わたしの中の小さな小鳥 1

わたしの中の小さな小鳥

目次


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 わたしには恋人がいた。
 初めて好きになった人。初めてつきあった人。初めて……した人。
 好きだった。でも、もういない。わたしの前には。
 わたしが結婚するために別れさせられたのだ、かねで。彼は悲しそうな顔をしていたが、金は確かに受け取った。そして二度とわたしの前には現れないだろう。

 そして、わたしが結婚するというその相手が、置かれたコーヒーを前にごく穏やかに会話を進める。
「私には恋人がいるのですよ」
 …………
「それでもあなたと結婚しなければならないのは、あなたもご存じでしょう」
 知っている。
「結婚してからこのことをあなたに言うのも卑怯ですから先に話しておきます」
 親の決めた結婚だ。
「彼女とはもう五年ほどです。残念ながら彼女には子どもができない。そんな理由で彼女からは結婚を拒まれています。けれども私の両親は会社のため、家のためにあなたとの結婚を望んでいる。跡継ぎが必要なのはあなたのご両親も同じですね」
 わかっている。
「だから私はあなたと結婚します。跡継ぎも作りましょう。でも、私の愛する人は彼女です」
 そうなのだろう。
「そのかわりあなたには一生安楽な生活が保障されます。お好きなことをしてもいいでしょう。できる限りあなたの意に添いましょう。妻として恥はかかせません」
 …………
「もっとも、これは口約束ですが。わかっていただけますか」
 わたしはうなずいた。もともと愛のない結婚だということは承知だ。いっそ契約のようにしてくれるならそれもかまわない。
 いや、すべてのことがかまわなかった。なんでもいい。
 わたしの好きだった人はもう戻ってこない。




 わたしの夫となった沢村春彦さんは結婚初夜を過ごすためのホテルの部屋に入ってネクタイを緩めていた。披露宴を終えて彼は白っぽいグレーのスーツを着ていた。そつのない笑顔で客たちに礼を言い、わたしの両親にも挨拶をして今日のすべての予定が終わった。
「お疲れさまでした」
 まるで仕事が終わったような彼の言葉は疲れもなにも感じさせない穏やかな口調だった。徹している。
「おなかはすいていませんか。それともなにか飲みますか、詩穂さん」
 彼がわたしの名前を呼ぶ。なんのこだわりも見せずに。
「そうですね。お水をいただきます」
 冷蔵庫へ向かおうとすると春彦さんがちょっと手を上げてわたしを止め、彼がミネラルウォーターを出してグラスへ注いだ。
「ありがとうございます」
 座ってそれを飲む。冷たい液体が喉を下っていく。
 少しのあいだ、彼は黙ってわたしが飲むのを待っていた。
「じゃあ」
 春彦さんが上着を脱いで置いた。
「一緒に風呂へ入りましょう」
「一緒にですか?」
「はい。お互いを知り合ういい機会です」
 べつに知り合あわなくてもいいのに。

 春彦さんの裸の体からボディソープの泡がシャワーで流されていく。引き締まって筋肉の程よくついた体は三十二歳だというのにたるんでいない。あまり特徴のない顔とは対照的だ。
「どうぞ」
 至極当然にわたしにシャワーを譲る。豪華なスィートルームの広い浴室だった。タオルをはずして黙って体を洗い、髪も顔もかまわず洗って化粧を落としてしまう。春彦さんはあまり露骨にわたしの体を見ることはしない。期待していないのだろう。 わたしとて平均的な体だとは思うが、取り立てて良いところもない。
「一緒に入りましょう」
 浴槽の中から彼が声をかけてきた。
 それはふたりの体が密着してしまうということだ。大きなバスタブだったが、大人がふたり入ればそうなってしまうのはわかっている。黙って入り、春彦さんの足の間に座った。ゆるく彼の腕がわたしの腕に触れている。
「ご親切なんですね」
 そう言うと後ろで春彦さんが少し笑ったようだった。
「わざわざ嫌な思い出を作ることもありませんから」
 そうね、と声には出さず同意した。
 ちゃぷ、と音がして湯が揺れて彼の腕が動く。
「詩穂さんは初めてではないでしょう?」
 この人はわたしに恋人がいたことを聞いていないのかもしれない。普通は誰も言わないだろう。春彦さんのように理由がない限りは。
「初めてではありません」
「……よかった」
 春彦さんがわたしの耳にそっと口を寄せて言った。その言葉が息になって耳へかすかに響く。なにがよかったというのだろう。うしろから抱かれて彼の息が首筋へ降りていく。わたしの体をなでまわす手と暖かい湯の中での肌の密着が快い。彼の肌は毛深くはなく、なめらかで綺麗だった。肌の荒れた男よりはずっといい。

