花のように笑え 第3章 1

花のように笑え 第3章

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 食べていくために働き、疲れて眠る。また翌日には同じ日々。何も考えずに働いてその日をしのぐ。
 アルバイトをしながら何とか生活していけるまで瀬奈は何も考えないようにしていた。とにかく歩きまわってやっと近くで定食屋の店員のバイトを見つけた。
「はい、日替わり定食、ふたつですね」
「お待たせしました。焼き魚定食のお客様」
 エプロンと頭に三角巾をしてくるくると注文を受け、定食の盛られた皿の載った盆を運ぶ。 昼食時は目の回るような忙しさだった。
「立花さん、カウンターのお盆引いて」
「はい」

 旅行バッグへ入れてあった金で瀬奈は小さなアパートの部屋を借りた。聡の家を出された時に家政婦の小林から受け取った金がほとんど残っていたから何とかなった。 もとはと言えばそれは聡の金だったが、それを考えることはやめた。大輔から服と金をもらったことも。大輔には札幌へ帰ると言ったがそのつもりもなかった。帰ったところで何もない。 手持ちのほとんどの金がアパートの敷金や礼金に消えたが瀬奈は何もない狭い部屋を見回してからそのまま畳へ寝転がった。布団も何もなかった。でも部屋は借りられた。 見慣れない部屋に心はなかなか緩まなかったが瀬奈は目を閉じていた。

 ……もう何者でもない。
 誰の妻でも、誰のものでもない。
 たったひとりで、でも、ただひとりの人間として生きていく。
 明日は布団を買いに行こう……。



 近くの会社の会社員や近所の人たちで賑わうこの店で瀬奈が働き始めたのはパート募集の張り紙が店の前にあったからにすぎない。アパートからも歩いて来ることができる。 とにかく働いて給料が欲しかったが最初の給料が貰えるまで瀬奈は内心どうしようかと迷っていたが昼食が出ると聞いて働くことにした。
 この定食屋は昼前から夜まで営業していて瀬奈が夜まで働いてくれるなら午後の店のすいている時間に昼食を食べさせてくれるという。
「でもそんな細っこい体で大丈夫ぅ? すぐ辞められると困るんだけど」
「はい、ちゃんと働きます」
「そのちゃんと、っていうのが一番むずかしいんだけどね」
 店のおかみさんが少々信じていない、という口調で言う。夫婦でやっている定食屋で50代のおかみさんは大柄で元気のよさそうな人だった。
「ま、明日から来てみて」
 瀬奈にしても不安だった。コンビニの店員のような仕事ならある程度見聞きしたことがあるが、今まで定食屋で食事をしたこともなかった。

 最初のひと月は本当にしんどかった。
 店の仕事はほとんど立ちっぱなしで客のいる間は休む暇もない。大きくはない店のなかを
ずっと歩いているのと同じだ。店員は昼間は瀬奈と近所の主婦だという50代の女性とふたりだけで 最初にその店員からざっとすることを説明されたたけだ。もう客が来ている。
 おしぼりとコップの水を客の前へ置き注文を聞く。奥の厨房へそれを言って伝票を置く。料理ができれば運んで客が食事を終えて立てば盆を引く。先輩の店員を見ながら見よう見まねでうろうろする。 仕事はそれだけだったが、昼食時はそれらが順番など気にする暇もなく注文が飛び交い、瀬奈は初日にかなりとまどっていた。
「定食の種類はもう覚えた? あとは慣れしかないよ、慣れ」
 やっと昼の客が引き、おかみさんともうひとりの店員の女性が笑いながら言う。 すでに足が棒のようだった。しかし瀬奈は出される食事を食べたさに辞めるつもりなどなかった。

