わたしの中の小さな小鳥 4

わたしの中の小さな小鳥

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 浅く、寝苦しい眠りで何度か目が覚めた。暗くした部屋の中でまた眠りへと入り込もうと目を開けずにいたが、そんな眠りは余計に体が疲れただけだった。夕方になって仕事へ行くために仕方なく起き上った。
 昼過ぎにホテルから帰ってきてワンルームの部屋へ入るとドアへ中から鍵をかけた。だるくて体が痛くて、まるで熱が上がり始めた時のようだったが、のろのろと服を脱いでシャワーを浴びた。会社が寮代わりにしているこのワンルームの部屋にシャワーがついていて良かった。鏡に映っている体の表面にはうっすらと指の跡が残っているような気がする。腹や太ももの内側を洗いながら春彦さんにされた一部始終を思い出してしまいそうになってシャワーを顔にあてながら息を吐いた。
 ピルを飲んでいなかったばかりに。そう後悔しても遅い。恩着せがましく避妊具を使われて、そう仕向けられた。一年も空白があったのにそんなことはなんの言い訳にもならないほどに何度もいかされた。自分から腰を動かしてしまって、何度も。体の奥に残っている、したあとの感覚は、突かれ、擦られたところがまだ押し広げられているように感じる。手荒く体を洗いながらこみ上げてくるものに喉の奥が詰まったようになったが、泣くよりも疲労感のほうが激しくてシャワーを済ませると すぐに横になった。考えたくない。どうでもいい。でも記憶はすぐには消えてくれない。考えずにいられるのは眠っているときだけだ。でもその眠りも浅く、あまり良く眠れなかった。

 翌朝、仕事を終えて帰るときに通用口を出ようとして、前から歩いてきたここの従業員のひとりがわたしを見ながら
「今日はお迎えは来てないよ」
 と、言ったときにわたしは通用口の外を見るよりもその男の顔をじっと見てしまった。人の良さそうな少しさがった目尻の顔の、でもその男は普通に通り過ぎて行ってしまった。二十代半ばの男だった。交代の勤務をしている人らしく夜勤でも見かけたことがあったかもしれないが、よくわからなかった。ここで働く人たちは工場内では一年中長袖の作業服とエプロン、帽子とマスクをして働いているから顔も良く見えない。同じ工程にいるか、話すことがなければどんな人なのかもよくわからない。
 そして、その人から言われたことが皮肉なのだと気がついた。それとも冷やかし。昨日のことを
言っている。あの人が車であんなふうに待っていて出入りする人たちに見られていたから、こんなことを言われるんだ。が、この皮肉のおかげで今日は春彦さんが来ていないことがわかった。少し息を抜いて通用口を急いで出ながら、今日はピルをなんとかしなければならないと考えていた。もともと生理痛がつらいからといって処方してもらったものだったが、春彦さんの家を出てから以前のクリニックへは 行けなくなってしまって、だからわたしはピルを飲んでいなかったのだが、今日はどこか別のクリニックへ行かなければならない。まだ朝だったから食事をしたりしてクリニックの開く時間に合わせて部屋を出た。
 部屋を出ると狭い駐車場になっているところに軽自動車が止まっていた。見慣れない車には警戒してしまうが、なんとなく若い女の子が好むような車だった。このワンルームマンションは女性専用でわたしと同じ会社の人が何人も住んでいる。だからここの誰かの車かもしれない。そう思って通り過ぎようとしたときに人の声がした。
「どこ行くの」
 後ろから言われてぎょっとした。その声の主が軽自動車の向こうでにこっと笑っている。まるで知り合いのように気安い感じの顔だった。
「同じ会社の広川だけど」
 そう言われて気がついた。その男は帰る時に『今日はお迎えは来ていないよ』と言ったあの若い男だった。でも何も答えようがなく、濃い青い色のポロシャツを着た男を曖昧に見ていたら。
「あの、悪かったなと思って」
 なんのことなのか。
「帰るとき、あんなこと言っちゃって。怒った?」
 なんだ、と思った。
「……べつに。なんとも思っていませんから」
「あー、やっぱ怒ってる。ごめん、そんなつもりじゃなかったし」
 ごめん? ごめんって、この人、謝っている?
 その広川という人はちょっと済まなそうな顔で笑って目がタレ目になっている。だけど謝るくらいなら、あんなこと言わなければいいのに。
「いいです。ほんとうに。それじゃわたし、用があるので」
「俺、今日はひまなんだ。送ってあげるよ。どこまで?」
 これってナンパ? この人、馴れ馴れしい。いらつく神経を抑えて言ってやった。
「それあなたの車? こんなところに止めていると誤解されますよ。ここは女性専用なんだから変質者がうろついているって通報されますよ」
「えー、俺、変質者? あんまりじゃね?」
 会話のきっかけを与えたくなくて切り上げるように言ったら少しタレ目な彼の顔がしかたがないというような表情になった。あきらめてくれたらしく車へ戻って乗ったので駐車場を出ていく軽自動車を見送って完全に見えなくなってからわたしは歩きだした。

