真冬のレプリカ 1

真冬のレプリカ

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 白いものが夜の街の灯りに照らされてちらちらと舞い降りてきている。
「……ワーィ、クリ、スマー……」
 「ホワイト・クリスマス」と歌ったつもりなのに声はかすれて半分も出ていない。
 こんな都会でクリスマス・イブに雪が降るなんてこと、本当にあるんだ。クリスマス・イブに雪が降るなんて初めて見た。
 遠くにあるいくつもの灯りに雪はほの白く照らされて降りてくる。どんどん消えていた雪がわたしの上まで来ても少しずつ消えないで残っているようになってきた。公園の地面のすぐ上、もう雪と同じくらいに冷えている。
 このまま雪に埋もれてもいいな……。
 雪に埋もれて春まで。雪山だったらそうなるだろうけど、東京じゃ無理かな……。
 横たわって見上げる空はけっこう明るい。でもわたしのまわりは植え込みの低木に囲まれて真っ暗だ。固くて冷え切った地面に体が震えていたけれど、もうそれも感じない。でもホワイト・クリスマスなら悪くないよね。こうしていても許してくれるよね。

「おい、起きろ!」
 どこかでそんな声がしてぐいっと腕が引っ張られた。なんだ、ホームレスの取り締まり? でも起き上る力もなく腕だけが引っ張られて、今度は体に誰かの手がかかった。乱暴に体を起こされたけれど、起き上れない。
 いいの。ほっといて。
 意識があったらきっとそう言うけれど、言う前にわたしの意識は遠のき、誰かに触れられている感覚も消えた――。





