わたしの中の小さな小鳥 3

わたしの中の小さな小鳥

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 お客ですよ、と事務所の人に言われて嫌な予感がした。わたしに客なんて。
 作業服の上着を脱いでTシャツにズボンはそのままで休憩室から外への通用口へ行くとそこにはドイツ製の高級車が止まっていた。夜でもいくつもの灯りのある工場の敷地内でその車は黒光りする光をまとっていた。そしてその車の脇に立つ男がこちらを見ている。
「久しぶりですね」
 そう言われたわたしの表情がこの人には嫌な顔をされたと思ったのだろうか、小さくため息をついたようだった。深夜の三時だというのにきっちりネクタイを締めたスーツ姿で、この人らしいといえばそうなのだが。
「乗りませんか」
 黒い車を示された。
「仕事中ですから」
 ご用件は、と尋ねる気にもなれない。目の前の人もわたしが話したがらないことがわかっているような、そんな顔でいる。
「ここは二十四時間、動いているようですね」
 その人が白い巨大な工場の建物を見上げた。一年中、休むことなくコンビニやスーパーで売られている弁当類を二十四時間体制で作っている工場だった。
「すごいな」
 大きな建物に感心したように彼が言った。そんな世間話をするために来たのか。とてもそうは思えなかったが。
「いつも夜、働いているのですね。こんな時間に」
 その問いにも答えなかった。こうしてわざわざ訪ねてくるのだから、わたしが深夜に働いていることを知っているはずだろう。
「休憩時間が終わりますから失礼します」
「詩穂さん」
 戻ろうとしたところを呼び止められた。
「……手を離してください」
 ほんとうなら振り払いたいくらいだった。その人の憶えのある体温に手首をつかまれてわたしは目をそらして顔を歪めた。
「悪いのは私ですか。違いますよね」
 そう言って春彦さんは手を離した。泣く気もなかったが、たとえ泣いたとしてもこの人の妙に穏やかな態度は変わらないだろう。
 そのまま振り返りもせずにわたしは仕事場へ戻った。

 待っているかもしれない。
 朝になって仕事を終えて出てきたら、思っていたとおり春彦さんは待っていた。通用口の前に止めた黒い車が帰っていく従業員や出社してくる社員たちからじろじろと見られていても彼は一向にお構いなく高級車の中にいた。仕方なく運転席のドアの横に立つ。ガラスを下げたままのドアの向こうから春彦さんが見上げた。
「男の子みたいですね」
 今、言うことだろうか。わたしは長かった髪を切り首筋が出るくらいのショートにしていて、着ているシャツとデニムパンツはありきたりなものだったにしても。
「そうしていると若く見える。いや、年相応ですか。詩穂さんがまだ二十二歳だということを忘れていました」
「二十三になりました。ご用件は」
「乗りなさい」
 春彦さんが運転席で前を向いた。普段は穏やかに話すこの人の冷たい言いかた。怒っているのだろう。この人が怒る理由には思い当たるが、一年も前に家を出たわたしのことをまだ怒っているのか。どうせ逃げても夜の三時に訪ねて来るくらいだ。わたしが住んでいるところもわかっているのだろう。あきらめて助手席側へ回ってドアを開けた。わたしが乗ったのを確認すると春彦さんは自分の横のドアガラスを上げてエンジンをかけた。

 やっぱりというか、春彦さんは当然のようにこの町にある一番大きなホテルへ車を入れた。まだ午前七時前だったが、彼はなにも言わず部屋へ入った。
 ツインの広い部屋のシンプルな内装は清潔だったが新しさは感じさせなかった。その部屋で椅子へ座れとも言わず、振り向いた彼の表情はわたしには初めてみる人のように感じられた。もともと夫婦とはいえ他人だった。会社のため、財産のため、そして子どもを作るために双方の家が合意して結婚させられた。子どもさえ生まれれば体面だけを保って後はなにをしてもいいというような結婚だった。
「あんな仕事をしているとは思いませんでした」
 弁当工場での仕事はこの人から見たら『あんな仕事』だろう。それともお嬢様育ちのわたしからは想像できない仕事だという意味だろうか。
「派遣社員ですか」
「そうです」
「いつも夜勤をしているのですか」
「ご存じだからあの時間に来たのでしょう」
 この人は仕事の話をしに来たのだろうか。そんなことはないだろうと心の中で打ち消して窓の外を見た。目を合わせないわたしを春彦さんはソファーの前で立ったまま見ている。
 仕事は交代制を選ぶこともできたが、わたしは夜勤を希望した。昼夜を逆にして人目につかず生きていくことがわたしに必要なことだと思えたから。春彦さんの家を出ても離婚はできないだろう。わたしたちが結婚していることで保たれている利害関係があり、それがどこまでもついてくる。 でも、この人は、春彦さんはそんな自分を取り巻く環境が平気なのだろう。そうでなければ恋人がいるのにわたしと結婚したりしない。好きでもない女を抱いて、快感を与えてよがらせることもできる人なのだ。それはわたしが一番わかっていることだった。だから逃げ出した。
「帰ってくる気はありませんか」
 答えない。
「いまの仕事も、住んでいるところも、あなたにはそぐわない」
 春彦さんが近づいてくる。後ずさりしたい気持ちをわたしは目をそむけたままでこらえた。彼はわたしの手を取って持ち上げるとじっとその手を見た。
「離してください」
「あなたはそればかりだな」
 彼の手が離されるともう一方の手でそこを覆うようにつかんだ。肌に残る彼の手の感触、それは彼に工場の前で手首をつかまれたときから消えないで残っていた。長い指と手入れのされた形の良い爪を持つこの人の手で触れられた記憶だった。品の良い印象とは裏腹に、この手で、指で、味あわされた快感。体の芯に残っているようなその記憶にわたしは顔をそむけたままだった。
 今のわたしと彼の状況はとても居心地の悪いものだった。この沈黙はいたたまれない。でも彼とはいたたまれないどころか、なにを感じることも避けてきた関係だった。いまさらなにも言うことはない。
「離婚してください」
 話を端折るようにわたしが言うと春彦さんの表情が少し変わった。苦笑いか、嘲笑なのか。
「私がよくても私たちの両親が承知しない」
「あなたが離婚届けを書いて下さればいいんです。お互いが成人なのですから」
「そうやって、また」
 けれども春彦さんは続きを言わなかった。
「生憎と私にも離婚する気はありません。あなたと子どもを作らなければなりませんから」
 子ども……。

