花のように笑え 第3章 2

花のように笑え 第3章

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 仕事にも慣れてなんとか生活が成り立ち瀬奈は月日が過ぎていくことをやっとあたりまえのように感じられるようになっていた。遊びたいという気持ちもなかったのでたまに理奈がカラオケに誘ってくれることもあったが瀬奈が応じることはなかった。

 時々は理奈の弟だという芳樹(よしき)も店へ降りて来た。芳樹は国立医大の3年生だという。家にいても店で食事をすることはあまりなく家のほうで食べているらしい。
「勉強が忙しいんじゃないの」
 もうひとりの女性店員が言う。たまに見てもジーパンやハーフパンツにシャツというラフな服装の芳樹は瀬奈と言葉をかわすこともほとんどなかった。

 店では定食だけを出していたが酒を出さないわけではなかった。ビールと小さな瓶の日本酒が用意されていて夜は夕食がてら酒を飲む客が何人もいたが店は夜9時までだったからこの店でずっと飲んでいるような客はいなかった。
 その夜、いつものように理奈が店にいたときだった。8時を過ぎた頃ふたり連れの若い男の客が入って来るとじろじろと店内を見回し、テーブル席へ座りこむ。
「ビール」
 他には何も頼まない。対応している瀬奈をにやにやしながら見ている。すでに酒を飲んでいるようだった。
「ヒューッ、かわいい」
「へええ」
 一緒にいるもうひとりは迷彩服のような模様のだぶだぶのシャツを着た男だった。ファッションというにはだらしがない服装。 瀬奈はなにくわぬ顔をして奥へ引っこんだが、こんな男たちの遠慮のない視線が瀬奈には苦手だった。
「瀬奈ちゃん、いいよ」
 ビールを運ぼうとしている瀬奈を理奈が止めると瀬奈から盆を取って理奈が運んで行った。
 理奈さん……。

 男たちは遠慮ない大声で話しビールを飲んでいたが主人から9時の閉店を告げられて出て
行った。勘定のレジも主人がしてくれた。
「なに、あの男たち。ウザいわ。この辺の人じゃないわね」
「すみません」
 店員のふりをしていた理奈がくるりと盆をひっくり返して瀬奈を見た。
「いーの、いーの、瀬奈ちゃんよく働いてくれるってお母さん言ってるもん。それより瀬奈ちゃんの家、この近く?」
「はい、歩いて5分くらいです」
「帰り、気をつけなよ」
 はっとして瀬奈は理奈を見た。今まで考えたこともなかった。夜道に気を付けるなんて……それはもしかしたらさっきの男たちが?
「最近、物騒だからさあ。あたしたちみたいな美人は特にねー」
 理奈はそう言って笑ったが、瀬奈を心配してくれているのだ。
「ちょっと待って、芳樹に送らせるから」
「え、いいです。大丈夫です」
「遠慮しないの。芳樹、今日はいるんだから。おーい、芳樹」

「なに」
 2階から降りてきた芳樹がむすっと答える。このふたり本当に姉弟なのだろうかと瀬奈が思うほど芳樹は愛想がない。
「変な男がうろついてたから瀬奈ちゃん送ってあげてよ」
「……いいけど」
「大丈夫です。ひとりで帰れますから」
 瀬奈が遠慮したが芳樹は黙って店から出ようとしていた。しかたなく瀬奈もついていく。

 芳樹が黙って歩く。
 瀬奈は芳樹と並ばないように彼の後ろを歩くようにしたが、芳樹が歩くペースを落として「家、どこ?」と聞くので自然に並んで歩くことになる。
「この先の商店街の通りから入ったところです。マチヤミートっていうお肉屋さんの横の道を入っていった……」
「ああ」
 この町で生まれ育った芳樹にはそれだけでわかるらしい。また瀬奈の前をあいかわらず黙って歩いて行く。一歩ずつ瀬奈のアパートが近づいてくる。強張るような気持ちで瀬奈はついて
行った。さっきの店へ来た男たちとは別の不安を瀬奈は感じる。 それを隠すようにアパートの前まで来て瀬奈は礼を言って頭を下げた。芳樹は「じゃあ」と言っただけで今来た道を戻って行った。それだけだった。

 理奈はしょっちゅう店へ顔を出していたが、芳樹は本当に時々しか見かけなかった。それでもあの夜送ってもらったことはもう一度礼を言ったが、それからしばらく芳樹が店へ来ることはなかった。