 春彦さんの指が下から探っている。手を入れやすいようにわたしが体をずらして少し腰を浮かせた。
「すみません」
 そう言いながらゆるゆると彼の指が下からなぞる。湯とは違うぬるりとした液体の感覚がわたしにわかるように、きっと彼にも。
「あなたがそう言ってくださって安心しました。このままお湯の中でもいいのですが、ベッドへ行きますか?」
 うなずく。もしもわたしが濡れなかったら、この人はこのまま湯を利用しようとしたのだろう。

 バスタオルを体に巻いただけでベッドへ向かう。大きなベッドだった。まさに新婚の初夜にふさわしい。
「詩穂さん」
 彼がわたしの上で言う。
「はい」
「私はあなたと結婚した以上は子どもを作ることには最善を尽くします。無理やりやってしまう趣味はありませんから。まあ、大人の礼儀だと思っていただければ」
「そうですね」
「あなたはそれに不満はないのですか」
 春彦さんが不思議そうに尋ねた。ちょっと首を傾げるようにして。
「べつに。そういうことはわかっていましたから。あなたが最善を尽くすとおっしゃってくださるのなら、わたしも最善を尽くすまでです」
「そうですか。では夫婦の義務を果たしましょう」
 わたしがうなずくと彼は愛撫を始めた。

 慣れているのだろう。快い愛撫だった。開いた両足の間に手を入れて最初はなでるように、そして襞を開かれた。もうお風呂で濡れているのを確認されている。でも彼はきちんと愛撫している。最初は柔らかく、だんだんと強く。突起もていねいに刺激されて液があふれてくる。
 ゆるく腕を回し、ときどき彼の首筋や背中をなでる。それだけでいい。嫌悪など感じない。そう決めていたから。止むことなく突起をまさぐられて、そこだけが勝手に快感を体へ伝えてくる。そのまま指でいかされるかと思ったけれど、ひくつく寸前に彼が触れていた手を離して体を起こしたのでわたしの腕も離れた。足をさらに開かれてまた彼が触れてくる。指ではない固くて丸みのあるものが触れたと同時に入り込む。入口の抵抗などない。
 あまり大きさを感じない。自分が濡れているせいか。誰と比べるまでもない。わたしはひとりの人しか知らない。恋人だった彼。手順も愛撫も彼と比べることしかできない。でもそれも、もうどうでもいい。今は春彦さんがわたしに割り入っているのだから。「最善」を尽くしてくれている。それだけでいい。
 腕を投げ出して横たわっているわたしを春彦さんは見ていた。わたしの足を抱えながら腰の往復を繰り返し、そのたびにわたしの胸が揺れる。暗くした部屋の中でも隠すもののないわたしの体を見ている春彦さんは表情のない顔つきをしていた。彼も快感を感じているのだろうか。まるで行為だけに集中しているかのような顔つきだった。彼に繰り返される動きで体が張り詰めていく。春彦さんの動きに加速がつき、 打ち付けるようにして、そして彼は急に息を詰めると動きを止めた。体を押しつけるようにしたままわたしの中に放っているのが感じられた。彼のうっとうめくような声はきっと気持ちがいいのだろう。 そして春彦さんがわたしの中から抜け出すと、きちんと並んで横たわった。
「いきましたか」
 はい、とうなずく。
「よかった。あなたが苦痛でなくて」
 そう言うと彼はまたひとり浴室へ戻っていった。次にベッドの脇へ戻ってきたときにはすっかり服を着こんでいた。
「家に帰る日はあなたの都合に合わせます。連絡してください」
 そう言って彼は電話番号を書いた紙をベッドの脇へ置いた。
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 彼が出ていくのをわたしはベッドから眺めながらそう答えた。
 快感の後の疲れで起き上がる気もなかった。




 新婚の新居に不足はなかった。新築の一戸建てで内装も家具も快適で美しい。わたしはこの家で新しい生活を始めた。春彦さんからも彼の両親からも、お手伝いさんを雇ってくれると言われたが断った。家事はできるし、他人が家にいるのは好ましくないだろう。夫がいないのに。それでも生活に不自由はないし、文句も言われない。気楽で安穏な日々だ。
 春彦さんはわたしが指定した日にやってくる。都合が悪いときには連絡させてもらうと彼は言っていたが、そんなことはほとんどなかった。その日の夜八時になれば彼はやってくる。
「お帰りなさい」
 わたしの妻のような口調に彼はこだわらない。妻なのだから。
「お食事は?」
「いや、いいよ。済ませてきましたから。風呂へ入るよ」
 風呂はちゃんと用意してある。彼の次にわたしがお風呂に入る。わたしがお風呂から上がってくると彼はパジャマを着て居間でテレビを見ていたり、ベッドに寝転がって本を読んでいたりする。わたしが髪を乾かし終わると一緒にベッドへ入る。