「なにを言って」
「あの後、ほどなく彼女とは別れました。いや」
 彼は言葉を切ったが、わたしはなにも言えなかった。
「あなたがいた頃から彼女とはうまくいかなくなっていました。あなたも気がついていたでしょう。彼女はインテリアの仕事をするためにフランスへ行ってしまいました」
「そんなこと、わたしの知ったことじゃない。それに言ったはずです。わたしでは子どもはできませんよ」
「嘘を言うんじゃない」
 彼が目の前に来た。体が触れそうなくらいに目前に立たれて思わず後ろへさがったが、膝の後ろにベッドの端がぶつかった。
「子どもができないなどと。あなたの嘘にまんまと引っ掛かってしまった」
 言いかたはとても静かなのにその口調には刺さるような冷たさがあった。
「ピルを飲んでいたのでしょう?」
「知りません」
「そう。それならばここであなたを抱いてもあなたにはなんの心配もありませんね。あなたが子どものできない体だというのなら。そうでしょう?」
 彼の前から逃れようとして手がぶつかり合ったが、両腕をつかまれた。体を回されて上半身が前のめりにベッドへと倒されて押さえつけられてしまった。背中にかかる重みに足がもがいて床を擦るが、春彦さんの体はびくともしない。わたしを覆うようにかぶさっている。
「っ……」
「暴れるからですよ」
 するっと尻がなでられた。ズボンのうえからなでられたのにその手の感触に体が竦む。床へついたわたしの膝の外側へ同じように膝をついた春彦さんの足がわたしの足を押さえている。春彦さんが上半身を起こすと背中の重みが離れたが、体は彼の手に押さえられたままだ。彼のもう一方の手がズボンのふちにかかっている。体を動かそうとしても効き目はなく、下着ごとズボンを引き下ろされた。
「あなたが抵抗するのは初めてだな」
 彼の手がゆっくりとわたしの尻をなでる。ぞくりと神経が痺れる。なでられてふたつの丸みの谷間へと指が入ってくる。やめて、と心の中で言っても声に出せない。

 ……さわらないで。

 もう春彦さんの指は柔らかな襞を分けるように侵入しようとしていた。襞の中央を奥へとなぞられるとそこはあっけなく滑る。緩慢にそこを何度も往復する指。やさしいと感じるほどの。でも、さらに奥へ差し込まれようとした指にわたしは身をよじった。
「そんなに嫌ですか。そうとも思えませんが」
 ふっと春彦さんの息を背後に感じた。身をよじっても離してもらえるわけがない。笑われているのか。
「あなたはいつでも私のされるままになっていた。あなたのほうから動くことはなかった。そんな結婚だったからそれでいいと思っていました。でも、感じていたでしょう。あきらめていたにしてもあなたの反応は驚くほど素直だった」

「忘れたなんて言いませんよね」
 耳へ吹き込むように言われて背中に震えが走る。ズボンが膝にまでずり落ちて、狭い隙間に差し込まれた春彦さんの指が濡れた音をたて始めていた。ベッドカバーをつかんで耐えようとしても体はどんどん高まる。もうこれ以上は耐えられない。自分の短く繰り返される息がベッドへ響いている。
 不意に背中を押さえられていた手に力がかかって、うっとあごが上がった。強くベッドへ押しつけられ、背が反ってしまう。
「足を開いて」
 春彦さんのひどくやさしい声。低い声でささやく。春彦さんが膝を入れてわたしの足を押し広げるのにもう抗う力が入らない。開かれた足の間でぬるつく突起が擦られている。細かく擦る指に腰ががくがくと揺れている。