 街中にあるクリニックを出た時は、もう昼過ぎになっていた。
 なるべく気兼ねなく入れるような、ピルの使用に理解のある医者でありますように。そう思って
行ったクリニックでは割とすんなりと処方してもらえた。薬はもらえたが、でも、すぐには飲めない。生理とタイミングを合わせなければならないから。それは以前から知っていたことで、あと一週間先の生理の予定日まではわたしにはどうすることもできない。 そして帰ってきてワンルームマン
ションの建物の前に止まっている車に気がついたとき足が止まった。これ以上ないくらいに気持ちが重くなる。 それは出かける前の広川という男の車ではなく、黒いドイツ製の高級車だった。今、最も見たくもないものだった。
「おかえり」
 車に乗ったままの春彦さんがドアの向こうから言った。わたしはなにも言いたくなくて黙って通り過ぎたかったが、嫌な気持ちをそのままに仕方なく立ち止った。
「こんなところへ止めないでください。迷惑です」
 春彦さんがわたしを見上げている。
 こんな人目につくところへ車を止めて。この人はいったいいつからここへ止めているんだろう。高級ブランドの最新モデルと思われる艶やかに光る車で。今日の春彦さんは黒いスーツだった。そしてベージュがかったグレーのシャツとネクタイも全く同じ色の無地。あたりさわりのない顔をしているくせに彼の着ているものは嫌みなほど趣味がいい。言い争うよりもこの状況の嫌さにわたしは目をそらして彼の着ている服だけを見ていた。
「待っていたんですよ」
 春彦さんがしらっと言う。この前、彼に抱かれて何度目かの絶頂にもう力も入らなくて後ろから腰を抱かれるままに引き寄せられて耳元へ「また来ます」と言われたが、これは会うことを約束したわけではなかった。彼が一方的にそう言っただけで、わたしたちに約束は成立しない。わたしには会いたくないと言う権利はないらしい。いや、結婚した時からわたしにはなにもなかった。こんなところに車を止められて、結局わたしはこの車に乗るしかないのだから。