 黙って抱かれる。もう覚えてしまった春彦さんの匂いがする。嫌じゃない。彼の愛撫に身を任せ、快感を味わう。同じような愛撫でも彼は決してぞんざいにはしない。いつでもわたしを丁寧に高めてくれる。嫌なわけがない。こんなに気持ち良くしてくれるのなら。
 避妊は必要なかったから、というよりも子どもを作らなければならなかったから、彼はいつでもわたしの中で達して放った。わたしをいかせてからさらに深く体を打ちつけて、はあっと良さそうな声を短く出してからしばらくして離れていく。
「よかったですか」
 ときにはわたしからも聞いてみる。
「もちろんです。あなたが誠実な妻でよかったです」
 好きあってもいないのに、でもその行為はお互いに快くすることができる。誠実とはそういう意味なのだ。
 そして春彦さんは着替えると帰っていく。彼は決してこの家に泊まろうとはしない。きっとそれが彼と恋人との約束なのだろう。

 月に三回ほど春彦さんに来てもらっている。
 春彦さんはいつもむらのない態度だった。淡々として、何か不自由はありませんかと聞く。いいえ、なにも。充分です。
 家事は大変ではありませんか、と春彦さんがときどき聞いてくる。お金持ちならお手伝いさんを雇うのが当たり前だと思っているのだろう。それとも女の人は皆、家事が嫌いだとでも。
「暇つぶしでやっているのですから、どうぞお気づかいなく」
 わたしはそう答える。暇つぶし。そうだ、どうせ暇つぶしだ。

「あ、あ……」
 今ではわたしの声が漏れてしまう。もう声を抑える気もない。春彦さんはタイミングを逃さずわたしの中に入り込む。入り込んでからわたしを揺すりながら前後に動く。繋がっているところがぐいぐいと押されながら擦れあって、限界まで両足を開いて彼にむき出しのそれを向けている。開ききったそこはしびれているように感覚が飛んでしまっているのに快感だけは感じる。ああ、と何度も声が出てしまう。そんなわたしを両足の間で体を起こして春彦さんは見下ろしている。やさしげな目で。
 いまは高まっていくだけ。そこだけがぎゅっと反りかえるような収縮が彼のものを締め付ける。足を閉じてその収縮に任せてしまいたいのに、そこに彼の体があるから邪魔をする。足を伸ばすように強く体が反り返り、彼の体を押し出してしまった。
「まだですよ」
 手がかかり、力が入って両足をくいと押さえられてしまう。まだびくびくとひくついている内部が両足を突っ張らせるが、開こうとする彼の手に抗って中途半端に足が開いてしまう。お尻に力が入って腰が浮いてしまっている。突き出すようにしている中心へ彼が指を差し込むと、完全には開き
きっていないのにぬめりのある襞の中はたやすく指を滑らせる。
「っ……」
 彼は横たわったままのわたしを指で操る。指がくるくると小さな円を描くように突起を滑り回ると、わたしは腰を持ち上げたままでもがく。それでも指は離れることはなく、否応なく押し上げられる。彼はその瞬間を逃さない。
「もう一度」
 彼はそう言ってまた自分のものをあてがう。わたしは先にいかされただけ。彼が達しないで済ませる、ということはありえない。
 固く引き攣れているそこをこじ開けるように彼は挿入した。この時ばかりは彼は容赦なく自分のものをねじ込んできた。いや、わたしが固く締まっているから無理に入れられるように感じるのだ。押しつけられて、入ってくる彼に無理に広げられているという感覚がわたしを陶然とさせる。気持ちいい。体ごと体重をかけて奥までいっぱいに入っているのはきっと彼にも気持ちが良いのだろう。先にいってしまって動けないままのわたしの中で彼のものが脈動した。

