夜の雨 28


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 家の中はきちんと整頓されていた。棚には日用品が置かれ、クローゼットには希和と俺の服とが掛けてあった。俺の書斎代りの部屋も同様にきれいだったが、この部屋はきれいというよりは俺が留守のあいだ使われていないだけだった。
 冷蔵庫と冷凍庫にはいくらか食べ物が置いてあった。冷蔵庫には米と調味料が、冷凍庫には冷凍食品の麺やパスタなどで、キッチンの棚の一角にはレトルト食品や缶詰が並べられていた。
 車が置いてあり、食べ物があるということは、希和はまた帰ってくるつもりなのだろうか。食べ物があることは助かったが。

 翌日、希和の実家へ行ったが人気のない家はどこも鍵がかけられ、カーテンも引かれていて家の中をうかがい見ることもできなかった。実家にいると思ったわけではないがほかに思い当るところもない。希和がどこにいるか知っているのは誰か、と考えて思いついたのは村上だった。希和が結婚するまで手伝っていたクラフト市を主宰している男で、俺と希和にとっては共通の知り合いは村上だけだ。希和の実家の帰りに電話をすると村上は事務局にいるからと素っ気ない声で答えた。

「どうぞ」
 以前にも来たことがある事務局で村上はカウンターの中にいた。もとはカフェだった建物の中は以前とまったく変わっていなかった。
「ありがとう」
 カウンターの椅子に座ると村上がコーヒーのドリッパーをセットしながら
「で?」
 と言った。
「希和のいるところを教えて欲しい」
 単刀直入に言うと、村上は真っ向から俺を見た。
「嫌だね。知っていたとしてもおまえには教えたくない」
 そう言うと村上はドリッパーにゆっくりと湯を注いでいたが、立ち昇る湯気の向こうでいつもの飄々とした風貌は変わらなかったものの表情は冷たかった。
「そうか。そうだな。すまない」
 それ以外に返す言葉がない。村上はコーヒーをカップに注いで黙って俺の前に置いたが、その沈黙はいっそ声高に非難してくれたほうがまだいいと思えるほどだった。野田夫人と同様に村上にもなんの弁明も言い訳も通用しない。

「希和さん、なにも言わないんだよな」
 しばらくして村上がぽつりと言った。
「おまえがそうやって黙っているのと同じように。香那が心配して電話しても希和さん、自分は大丈夫だって言っておまえのこともなにも言わないんだ。もともと物静かな人だけど、ほとんどなにも言おうとしないんだ」
 村上はため息混じりにそう言うと自分のコーヒーカップに口をつけて静かに飲んだ。
「俺はおまえが家族に恵まれなかったからこそ、希和さんと結婚したんだと思っていたんだ。おまえが希和さんに求めていたことってなんだったんだ」

 希和に求めていたもの――。
 手元に置かれたコーヒーカップの褐色の液体からかすかに湯気が立ち上っていた。
 村上も知っていたのか。俺が家族に恵まれないと言ったのは、村上も俺の母親のことを知っていたんだろう。
「おまえはおまえだけど、希和さんにあんな思いをさせるのは許せないんだ。希和さんのいるところは教えない」
 村上のこんな重い声を今まで聞いたことはない。
「わかった。ありがとう」
 礼を言って立ち上がり、もう一度村上を見た。村上は俺をじっと見返したままだった。





 家は前の日に帰ったときと同じように暗かった。ストーブに火を点けても冷え切った家の中はなかなか暖まらず、コートを着たままでソファーに座ってストーブの火を見ていた。ストーブの火は燃えているのにコートを着ていてもソファーからは冷たさが伝わってくる。
 ここはこんなにも寒いところだったろうか。
 山地だし、雪も降るから冬に寒いのは当然なのに希和がいたときにはこれほどまでに寒いと感じたことはなかった。
 静まりかえった家の中はなにも変わったところはなかった。家の中が暖まるのを待ってやっと立ち上がって寝室へ行くと着替えもせずベッドに横になった。日本へ来る前からあまり眠れず、昨夜もほとんど寝ていなかった。ようやく疲労と眠気で限界がきて落ち込むように眠りに入っていったが、眠れるだけよかった。今はこうして眠るしかない。

