わたしの中の小さな小鳥 5

わたしの中の小さな小鳥

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 頭へ手が触れて、なでられたようだった。枕に顔をつけたまま、ぼんやりと髪をなでる手を感じていた。感じていたけれど素肌にかぶさっている掛け布団とベッドの心地良さに動きたくない。目を開かずにいるとその手がさらりと頬に触れて髪をかきあげた。 ゆっくりとした手の動きになでられていて、それが心地良い。わたしの髪も肌も慣れたように触っている手のひらからあたたかさが伝わってくる。このままでいたい。このまま眠らせて。心地良さにまた深く眠りに沈み込みそうになって……。
 目を開くとベッドに腰を降ろしている春彦さんが見えた。ワイシャツとスラックスを着ている姿だった。もう窓の外が暗い。日が暮れている。
「起きましたか」
 この人が……。さっきの手はこの人の手だろうか。そうとしか思えない状況だった。ここはホテルで、わたしは裸で、しかも体が重く思うように動かない気がする。昨日からの睡眠不足と体の疲れでこの人に抱かれた後で眠ってしまったんだ。
「詩穂さんの寝起きを見るのは初めてですね」
 言われて目に手を当てた。きっとひどい顔をしている。普段はわたしはそんなに寝起きは悪くない。でもあんなふうに抱かれてくたくたにされて帰る気力も失くされた。目覚めがいいわけがない。
 春彦さんはいつもと同じだった。穏やかで落ち着いた声音に、わたしを抱く直前の不快そうな
怒った様子はもう窺われなかった。
「このまま寝かせておいてあげたいのですが」
 そんなわけにはいかない。春彦さんがわたしの仕事のことを気にしてくれたとは思えないけれど、たぶん彼も帰らなければならないのだろう。でも、ともかく起こしてくれた。肘をつくようにしてやっと起き上がったが背中や腰が痛い。 二度、それとも三度だっただろうか。床のカーペットの上でされてからベッドへ寝かされたのを覚えていない。
 掛け布団の上にホテルの浴衣のようなものが置いてあったのでとりあえずそれを着たが、これは春彦さんがここに置いたのかもしれない。わたしのために? そんな親切をするくらいなら。
 服に着替えるあいだも春彦さんは椅子に移ってわたしを見ていた。見ないで欲しい。これではわたしだけが一方的に気まずい思いをさせられている。
 バッグを探して見回すと春彦さんの脇に置いてあった。わたしがバッグを取ろうとすると春彦さんが先にバッグを差し出した。
「これは私が預かっておきましょう」
 彼が手にしているピルのシートを見て、出かかった声を飲みこんだ。
 やはりこの人は故意にそうしている。わたしを抱いて、それが正当な事のように。唇を噛みしめるのをこの人に見られるだけでも悔しい。

 それでもわたしは仕事へ行った。夜九時半、夜勤の従業員たちが何人も来ていた。
「おはよう」
 夜でもおはようというのはこの会社の習慣だったが、従業員の通用口で声をかけてきたのは広川さんだった。昨日の朝と同じ青いポロシャツだった。
「……おはよう」
「あれ、顔色良くないよ。大丈夫?」
 広川さんの目尻の下がった目がのぞきこむようにわたしを見ていた。
「べつに、なんでも」
 広川さんがいつのまにか並んで歩いていたが、すぐに更衣室だったのでわたしはひと言答えただけだった。
 それから仕事だったが、やはり疲れた体に仕事はきつかった。なんでこんな思いをしなきゃならないんだろうと恨めしい思いだった。やっと仕事が終わって更衣室で着替えてからちょっとベンチで休んでいたが、ほかの従業員たちはどんどん帰って行く。 ため息をついて女性更衣室を出ると広川さんが廊下の向こうで立っていた。広川さんがなにか言ってくるかもしれない。なんだかそんな気がしていたのだが。
「送っていくよ」
「いいですよ。近くだから」
「いいから」
 にこっと笑った人の良さそうな顔。その顔に警戒心が消えてしまったわけではなかったが、もう疲れていて断るのも面倒になってわたしは広川さんの車に乗った。