 彼はいつもわたしが満足できるようにしてくれる。たいしたものだと思う。
「いや、私の技術ばかりじゃありませんよ」
 上手なんですね、と終わった後で言ったら春彦さんはそう言った。まるで機械かなにかの調子について話しているような口調だったが。
「喉が渇いたな。飲み物をもらえますか」
「どうぞ」
 冷蔵庫の中には自分で車を運転して来る彼のためにお茶やジュースなどの何種類かの飲み物のペットボトルを用意してあった。わたしはミネラルウォーター以外は飲まないのだが。

「おやすみ」
「おやすみなさい」
 春彦さんがいつものように帰っていくと、わたしはキッチンへ行って彼のために用意しておいた食事を捨てる。彼がこの家で食事をすることはないし、彼がどんな食べ物が好きなのかさえ知らないが、彼の食事を準備しておく。料理をする時間は山のようにあった。彼の食事を用意するのは習慣のようになっているだけだ。そして彼の飲みかけにしたペットボトルのジュースをこぼし、新しいものを補充しておく。わたしの「誠実」のために。

 でも、わたしは知っている。彼はほとんどキスをしない。
 肌に彼の唇がかすめることがあっても一度として彼はわたしの唇を自分の唇で愛撫することはなかった。目を合わせやさしく見下ろしても。





「もう少し呼んでもらえませんか」
 結婚して四か月が経つ頃、春彦さんが言った。ひと月に数度の性交では妊娠の可能性が低いと思ったのだろう。わたしはまだ妊娠していない。
 簡単に表にしたサイクルを見せた。わたしの生理周期は一定で、春彦さんがわたしのところに来た日の日付に印をつけてある。
「二週間前を逆算すればいいのですね」
 よく知っている。妊娠しやすい排卵日を。
「どうぞ、いつでも」
 そう言ったら翌日にも彼はやって来た。
「いきなり来たら失礼かと思いましたが」
「いいえ」
 すぐに湯船に湯を張る。湯につかるのが好きな春彦さんのために彼が来る日は湯船に湯を張っておくが、わたしは普段はシャワーだけだ。だから今日は湯を張っていなかった。湯が張れるまで待つあいだ、春彦さんは座って新聞を読んでいた。わたしが読み終わってテーブルに置いておいた新聞を黙って読んでいる。ほどなく湯が入りお風呂へ入ってもらう。そしてわたしもお風呂に入り、湯上りの薄いコットンのローブだけでベッドへ行く。
「急に来て驚かせてしまったようですから」
 そんなことを言いながらローブの下の素肌をなでている。強くもない彼の手の感覚を体が憶えている。そして彼はなでまわしているのにローブは脱がそうとはせずにわたしの足だけを広げる。
「濡れていますね」
 彼の指が小さな音をたてる。
「妊娠しやすい時には体もそれを求めるのでしょう。自然の法則でしょうか」
「なるほど」
 彼はいつものように丁寧に愛撫してくれる。もう、とろとろに濡れていて愛撫など要らないくらいなのに。
「う……」
「気持ちいいですか」
「ええ、……とても」
 きのうと同じ愛撫がじんじんと疼くように感じる。彼の指が動くたびにびくりと体が揺れる。
「あなたはいつも感度がいいですね」
 褒めているつもりなのか春彦さんは最中にときどきわたしの喜びそうなことを言う。感じさせるためのテクニックだろうか。とても締まっています、とか。リップサービスなのだと思う。やっていることはいつでも同じなのに。
「あ、う……」
 最奥へ届くようにこれ以上は入らないというところまで押し付けられてまた声が出てしまう。足をできる限り開かなければならないのでそれがちょっとしんどいが、しかし自然にそうなってしまう。
「中であたっていますよ」
 そう言いながら激しい出し入れとうねるような腰使いをする。愛してもいない女にこれ以上ないというくらいに。今夜は春彦さんも本気らしい。わたしに、ではなくて子どもを作ることに。こうしてわたしも感じて体が喜んでいれば妊娠もしやすいだろうし、産むのにも抵抗がなくなると思っているのだろう。この人はなかなか頭がいい。
「は……あ……」
 ため息のような彼の声。放っている。

 その夜はまた抱かれた。彼が二度続けてということは今までなかった。彼はいつも一度を済ませると帰っていく。何度わたしをいかせても自分は一度でいいと思っているようだった。しかしその夜は違った。帰るのが遅くなってしまうのに、いつもより。不審に思われないのだろうか。
 二度目でも、体位を変えるようなことはしない。いつも同じ正常位だ。気持ち良くはしてくれるが
バリエーションを楽しむようなことはしない。わたしもあれこれしたいとは思わない。今夜の彼は
二度目も難なく達した。
「明日も来ていいですか」
 帰り際そう言われた。


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