 翌日はやはり早朝に目が覚めてしまったがそれでも起き出して希和が置いてあった食べ物を食べた。希和が飲んでいたのか、半分ほど残っていたインスタントコーヒーがあったのでそれも飲んだ。食べ物があるということは希和は帰ってくるつもりなのか、それとも俺が帰ってきたときのために置いておいてくれたのか。それは希和に聞かなければわからない。

 玄関からの続き部屋に行くと高い位置に窓がある部屋だったが、部屋の中はあまり明るくなっていなかった。
 ここに希和の機織り機が置かれていることは以前見たことがあったから知っていた。機のほかには壁際に大きな棚があってかなりな量の糸の束が箱に入れられたり紙で包まれたりして置かれていたが、これはたぶん材料なのだろうと思った。
 希和が教えてもらっているという染織家は確か峰田といったか、詳しいことまでは聞かないままで今日まできてしまっていた。希和の仕事もどんなことをしているのか、なにを勉強しているのか、詳しくは聞いたことがなかった。峰田という染織家についてなにかないか探したが、ここには見当たらなかった。
 それからリビングの部屋へ戻って収納を見た。キッチンは別としてテレビの置かれたサイドボードとチェストが収納家具だった。チェストの引き出しを開けて希和が行きそうなところの手がかりがないか見てみたが、中には筆記用具や爪切りといった日常の細々とした物がまとめてあるだけで他にはなにもなさそうだった。サイドボードの扉を開けてみると中には引き出しがあり、その中には黒い書類入れの箱が入れられていた。ふたと本体とがトレーにもなる丈夫な厚紙で出来ている箱で、貴重品を入れてあるのだと見当はついた。開けてみるとやはりその中に銀行の通帳や書類が入っていた。
 結婚するときに新たに作らせた希和名義の銀行口座には年に何回か送金をしてあったから生活費には充分なはずで、そのことについて今まで希和と話したことはなかった。そして同じ箱の中に角型封筒が入っており、封をしていない封筒の中には何種類かの書類が入っていた。病院の領収書が何枚か、どこかの市役所の書類や老人福祉施設の書類と、そして死亡届を兼ねた死亡診断書だった。死亡診断書はコピーではあったが初めて見るものだった。手に持ってそこに書かれた日時や病名などを読んでいく。

 帰ってきてほしいと希和が言っていたのに俺は帰らなかった。永瀬雅子が亡くなったと知らせてきたときも希和を突き離してしまった。母のことを希和がどうしていたのか、俺は知らない。
 他人の手によって書かれた死亡診断書を何度も読み、そしてしばらく眺めていた。形式通りに書かれた書類だったがそのことによって永瀬雅子が死んだという事実だけは今更ながらやっと認めることができた。
 子どもの頃から永瀬雅子が実の母親だということを今まで何度も思い知らされてきて、母親だという事実もすべて排除していたと思っていたのにその事実にこんなにも心が重い……。

 ほかの書類を一枚一枚見直したが、書類はすべて永瀬雅子に関するものだった。病院の領収書はすべて支払い済みだったが、合計するとかなりな金額が支払われていた。希和がこの領収書を持っているということはもしかしたらと思い、銀行口座の通帳をめくってみたが、母が亡くなったのは10月の初めで、通帳には10月末までの内容が記帳されているものの支払いの金額を引き出した形跡はなかった。いや、病院への支払いだけではなかった。公共料金などの引き落とししか記帳されておらず、希和は口座からほとんど金を引き出していなかった。





 立ち上がり希和の機織り機が置いてある部屋へ行くと中は午前の光が差し込んで明るくなっていた。壁に掛けた小さな額のふちに光があたり輝いているのは祖母の織った布だと希和の言っていた布が入れられた額だった。そして機織り機を見ると人が座るところの前側にほこりよけの白い布が掛けられていて、今まで気がつかなかったがその布の上には白い紙袋が置かれていた。平たい紙袋の上には小さな紙が置いてあり、そこには「秋孝さんへ」と書いてあった。
 乾いた音を立てながら紙袋を開けてみると紺色の布地が入っていた。柔らかくふわりとした手触りの布だった。濃淡をつけた紺色の糸で織られており、マフラーのような細長い形だった。

「希和」
 この日、初めて出した声で呼んでみたが、返事があるはずもなかった。


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