「明日休みでしょ。どこか行く?」
「ううん、出かけない。ちょっと風邪ひいたみたいだから」
「えー、大丈夫?」
「たぶん。ただの風邪だと思うし」
 広川さんの気安い話し方。わたしは愛想良くないのに話しかけてくる。車の中は芳香剤なのか、なんとなく甘い香りがこもっている。飾りのようなものはなかったけれど、白いハンドルカバーがつけられていて、やっぱりこの車、女の子っぽい。この人の車なのだろうかと思ったが、すぐに着いてしまったので礼を言って車を降りると広川さんが「体、気をつけろよ」と言って窓ガラスを上げた。この人のこういうところは普通に良い人らしいのだが。
 そして二階にある自分の部屋へ行こうと階段を上がり、廊下に出たところでわたしの部屋の前に誰かがいるのに気がついた。
 逃げ出したい。そう思った時には遅かった。コンクリートの廊下に異様にヒールの音を響かせてこっちへ歩いてくる。着ているブラウススーツはひと目でわかるこの人のお気に入りのブランドのもの。一見派手ではなく、むしろ流行とは無縁のオーソドックスなデザインだが、この服にも髪型や化粧にも手間と金がかけられている。
「あなたって人は!」
 片手にハンカチを握りしめている。今時こんな芝居がかったことをする人がいるとは。その人はわたしが顔をそむけたことにさらに逆上したようだった。
「なんて恥さらしなことをしているの。勝手に家を出て、こんな、こんな……」
 責められても仕方がない事をしていると思うが、この人からこんなふうに言われるのには耐えられない。 
「すぐに帰るのよ。これ以上のわがままは許しません」
「許してくれようとくれまいと、わたしには関係ない」
「なんですって!」
 この人が逆上するのはわたしが逆らったときだけ。ひとりっ子のわたしに歯向かわれるのがなにより癇に障るらしい。しかし声を荒げたがすぐに自分を取り戻したようだった。この自制心も相変わらずだ。
「お母さんもお父様も心配したのよ。これ以上わたしたちを心配させないでちょうだい。お願いだから戻って」
 ハンカチでちょっと目頭を押さえている。それは家出した娘に戻るように懇願している母親で、頑なに拒むわたしが馬鹿な娘のようだ。
「嫌です」
 良き妻、良き母として隙なく作りあげられたその人の顔を見たくない。その人がぐいとわたしに近づいて反射的に後ろへ下がってしまった。
「詩穂さん、あなたは小笠原家の娘で沢村春彦さんの妻なのよ。自分の立場がわかってないのね」
「わかっています。跡継ぎを産む道具」
「詩穂!」
 母の顔が歪んだが、すぐに抑えたように声を落として言った。
「わかっているのなら、どうして」
「……お母様」
 あなたは本当に女ですか……。

「とにかく帰るわよ。春彦さんもあてにならない。あなたの居場所を調べているから、連れ戻すから待ってくれと言っておきながら一年もかかって。なにを考えているのかしら」
 母の手が伸びてわたしの手首をつかんだ。細い指につかまれてぞっとする。
「詩穂!」
 手を振り払い、くるりと体を返して道へ向かった。
 これ以上ここにいたくない。どこでもいい。ここでないどこかへ行きたい。この人のいないどこかへ。
 母のわたしを呼ぶ声が聞こえた。血が逆流しているように感じるのに体が冷たい。走っているのに足元に地面を感じない。道へ出ようとして急に車が近づいてきて体が竦んだ。まさか?
「乗って」
 広川さんが車の中で手招きしている。わたしは飛び付くようにドアを開け、そして乗った。




「なんかワケあり? あの人」
 広川さんが運転しながら尋ねた。
「……べつに。関係……ない」
 わたしの声はたぶん震えていただろうが、広川さんはなにも言わず運転している。見覚えのある通りに面した店や建物が過ぎていくのをぎゅっと手を握り締めて前だけを向いて見ていた。車は広い道をけっこうスピードを上げて走っている。早く、早く離れてしまえばいい。とにかく遠くへ。誰も来ないところへ。
「どこ行く?」
「どこでもいいから。どこかへ行って」
 車が幹線道路を抜けて郊外のほうへ向かっていた。広川さんは道を知っているらしく躊躇なく車を走らせている。家や建物がまばらになりはじめていたが、なにも感じなかった。どこでもよかったし、行先を尋ねようともしなかったが、広川さんが向かっているところがわかったのは車がラブホテルの駐車場へ乗り入れられたときだった。
「どこでもいいって言ったから」
 なにも言わないわたしにかまわず広川さんは車を降りて助手席のほうへ回ってきた。
「ほら」
 ドアが開けられて手を引っ張られた。
「どこでもいいんでしょ?」

 ……どこでもいい。
 誰もいないところならどこでもいい。


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