わたしの中の小さな小鳥

目次

２

「嫌じゃないですか？」
　翌日もやってきた彼が尋ねた。首を振る。
　春彦さんはわたしへの無理強いがないように気にしてくれているようだ。きっと無理に抱くと強姦しているみたいで嫌なのだろう。
「助かります」
　そう言ってわたしの服の中へ手を這わせる。
「お風呂は？」
「いいですね。いつかのように一緒に入りましょうか」
　いつかのように。
　新婚初夜のように、とは言わない。

「昨晩の続きのようですね」
　ゆるゆるとわたしの体を愛撫しながら春彦さんがささやくようなちょっと低い声で言う。ふたりで湯につかっている浴槽の中で。
「この体勢は無理があるかな」
　わたしの背後からまわされた両手で乳房が包まれて揺らされる。そんなに大きくはない乳房は完全に彼の手のひらに包まれているが、指の間から乳首がはみ出しているのがちらちらと見える。春彦さんの息がだんだんと荒くなり、首や頬に吹きかけられてわたしの体が動いてしまう。湯が揺れて跳ね上がる。
「あ……」
　春彦さんが立ち上がりながらわたしも立たせた。ふたりで浴槽の中に立ち、壁に手をついたわたしの背後から春彦さんの左手がわたしの胴を巻く。腰を引き気味に固定されてうしろから彼の右手が差し込まれてくる。
「あ……っ……」
　膝下の湯が揺れて音を立てる。春彦さんが片足を割り込ませてわたしの足を開かせながら指で襞の中を突起にまで届くように前後にさするから無意識に足が動いてしまう。浴室の中に湯の水音とわたしのぬめりの水音が混じりあうような音が響いている。濡れて、もう止まりそうもないほどに濡れきっていて、 高まっていく前のもどかしいような感覚がただひたすら指の動きを求めている。お尻に硬くなった春彦さんのものが何度もあたるそのたびにわたしの中が反応する。
「あっ、あっ……！」
　びくびくっと腰が揺れる。気が遠くなりそうなくらい感覚が集中して、それ以外の力が抜けて行く。あそこの感覚だけが体を支えている……。
「うっ」
　達した直後の触れられただけでも突き抜けそうに感じられる突起がまた押された。
「いや……」
「刺激が強すぎますか」
「……まだ……少し、待って……」
「あなたがすごく感じているのがわかる。もう入れさせて下さい」
　我慢する必要などないのに。
　わたしに浴槽の縁へ手をつかせると、まだきゅっと絞るように固くなっている入口を押し開くように春彦さんが入り込んできた。その質感、ぐいぐいと押し付けられてぶつかる。わたしの腰が春彦さんの両手でつかまれてうしろへ突き出されている。
「はっ……はっ……」
　荒い、なんて荒い春彦さんの息。体のぶつかりあう音が浴室に響く。
「いい……とても……」
　何度でもぶつかる。突き上げられるたびにわたしは喘いだ。一度達した後なので強い刺激が痛いくらいなのに、それでいてもっと強い刺激でなければもう感じることはできない。
「っく……」
　わたしの中が引き攣る。春彦さんのことなどかまわず締め付けた。
「ああ……」
　春彦さんの動きが止まった。引き攣った体の内部で彼が大きく波打つのが感じられた。しばらくそのままで、それからやっと彼が抜け出た。その感覚だけでもたまらない。ずるずると膝をついてしまう前に体を引き上げられると彼の腕に支えられながらベッドへと連れて行かれた。体も髪も濡れたままベッドへ寝かされて春彦さんがわたしの足を開く。やはり正常位が好きなのか、これがやりやすいのか。そう思っていたら彼が目線を下げてわたしの両足のあいだへかがみこんだ。
　頭を下げた彼の目に晒されている。足を開いただけで自然に開いているだろうそこへ彼は口をつけた。突き出た小さな突起を舌でなぶられる。彼が唇で、そう思うだけで羞恥で震えるようだ。まだこんな気持ちが残っていたなんて。
「あっ、あっ、あっ」
　口をつけたままで春彦さんに顔を左右に振られて、動きにつられて声が出てしまう。わたしの体が否応なく反応して、それでも彼は口を離さない。彼の口のまわりを濡らしているもの、それはわたしのぬめりだけじゃない。彼がさっきわたしの中へ放ったものも混ざり合っているはず。それを春彦さんは舌で舐めるように音を立てて愛撫をした。わたしの体からあふれてきたものを味わっているように。抵抗がないのだろうか。 それでも彼の舌で突起を舐めあげられるのは快感だった。わたしの足のあいだにある彼の頭をまさぐり、濡れた髪をかき乱しながらわたし自身を彼の口へ押し当ててしまう。そしてまたわたしは達せられて、そのあいだに力を取り戻した彼にもう一度貫かれた。膝が胸へ着きそうなくらい曲げられてわたしは起き上がれない。両腕を開いたままベッドへ押しつけられているわたしをやはり彼は見ていた。腰を動かしながらどこか探るような目だった。目で探り、彼は体でも探っている。きっと彼も比べているのかもしれない。

