ってもわからないかもしれない。

「おい、崇志(たかし)か? いっやー、久しぶりだなあ!」
 パン屋の息子の健二郎はひどく驚いて、そしてすごく懐かしがってくれた。
「健二郎がいると思わなかったよ。お兄さんがいただろ?」
「兄貴はサラリーマンだよ。神奈川にいる」
「へえ、それでおまえが」
「そうさ」
 腰に白いエプロンを巻いた健二郎が偉そうに胸を張った。
「それより最初はわからなかったよ。だって俺たち小学校を卒業してから会ったこと、なかったもんな。おまえは東京に戻っちゃったし。あ、お母さん、元気か?」
「亡くなったよ。俺が大学生の時に」
「……そうか、ごめん。だったらずっとここにいればよかったのにな。無理に東京へ戻ることなくてさ」
「俺もそう思うよ」
「おまえ、仕事は?」
「うん、休みだ」
 健二郎はへえ、というような顔をしたがすぐに笑顔に戻った。
「だったらうちで夕飯食べて行けよ」
「いや、そうもいかないんだ。ただ、ちょっと、俺が住んでいたあの家、どうなったかなって思いついて来ただけなんだ」
「ああ、あの家」
 健二郎は屈託なく明るく言った。
「まだあるよ」

 店のパンを買って、健二郎は買ったパンを入れた袋の中に土産だと言ってさらにあれこれとパンを入れてくれた。
「家を見てきたら帰りにまた寄れよ」
 健二郎がそう言ってくれて、俺は店を出た。しばらく歩くと左へ折れる道がある。ゆるやかな上り坂になっているその道の先に子どもの頃母と一緒に住んでいた家があるはずだった。
 
 ……なにかの香りだろうか?
 甘いような香りに気がついた。車がやっと一台通れる細い道の両側には変哲のない家々が並んでいたが、やがて突き当たりになり、なだらかな山の端になる。ゆっくりと上り坂を歩いたが、香りの元はわからない。そして日当たりの良いところにある平屋の小さな家は変わらずそこにあった。

 病気がちだった母と一緒にこの家に住んでいたのは小学校の六年間だった。東京よりも空気のきれいなところで暮らしたいという母と俺がこの家に住み、父は仕事の都合もあり東京に住んでいた。そして俺の中学入学を機に母も東京へ戻ったが、もうあれから二十年も経っている。

「これか」
 その家の庭にある細長い枝をたくさんつけた木。葉元に小さなオレンジ色の花をびっしりとつけて、その花が強く香っている。大きな木ではないのにあたりを覆う強い、強い香り。天気の良い秋の大気に満ちている。木から少し離れているのにこの香りに酔いそうだった。

「なにかご用ですか?」
 不意に若い女性の声がして振り向くと玄関のほうから見ている若い女性がいた。その人は板塀の木戸へ手をかけている。
「あ、すみません。あまり良い匂いだったので」
「それ、金木犀ですよ。このあたりは金木犀の木が多いですからね。町中、いい匂い」
「でも僕が子どもの頃はこんな木はなかったな」
 また金木犀の木を見ながら言うと、女性はちょっと首をかしげていた。シャツブラウスにジーンズという服を着た女性だった。
「すみませんでした、失礼」
 俺がそう言うと女性も会釈を返してくれた。
 この人が住んでいる人なのか……。 

 しばらく散策のふりをしてぶらぶらと歩く。
 なだらかな山の斜面が開けたところが遊歩道の入口になっているらしく、木製の細長いベンチがあった。そのベンチに腰を下ろすと小さく息をついた。小高くなっているここから少し離れたところにある、あの小さな家がよく見えた。庭も家の建物も、となりの家も陽の光があたっている。
 少し腹が減ったので健二郎のところのパンを取り出して食べ始めた。クリームパンとあんぱん。こんなに甘い菓子パンを食べるのは久しぶりだ。座っているベンチも日当たりが良くて暖かい。暖かい陽の光、そしてここにも漂ってくる金木犀の香り。
 パンを食べ終わるとベンチへごろりと横になった。まぶしい陽の光を避けて手を目の上へ当てているとなんとなく眠くなってきた。

 どうしてこんなところで眠くなるんだろう。薬だって飲んでいないのに。
 いつも眠れなくて、眠れなくていたのが嘘のようだな……


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