 彼がわたしを乗せて来たのはこのまえのホテルだった。この町で一番大きな、そして小さな町でありながら古くからあるというホテルだった。食事をどうですか、と言った春彦さんにわたしは首を振った。彼と一緒に食事なんて。
「そんなに嫌そうな顔をしなくても」
 そう言いながら部屋へ入った春彦さんは上着を脱いで椅子の背へ乗せた。
「まあ、ここへ座ったらどうですか」
 そう言って春彦さんはソファーへ腰を降ろした。立ったままのわたしを春彦さんは寄りかかりながら足を組んで見ている。
「でも、そういう嫌な顔も悪くない。詩穂さんには表情を消した顔をずっと見せられてきましたからね」
「そういうことを言いたくて来たのですか」
「このまえはあまり話ができなかったので。座って」
 でも、わたしは座らなかった。話をさせなかったのはこの人だ。
「私の奥さんは思いのほか強情ですね」
 奥さんとさりげなく言う。嫌な人。
「離婚してください」
 わたしにとっての要点だけを言うと、春彦さんの顔が少しあきれたようになった。
「詩穂さんはそれでいいのですか」
「ほかになにがあるっていうんですか」
 いらつく感情にわたしの声がだんだんと大きくなったが、春彦さんは平然と続けた。
「そうなったらあなたのご実家もおとなしくしていないでしょうね」
 実家。両親。
 考えなかったわけではなかった。離婚したいから実家へ帰るということはわたしにはできないことだった。春彦さんと離婚しても、しなくても、両親はわたしを連れ戻そうとするはずだ。
「……両親なんて関係ない」
 両親のことを言われるのはわたしにはもう生理的に受け付けられない。触れられたくない。
「いや、ご心配されていますよ」
 春彦さんの慇懃な、糖衣にくるんだような見透かした言いかたは彼もわたしの両親がどんな人間かということを知っているのだろう。わたしと恋人を金で別れさせたあの両親を。
「帰ります。話すことなんてありません」
「待つんだ」
 ドアへ向かったわたしを春彦さんがすばやく腕をつかんだ。
「離してください。あなただって、あなただって同類でしょう」
「同類?」
 春彦さんの表情がちょっと変わった。
「私が? あなたのご両親のように?」
 不快そうな言いかた。失敗した。
 彼の手に力がこもった。引き剥がされるようにドアから連れ戻された。
「離して!」
「嫌だ」
 短い彼の答え。ほとんど壁に押しつけられて春彦さんの顔が迫っている。すぐ目の前にある彼の顔。
「離して」
「言いたいことを言っておいて、それはないでしょう」
 手がわたしの肌に触れている。Tシャツの裾から入った手が服を押し上げてブラジャーの中へ
入ってきてしまう。揉まれ、なでられて、服から出されてしまった胸へ唇がつけられた。彼の唇に吸われている乳首が痛い。
「固くなっている」
 唇を離され首筋へ這われながら思い知らされるように言われて、かあっと体の芯が熱くなった。指のあいだに乳首を挟むように胸を揉まれてだんだんと息が上がってくる。繰り返される逃げ場のない快感に壁へ押しつけられて首を振っても、彼の唇に肌が擦られるだけだ。みぞおちから臍へと下がった手がズボンの中へ 入ってきつそうに這っている。顔をそむけて手を突っ張らせても彼の手は離れない。もがいているわたしのズボンのホックがはずされてしまった。ゆるんだズボンの中のショーツへ手が入ってくる。
「いや……」
「嫌ですか」
 素肌の奥へ彼の指が入る。後ろから前へと動く一本の指が襞を割る。わたしが体をねじって離れようとしても腰がもがくだけ。
「あっ……」
 彼の指が滑る。的確にわたしを捕えている。滑りながら擦られて腰が上へ逃げそうになるけれど逃れられない。彼の手がショーツの中でうごめいている。
「嫌と言っていながら、もうこんなに濡れている」
 違う。
 彼のほうがうわ手なだけ。体だけ。体が刺激されているから。
 彼の指が下から入ってきた。襞の中は滴りそうなほど濡れている。荒い息で胸が上下するたびに彼の指も上下する。
 

 嫌。
 でも、こんなにされてしまったら。
 春彦さんが片手で器用に自分のズボンを下げた。彼の硬く突き出したものがわたしの太ももへ押しつけられる。それを避けたくて腰を引くのに彼はわたしを離そうとしない。立ったまま片足が上げられてしまう。彼はなにもつけていない。彼に入られたら。
「ゴム、つけて欲しいですか」
「う……」
「今日は素直でないですね」
 彼の指が離れた。水音をさせながら抜かれて、あっと思ってしまう。……いかないで。
 春彦さんが離れてわたしは壁に寄りかかったまま情けなくずるずると座り込んでしまった。避妊具をつけて戻ってきた春彦さんに座り込んだままの腰を前へ引っ張られた。膝を曲げたままの姿勢で壁際から離されて床へ横たえられてしまう。
「これならいいでしょう?」
 避妊具をつけた春彦さんのものが開いているわたしへとつけられる。シャツとネクタイをしたまま下半身だけ裸になって、わたしの足のあいだにいる。そんな彼の姿がすごくいやらしい。入ってきた彼が前後に腰を揺らしている。

「どう、して」
 彼は子どもと言いながら、避妊している。おかしい。強引で容赦なくわたしを高めているくせに。
 打ち込まれる快感に喘ぎながら声に出てしまった。
「詩穂さんにはピルを飲んで欲しくない」
 上体を起こしたままの春彦さんがわたしの中を動く。床の上で繋がれたままどうしようもなく極みへと向かっていく。体が緊張して快感を受け入れる。小刻みに繰り返される波がわたしを高みへと放りあげて、そして落とされる。
 床に落ちているわたしのバッグ。あの中に持っているものを春彦さんは知っている。
 知っているんだ……。


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