　これは子どもを作るためだけにしていることだろうか。これほどまでの快感をわたしに与えて。
　わからない。
　春彦さんはわたしを妊娠させれば義務が終わると考えているはずだ。ほんとうは恋人に自分の子どもを産ませたいと考えているのだろう。それは自然なことだ。けれども人間は自然ではない状況でもセックスできる。わたしたちのように。しかもお互いが快感を感じている。どうせなら嫌ではないようにと言うこの人はやさしいのだか、心が広いのだかよくわからない。わたしへの愛情がないことは確かだが。





　半年経ってもわたしは妊娠しなった。
　わたしのかつての恋人は最初から避妊をしなかった。きっとわたしが妊娠する事を望んでいたのだろう。もちろんそれはわたしと結婚したいからでもあった。わたしが引き継ぐ財産をあてにしていたのだろう。わたしだってそんなことくらいわかっていたが、わたしも好きな人の子どもが欲しいと思った。そうすれば親に反対されても、なし崩し的に彼と結婚することもできるだろうと。けれどもわたしは妊娠しなかった。だから彼は金かねでわたしと別れさせられた。手切れ金としては破格すぎる金額で。
　今もわたしは妊娠する気配がない。春彦さんは相変わらず穏やかだった。セックスだけではなくこの人の印象が穏やかなのだ。病院へ行って検査をしようなどということも言わない。行為の激しさとは裏腹に、淡々と、むらなくわたしを抱いている。
　けれども双方の親たちから子どもはまだできないかと電話で言われた。わたしはそう言われたが春彦さんも言われたかどうかわからない。この家にいないから。それでも彼は相変わらずわたしを抱きにやって来るし、わたしの生理サイクルだって心得ている。不機嫌になることもなかった。

「できませんね」
「そうですね」
　いつものようにわたしを抱いた後でぽつりと彼が言った。子どものことだ。それから起き上がると腹が空いたな、と言う。
「なにか食べさせてもらえませんか。いつも食事を用意してくれているみたいだから」
　気がついていたらしい。
「べつに好きで作っているだけですから無理に食べてくださらなくてもいいんです」
「無理じゃありませんよ」
「でも、帰って食事が待っているのでしょう？」
　皮肉ではなくて言ってみた。恋人が待っているのにここで食事をしていったら食べられないだろう。
「まあ、そうですが……」
　珍しく彼が言い淀んだ。恋人とうまくいってないのだろうか。それはそうだろう。彼女にしてみたら跡継ぎが必要だからといって自分の恋人が他の女と結婚して子どもを作るために通っている。彼が自分の恋人のままで自分を愛してくれていても他の女を抱いている。そんなことを快く思う女はいない。
　しかし春彦さんほどの人ならばそれはわかっていただろうに。それとも手っ取り早くわたしを妊娠させればさっさと事が済むと思っていたのだろうか。
「彼女にはちゃんと話してあります。私は彼女を愛しているし、それは今でも変わらない。ただ彼女にとってつらい状況なのは確かです」
　食卓の前に座った春彦さんが言う。並べられた皿を前に彼が箸を取った。
「おいしそうだ。いただきます」
「どうぞ」
　汁ものを温めてご飯をよそってやる。
「詩穂さんは食べないのですか」
「いいえ、いただきます」
　夫婦のように一緒に食事をする。わたしの作った料理を。
「すみませんね。こんなことを話して」
「いいえ」
　恋人のつらさがわかるだけ、この人はいい人なのだろう。

　春彦さんの来る回数が増えている。
　だからといって毎回抱かれるわけではない。彼もそこまでは体力がもたないだろう。わたしの
作った食事を食べ、新聞を読む。テレビを見たり本を読んだりする。そして風呂へ入る。セックスしない日でも。しかし遅くなっても彼は必ず帰る。この家には、わたしのもとには泊まらずに必ず
帰っていく。これではどちらが妻かわからない。まるでわたしが愛人で、わたしの元へ通って来ているようだ。彼の恋人が本当の妻で、そんな位置付けになっているように感じられる。それは間違いだとわかっているが。
　愛しい女。自分の子どもを産んでほしい女。毎晩帰っていくべき女。妻にしたい女。
　彼がわたしを抱くのは彼女を愛しているからだ。子どものできない彼女を思いやってそうしているのだから。わたしが妊娠したら彼はここへ来る必要はない。