 それは突然だった。
 唇になにか触れた感覚にふっと意識が戻って、目を開こうとした瞬間に口の中に何かが入ってきた。
「……げ、ほっ」 
 あたたかく甘い味。なにかわからないけれどジュースを温めたみたいな味だった。むせて開いた口の端からだらだらとこぼれていく。
「げほげほげほっ……」
 なんか苦しい。口にあてられたグラスから液体を注ぎ込まれて、でも飲めるわけがなく、どんどんこぼれていく。
「げえーほっ、げほっ」
 思わず体を折り曲げるようにして咳き込んだらグラスが離れた。
 ひどい。飲ませるにしてももっとやり方があるでしょうに。それに飲ませてくれなくていいから。
ほっといてほしいのに。
 げえげえ言いながらやっと目を開けて見ると、あごの下から胸まで濡れて冷たい。
「な、なにする……」
「いいから飲め」
 高飛車な言いかたは男の声だった。ぐいとグラスを突き付けられている。
「嫌。飲みたくない」
「なにを言ってるんだ」
 ……って、それ、わたしのセリフです。いったいなにを言っているのか、この人。ああ、もしかしてクリスマスパーティーですか。大金持ちだけど寂しい中年男がホームレスを引っ張ってきて一緒にクリスマスパーティーって、そんな映画なかった? でもわたし、そういうの用ないんで。
 そっぽを向いたらグラスがさらに押し付けられて温かいジュースがこぼれかかった。
「わっ」
「飲めって言ってるだろうが」
 目の前の顔は寂しい大金持ちって感じじゃなかった。ひどく不機嫌な顔をしている。
「嫌だって言ったけど。これ以上無理に飲ませると吐くからね」
 ぐうと目の前の男が唇をひん曲げた。ザマミロ。高飛車な男は嫌い。
 脇の下に当てられていたホットジェルの湯たんぽみたいなものを払いのけて、寝かされていたソファーから立ちがって廊下へ通じているとおぼしきドアへ向かった。足に力は入らないけれど、ドアまで行き着けば。
「待て」
 こんな知らない部屋の中で待てと言われて待つほど馬鹿じゃない。男を無視してドアに向かって歩いて、でもドアノブに手が届く前に体が引き戻された。
「はなして」
 男は無言でわたしの服の背中のところを持つとまるで荷物のようにぶら下げながらくるりと方向転換した。男の背が高いせいで足が、わたしの足が着かない!
「ちょっと、なにするのよ。はなしてよ。はなせーっ!」
 男は答えもせずに別のドアを開けた。そこは浴室で、放り込まれるようにそこへ入れられて立ち上がろうとしたらバーっと音がして水が降ってきた。
 冷たい。あっけにとられて見上げると、男が自分のスーツが濡れるのもかまわずにシャワーの
コックを押さえていた。冷たかった水がすぐに温かい湯になって降ってくる。わたしの着ている服も体も髪の毛もすべてが濡れて湯気が上がり始めても男はへたり込んだままのわたしを睨みつけていた。
「歩けないだろう。おまえ、自分が低体温症寸前だったってわかっているのか」
 だからなんだって言うのよ。
 そう言いたかったが、男はやはり怒った顔でわたしを見おろしていた。シャワーのお湯が着ているニットセーターとジーンズに沁み込んで重たく肌に張り付いているのが感じられる。コートを着ていたはずなのに今は着ていない。なんなのよ、もう。
 濡れた髪のしずくを手で払ったら男が不機嫌な顔のままで、でも少し表情を変えた。シャワーを止めると浴槽のふたを外して「入るんだ」と言った。わたしが無言で濡れたセーターを無理やり引っぺがすように脱ぎ始めると男は浴室を出てドアを閉めた。
 わたしがなにも言わなかったのはもうなにかを言うのも面倒だったからだ。服が濡れてしまったからそうするしかなかったというのもあるけど。男が不機嫌で怒っているように見えたからじゃない。
 浴槽のお湯は心地良く、ボディソープもシャンプーも置かれていた物を使った。服が濡れているんだけど、と思いながら浴室のドアを開けてみると脱衣所にはタオルと一緒に真新しいパジャマが置かれていた。無地の白っぽい緑色のパジャマ。まるで病院で入院患者が着るパジャマみたいで、ぶかっとしていたが男のものというわけではなさそうだった。こちとら平均よりやや小さめ、だけどあの男は背が高かった。
 濡れた服を浴室内に置いたままパジャマを着て出ていくと男はさっきのリビングにいた。
「あたたまったか」
 思いやりがあるのか、ないのか、平静な声で男は尋ねてきた。表情も怒ってはいないような顔つきになっていたが、楽しい顔ではない。
「食べるといい」
 男はわたしがなにも言わないのを気にするふうでもなくテーブルを示した。そこには温かな湯気の立ち昇るみそ汁の椀やコンビニ弁当が置かれていた。
「いらないです」
 わたしがそう言ったとたんに男の顔が不機嫌顔に戻った。わかりやすい人だ。
「いいから食べろ」
 言いかたが命令形になっている。そのうえ睨むようにわたしを見ている。きっとこれ以上なにか
言っても無駄だろう。さっきみたいに実力行使されて食べ物を口へ突っ込まれるはずだ。
 男はわたしがテーブルについて食べ始めるのをじっと見ていた。まだ濡れたスーツのままだ。上着やワイシャツのかなりの部分が濡れたままなのがわかる。インスタントの味のするみそ汁をすすり、ごはんを口へ運ぶと男はやっと監視を緩めて濡れている髪をかき上げた。
「着替えてくる」
 そう言うと男はリビングから出て行った。着替えるということはここは男の家なのか。マンションみたいな感じがする。あまり生活感はないけれど。
 ドアの向こうで男がほかの部屋へ入る音がすると箸を置いてじっと様子をうかがった。一拍の呼吸の後に立ち上がり、さっき男が出ていったリビングのドアを音をたてないように開けた。たぶん廊下の向こうの部屋が男の部屋。男の部屋とは逆に進み、その先が玄関だった。
 玄関のドアノブに手が届く。その瞬間に体が引き戻された。さっきと同じ繰り返しだ。デジャブかと思った。
「どこへ行くんだ」
 がっちりと体を抱き込まれ低い声で頭の上で言われた。抱擁とは程遠い押さえ込みみたいにされて。放して、と言ったら放してくれるだろうか、この男は。
「コンビニ」
「どうして」
 男は信じられないという感じをありありとさせながらそう言った。真冬にパジャマのままコンビニへ行くなんて言ってもそりゃあ信じられないでしょうけど。逃げるつもりだったんだろうと、わたしの腕をしっかりと握っている男の手が言っている。
「パンツ、はいてないとなんか変な感じするんですよね。スースーするっていうか」
「パンツ……!」
 ぎょっとしたように男の手が緩んだ。置いてあった着替えがパジャマだけで下着にまで気が回っていなかったらしいのが明確だ。見た目はデキる男ふうなのに、惜しいなあ。男の手が緩んだ隙にわたしは男の拘束から抜け出した。
「着替えは明日用意する。だから逃げないでくれないか。あんたを捜し出すのに三カ月かかった。またあんたに逃げられたら徳永さんに会わせる顔がないんだ」
 徳永。
 それはわたしの義父の名だった。


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