 ……わたしの中で小鳥が啼いている。

 体がずり下がりそうになるのに春彦さんの片手はわたしの上半身をベッドへ押しつけて跪かせている。肘をついて体を起こすこともできない。もがけばもがくほどそれは抵抗ではなく濡れた音を響かせるだけの振動になる。
 たまらない。逃れたい。逃れたくない。
 一気に頂点にいかされてしまう直前に春彦さんの指が奥へ入り込んだ。奥を押されただけでもう止めようもなく彼の指を咥えこんだままきゅうと締め上げる小刻みな収縮が体全体に快感を伝えて広がっていく。
 でも、それだけじゃなかった。わたしを知り尽くした指が動く。たったいま達したばかりで引き攣れている中から抜け出ると突起へ滑らされる。それだけで体が縮みあがる。押され、滑らされ、さっきよりも強く潰されて、なかば強引にふたたび頂点へと向かわされる。この人はわたしを知っている。どこをどうすればわたしが動くのか良く心得ている。一年の空白の時間を一瞬で忘れさせてわたしを喘がせている。
「いや、あっ……」
「やっと声が出ましたね」
 ぬるりと滑らせて指が離れる。上り詰める寸前なのに、放り出されたようになった快感が行き場を失って体の疼きが止めようもなく、気が遠くなりそうだった。 

 ……やめて。やめないで。

 ベルトをはずす音と服の擦れる音が聞こえたが、春彦さんの手が背中から離れているのにも気がつかないでわたしは尻を後ろへ突き出したままだった。後ろへ向かって開いているわたしの入口に触れて上下になぞる春彦さんの硬いもの。それだけでいきそうになるのに、いまにも入りそうにぬめりを押して、そして。
「避妊しましょうか?」
 この人はやさしく、そして酷薄だ。
「して……ください」
 これでわたしの嘘を認めてしまった。わたしのすべての嘘を。

「素直に認めれば手間がかからないものを」
 言いながら背後で彼がなにかを破る音と、つけている気配がする。そしてまた彼が背中へとかぶさってきた。かぶさりながらうつぶせのままのわたしのシャツを押し上げて肌をなでる。背中から腰へと撫でられて、むきだしになっているわたしの尻が手で掴まれると避妊具をつけた春彦さんのものがちょっと引っかかるように入ってきた。ゆっくりと押し広げられながら埋まり込むその圧迫感に背が反る。奥まで入った春彦さんが自分の腰を前に出してぴったりと隙間なく押しつけている。
「詩穂さん」
 返事をしないわたしに彼は返事を促しているようだった。仕方なく顔をベッドへつけたまま返事をする。
「は……い」
「あなたはまだ私の妻だ」

 じっと動かない。
 わたしの中を占めながら、張り詰めている緊張を感じさせながらも彼は動かなかった。熱く、静かにそこにいる。
 先に体を動かしたのはわたしだった。ベッドに肘をつき、前後に体を揺らしだす。彼のものを締め付けながら動くたびに自分の中で春彦さんのものがぬるっと滑る。わたしが腰を動かすたびに突かれ、引き、またぶつかる。背後に聞こえる彼の息づかいが徐々に荒くなり、ついには春彦さん自身が打ち付け、果てるまで繰り返される。

 わたしの喘ぐ息が、細く高い小鳥の声のように響く。
 動くたびに、肌が打ちつけられるたびに、わたしの中の小鳥が啼く。快楽に夢中になって目も見えずに啼く。一度知ってしまった本能の快楽を喜ぶように啼いている。

 ベッドの上に引き上げられて、もつれるように足と足が絡み合う。お互いが腰を動かし貪るように何度もぶつかり合う。一度としてわたしは目を合わさないのに、春彦さんの狂おしいような愛撫が続く。わたしは目を閉じて抱かれるだけ。快感を感じるだけ。春彦さんが感じている同じものを与えられるままに貪っているだけだった……。




 ほとんど脱げてしまって腕に引っかかっているだけのシャツに下半身はなにもつけていない姿で起き上がった。体のあちこちが痺れるように疲れていて、どこの関節も強張っている気がする。わたしの脇には春彦さんのシャツや上着が散らかり、くしゃくしゃのベッドカバーと入り乱れていた。少し前のわたしたちのように。
 同じベッドで彼は眠っていた。きっと昨夜は眠っていなかったのだろう。ずっとわたしを待っていたから。彼の寝顔を見るのは初めてだった。決してわたしとは一緒に眠らなかった人。わたしはこの人の妻ではあったが、ベッドを共にするのは抱き合うときだけだった。

 ……そんなことを思い出してもどうにもならないというのに。
 服を着てわたしは春彦さんを残したまま部屋を出た。


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