「立花さん、これお願い」
「はーい」
「2番テーブル、あがったよー」
「はい、お待たせしました」
 快活に返事をして瀬奈が働く。やっと慣れてきた頃、瀬奈は賑わうこの店の雰囲気そのままに返事をしっかりするように気をつけていた。初日におかみさんからも「返事はちゃんとして」と言われている。 それでも最初は客への「いらっしゃいませ」のひと言が恥ずかしかったがそんなことはすぐに慣れる。
 仕事に慣れればしんどさも減る。食事は店で出してくれる1食だけですごしていたが、1日1食でもなんとかなるものだと瀬奈は変なところで感心していた。店の料理とご飯はこんもりとよそってくれるのがうれしい。
 失敗がないわけでもなかった。注文を間違えたこともある。つまずいて料理の載った盆を落としてしまったこともある。情けなくて涙が出そうだったが懸命にこらえる。
「何してるの!」
 謝る瀬奈へおかみさんは決まってそう言ったが、言い方はきつくてもくどくどと言われることはなく瀬奈は自分がちゃんとやらなければと気をつけるしかなかった。怒られたからといっていちいち落ち込んでいるひまはない。 それに怒られたほうがその時はつらいがむしろ変に後に引かない。そんなことにも気がついた。
 夜は店員は瀬奈ひとりでおかみさんがフォローに入ってくれる。会社帰りのサラリーマンの多い夕方から夜にかけては昼時のような決まった時間に客が集中するようなことはなかったが忙しさは変わらない。

 疲れて1日の仕事が終わると何も考えずに眠ることができた。それが瀬奈にとっては一番いいことだと思えた。何もすることのない休みの日のほうがつらい。ぼんやりと窓の外を眺めてあわてて首を振る。思い出してはいけない……今はもう……。

「瀬奈ちゃん、これ持っていきな」
 おかみさんが仕事を終えて帰る瀬奈に店の余り物だがご飯やおかずを包んでくれる。もらいものだと言って菓子や果物をくれることもあった。
「あんた、見かけによらずがんばるから。辞められると困るからね」
 おかみさんはそう言ってくれた。わたしでも役に立つんだ……。
 それは世間慣れしたおかみさんの人を使う時の手だったのかもしれないが瀬奈は素直にそう思う事にした。 化粧もせず、髪をひとつにまとめて地味な服、Tシャツやセーターやジーパンといった服だったがそんな服しか着なかった。もともとそんな服が好きだったから苦にもならなかった。

 店は1階が店舗で2、3階には住まいがあった。おかみさん夫婦の娘は仕事から帰ってくるといつも店で夕飯を食べていたが、二十代なかばというその娘はなんだかたくさんの荷物を持ち歩いている人だった。
「新しい人? あたし、ここの娘の理奈って言うんだ。よろしくね!」
「理奈、何食うんだ?」
「うーんとねー」
 理奈が夕飯を食べているのはいつも夜遅い時間だった。仕事が忙しいらしい。
「瀬奈ちゃん? あたしと名前一字違いじゃん。いくつ? はたちくらい?」
 理奈はおかみさんに似て明るく聞いてきた。
「瀬奈ちゃん、かわいいわねえ。あたしのところの助手にスカウトしようかなあ」
「理奈さん、どんなお仕事しているんですか」
「友達と共同で洋服のショップをしているんだ。個人デザイナーのお店。そういうお店、知ってる?」
 瀬奈は知らなかった。自分でデザインした服を自分たちで作って置いているお店、ということらしい。
「瀬奈ちゃんのなんかこうナチュラルな雰囲気っていうかさ、イメージなんだよね」
「瀬奈ちゃんを引き抜かれたら困るからね」
 おかみさんが口をはさむ。
「優れた人材は自分で探しなよ」
「人材だって」
 理奈がいたずらっぽく笑う。瀬奈も何と答えていいのかわからず曖昧にほほ笑んだ。 それでも理奈の明るい態度は瀬奈にはほっとするものがあった。今は同年代の友人のいない瀬奈に
とって理奈は一番年齢の近い知り合いだった。


2008.09.19

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