 いつのまにか冬が過ぎていた。もう3月だった。
 店の主人が他県まで知り合いの葬儀へ出かけた日、芳樹が厨房でおかみさんを手伝っていた。春休みなのだとおかみさんが言う。
「あれー芳樹君、偉いじゃないの」
 もうひとりの店員が芳樹へ声をかける。が、芳樹は聞こえないふりをしているらしい。
「照れちゃって。いいわねえ、若い人は。芳樹君だって今どきの子には珍しく大学へ入るまでは時々店を手伝っていたんだから。高校へ入ってからは勉強が忙しかったのにね」
 そうだろう。芳樹は医大生なのだから。それでも今日こうやって店を手伝っている芳樹はなんだか以前よりも親しみやすいように瀬奈には思えた。背はそんなに高くはなかったが痩せていてよれよれの白いTシャツに色の褪せたジーパン。 火を使う厨房の中は暑いので芳樹も半袖のTシャツだ。
「お待ち」
 芳樹が言って料理の皿を瀬奈たちへ差し出す。

 夕方には理奈も応援に入って店がにぎやかになった。いつものように客で込んだ時間が過ぎていく。やがて夜になると店の主人も帰ってきて瀬奈はいつものように仕事を終えた。今日は店に一家がそろっている。店が終わったら一家でゆっくりと夕食を食べるのだろう。 忙しい毎日でも時にはこうして団欒を楽しむ一家のあたたかさを感じて瀬奈は店を出た。

 帰っていく瀬奈へバイバイと手を振ると理奈は店の中へ戻ってきた。理奈がつぶやく。
「なんかつまんないわねえ」
「あんたもそう思う?」
 母親に言われて理奈が当然といった顔をした。
「瀬奈ちゃん、よく働くし。真面目だけど何か楽しいことがないって言うか、お化粧だってしてないし服もたいしたもの着てないじゃん。かわいい顔してんのに。若いのにさ」
「あの子、親御さんはもう亡くなって叔父さんのところに世話になっていたんだって」
「でも今は働いてひとりでもちゃんとやってんだから。彼とかいないのかなあ。男とつきあったこともないのかなあ」
「おい」
 厨房から理奈の父が口を挟む。
「瀬奈ちゃんに変なことけしかけるなよ」
「変なことじゃないって」
 理奈が口をとがらす。
「瀬奈ちゃんはおまえと違って純情可憐なの。妙な男なんて紹介するんじゃないぞ」
「えー、それって父親の言う言葉ぁ?」
 理奈がわざとらしく大きな声で言ったが父親は笑っている。そんな会話を芳樹は黙って聞いていた。

 次の日だった。
 瀬奈が仕事を終えて店を出ると店の先で芳樹が立っていた。
「あ、芳樹さん、失礼します」
「お疲れ」
 そう言った芳樹が歩き始めた。瀬奈の帰る同じ方向へ歩いて行く。瀬奈が歩く速度を遅くしても芳樹は立ち止って待っている。
「あの……」
 芳樹は何も言わない。細い黒のフレームの眼鏡をかけていつものジャンパーにジーパンだ。すぐに瀬奈のアパートの前に着いてしまう。
「あの、ありがとうございました」
 送ってくれたのだ。それがわかって小さな声で瀬奈は礼を言った。芳樹はなにも答えず黙って帰って行った。

 いつのまにか瀬奈が帰る時間になると芳樹が待っているようになった。毎日ではなかったが芳樹は家にいるときは必ず瀬奈を送ってくれる。
 とはいえ5分足らずの道ではすぐに瀬奈のアパートまで着いてしまう。もともとしゃべらない芳樹がおしゃべりをするはずもなく黙々と歩く。それでも芳樹は送ってくれた。

「3月でもまだ寒いなあ」
「はい」
 瀬奈もあまりしゃべらなかったが今では芳樹が初めて送ってくれた時のような強張ったような固い気持ちは薄らいでいた。それに芳樹がたまに話すことはいつもあたりさわりのない会話であることに気が付いていた。
「俺は寒いのは苦手だ」
 ポケットへ手を突っ込んで背を丸めるようにして歩いている芳樹が言う。寒いのが苦手なのにこんな夜遅く瀬奈を送ってくれる。思わず瀬奈が笑った。
「笑ったな」
「わたし、北海道育ちだから。暑いほうが苦手」
「北海道か」
 芳樹に限らず瀬奈が自分のことを話したことはほとんどなかった。芳樹もそれに気が付いているのかもしれない。医者を目指している芳樹。
 芳樹がふいに立ち止まった。振り向いて瀬奈を見ている。ちょっと動いて芳樹が近づく。
「ありがとうございました。おやすみなさい」
 気がつかないふりをして瀬奈が礼を言っていつものように頭を下げた。
 気がついてはいけない。気がついては……。


2008.09.25

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