「検査しましょうか」
　わたしを抱くためにとなりに来た春彦さんに言ってみた。
「私もですか？」
　男の人には抵抗があるのだろう。女にだってあるが。しかしそんなことはわざわざ言わなくてもわかっているはずで、春彦さんはちょっとため息をついた。
「わかりました。そうしましょう」
　そう言って彼はわたしを抱く。変わらず熱心な愛撫だった。
「不思議ですね」
　なにが？　と思わず問うと、
「詩穂さんはこんなに濡れて熱くなっているのに、……私だって。なのにどうして子どもができないのでしょう」
　愛情がないから、とは言わない。愛などなくても妊娠は出来る。
　硬く立っている彼のものがわたしにまとわりつく。入ってきて動き始める。
「原因はいろいろでしょう。わかりません」
　濡れすぎている。彼の出し入れが何の抵抗もなく滑る。
「私は……このまま子どもができないほうがいいと思うことがあります」
「でも、それでは」
　ぐいと彼がわたしの奥を突く。が、それでもわたしは言う。
「また、別の女性を、あてがわれますよ」
　中途で彼が抜け出した。こんなことは初めてだ。
「あなたは……」
　頭を抱えている。
「傷つけましたか？　ごめんなさい」
　春彦さんは黙って服を着始めた。帰るということだ。服を着て立ち上がると言った。
「なかなか辛辣なことを言う人ですね」

　でも、言葉よりも、もっともっと人を傷つけるものがある。
　彼に抱かれるたびに。
　彼の指がわたしの濡れた襞を行き来するたびに。
　わたしの中へ彼が注ぎ込むたびに。
　そしてわたしの体が震えながら快感の極みに達するたびに。

　わたしは言葉よりも傷ついている。
　傷ついて、そして喜んでいる。





　翌日から彼は来なかったが、こちらからなにか言う気もない。
　同じ毎日が過ごせるだけ……。

　それでもしばらくすると何事もなかったかのように彼はやってきた。以前と変わらない態度だった。わたしもなにも言わない。
「精子の数がやや少ないということです」
　彼がいつものようにわたしの素肌に触れると、まるでこだわらない口調で調べてきましたと言った。
「……それは」
「でも、子どもを作れないというわけではありません。できにくいのならそれなりの方法を取ることもできるそうです」
「人工授精とか……？」
「まあ、そんなところです」
　彼が乳房をさぐる。
「じゃあ、必要ないでしょう」
「なにが？」
「わたしとのセックスが、です」
　春彦さんが動きを止めた。じっとわたしの顔を見ている。
「人工授精するのなら、だったらわたしを抱く必要はないでしょう。最初から、最初からそうすれば良かったんだわ。そうすれば」
「詩穂さん」
「子どもを産むことは拒否しません。どうぞわたしの体に植えつけてください。誰の子でもかまいはしない」
「詩穂さん」
「わたしは……、わたしの……」
「どうしたのですか。あなたらしくない」
　春彦さんは明らかに困惑の表情だ。
「らしくない？　それはあなたでしょう。抱く必要のない女のところへ来るなんてあなたらしくない」
「詩穂さんは」
　春彦さんが体を離した。
「本当はとても強い心を持っている人なのですね。いつも静かだから気がつかなかった。でも強いだけじゃない。哀しんでいる」
「やめてください」
「私に抱かれるのを哀しんでいる。体は感じていても私に抱かれるのを哀しんでいる」
「あたりまえでしょう。好きでもない人と」
「じゃあ、そろそろ私たちの関係を変えませんか。子どものためだけではなく抱き合ってもいいはずだ」

「……本気ですか」
　春彦さんが笑った。
「本気です。本気であなたを好きになってみたい」
　好きになってみたい。
「じゃあ、まだ好きになったわけじゃないんですね？」
　わたしは叫んだ。
「詩穂さん？」
「春彦さん、あなたは忘れている。わたしへ最善を尽くすと言ったことを。あなたができる範囲の最善だったはずです。あなたの恋人も、だからわたしのことを受け入れたのでしょう？」
　春彦さんはなにも言わない。
「彼女を裏切り、わたしを裏切るのですか」
「べつにあなたを裏切っては」
「そうですね。裏切る価値などわたしには最初からありはしない。でも、あなたは最善を尽くすと
言ったじゃないですか。わたしのためじゃなく彼女のために」
「つまり」
　春彦さんが起き上がった。
「彼女を裏切るなということですね」
「そうです」
「詩穂さんは私をどうとも思っていない」
「そうです」
　……わたしにそう言わせるあなたを。

「わかりました。人工授精をしましょう」
「彼女にしてください」
「え？」
「わたしも調べました。わたしでは人工授精も難しいでしょう。問題があるのはわたしも同じです。わたしは妊娠できない」
「それは」
「人工授精するのなら彼女としてください。跡継ぎだけなら別にわたしでなくてもいいはずです」

「あなたは」
　服を着て春彦さんが言うともなくつぶやく。
「私はこうしてあなたのところへ来たのに。あなたは私を受け入れないままで押し通す。誰のためにですか」
　声を荒げるわけでもなく、そう言って春彦さんは静かに出ていった。彼には帰るところがあるから。それがわたしには妬ましく、うらやましい。




　誰のために？
　わたし自身のために。

　それがわからない春彦さんではないだろうに。

　わたしのために。
　わたしのために。

　わたしは傷ついて、そして喜んでいる。
　体が喜ぶたびに心はたまらなくなる。

　心だけは……。


　快適な家だったけれど、わたしは家を出た。どこにも行くところなどなかったが、家を出て歩き始めた。鍵を掛け忘れて小鳥の逃げ出してしまった鳥かごのようなあの家から。

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