花のように笑え 第3章 3

花のように笑え 第3章

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「やあ、やっと来られたよ」
 スーツを着た男が店の主人へ声をかけながらカウンターへ腰を下ろす。
「お久しぶりです、専務! しばらくみえませんでしたねえ。今日は刺身定食がお勧めですよ」
 店の主人が元気よく答えている。
「じゃあそれをもらおうか。このところ忙しくてね」
「いらっしゃいませ」
 瀬奈がおしぼりとお冷やを置く。
 その専務と呼ばれた男がちらと瀬奈を見たがすぐに主人と話を始めた。なるほどくたびれたサラリーマンとは印象の違う良いスーツを着て眼鏡をかけた50歳くらいの男だった。
「あら専務さん、お久しぶりです」
 おかみさんからも親しげに声がかかる。
 それから何度かその専務という男性は店へ来た。会社が近くにあるそうだが昼に来ることはなく、来るのはいつも夜だった。カウンターに座って店の主人と話しながらゆっくりと食事をとっていく。 瀬奈にとってその客はまだ大勢いる客のひとり、特に常連というほどではない普通の客だった。

 暑くなってきていて店では冷房が効いていたが、東京の夏の暑さが苦手な瀬奈は自分の部屋へ帰ってからの暑さであまり眠れなくなっていた。店と部屋の暑さの差に体がついていかないような感じで疲れもたまっていたのだろう。 夏バテかもしれないと頭痛のするこめかみを瀬奈はぼんやりおさえていた。こんな時は早めに薬を飲んで寝てしまえばいいのだが、家ならばそうできるが仕事中はそうもいかない。トイレでこっそりと鎮痛薬を飲みながら瀬奈は、以前は頭が 痛くなることなんてなかったのに、と考えていた。あの夏の、東郷の屋敷にいたときに熱を出して寝込んで以来、瀬奈は疲れたり体調が悪いと頭痛がするようになっていた。
 仕方がない、明日は休みだからがんばろう。薬も飲んだから大丈夫……。そう思っていたが仕事が終わる頃にはなんだか体がだるかった。その夜も芳樹が送ってくれたが瀬奈は黙って静かについて行った。薬が効いているせいか足元がふわふわしているような感じがする。 それでも自分では大丈夫だと思い込んでいたが、アパートの前の段差を登ろうとした瀬奈の足がふらついた。
「……っと」
 芳樹が瀬奈の左腕を持って支えていた。
「どした?」
「だ、大丈夫です。ちょっと滑って……」
「あ?」
 瀬奈の腕を持った芳樹がけげんな顔をした。
「具合悪い? もしかして」
「……いいえ」
 自分の手が小刻みに震えているのがわかった。手を引いて芳樹に手を放してもらおうとするが芳樹が放さない。
「だけど」
「大丈夫です! 放して……!」
 手を振り払い、自分の手を胸の前でぐっと握り締める。

 建物の壁に背を付けてうつむいたまま固まったように動かない瀬奈に芳樹は納得しないと
いった顔つきだった。芳樹は医大生だ。もしこれ以上不審に思われたら……。
「気をつけろよ。じゃあ」
 しかし芳樹はそう言うとさっと身を翻した。瀬奈はもうそれを見るとあとはただ部屋の鍵を開けて中へ入るだけしかできなかった。
 さっき芳樹から腕をつかまれた時……芳樹はただ瀬奈を支えようとしてくれただけだ。
 なのに……。

 腕をつかまれた感覚が瀬奈の記憶を呼び覚ます。
 聡に、東郷に、聡に…… 。
 怖かった。瀬奈を逃すまいとするように湧き上がってくる記憶。自分にかかる男の手が怖かった。 震える手を押さえ込むようにする。

 芳樹と話ができるようになっても。
 さりげなく瀬奈を送ってくれる芳樹の優しさがわかっていても。
 瀬奈の心が固く強張る。今まで心のどこかで芳樹に送ってもらうことが怖かった。芳樹に対する恐怖ではない、何かが……。



 芳樹はその後も別段瀬奈に何かを聞くこともなかった。休みの次の日には瀬奈はちゃんと店に来ていたし、芳樹に心配させないように瀬奈も体調を崩さないように気をつけていた。
 夏が、暑い日々が少しずつ過ぎていく。何も考えまい、何の変化もない毎日でいい。ただそれだけを考えて働いていた。店にきていた桂木という客に声をかけられるまでは。

「ちょっといいかな」
 それまで店の主人やおかみさんと話していた男性から呼ばれた。おかみさんたちから専務と呼ばれている客だ。専務のとなりにはおかみさんが立ち、そしてカウンターの向こうには店の主人がいる。瀬奈はおかみさんのそばへ立った。
「立花さんというそうですね。私は桂木といいます。時々、この店へ来させてもらっている」
「はい」
 桂木が名刺を差し出す。瀬奈はちょっとお辞儀をしてそれを受け取った。
「立花さんはここで店員さんとしてがんばっているようだけど、どうかな、うちの会社で働く気はないかな?」
「え?」
 思わずおかみさんの顔を見るとおかみさんは穏やかに瀬奈を見ているだけだ。
「会社に勤める気はない?」
 それはOLのように働くということなのだろうか。でもそれは入社試験を受けて入るということなのだろうか?
「あの、それはどういうことでしょうか」
「立花さんさえよかったら最初は契約社員として働いてもらうことになります。事務とかもやってもらうかもしれないが、ゆくゆくは正社員になってもらうということで、実は私の新しい秘書を探していましてね」
「秘書……でもわたし、会社勤めをしたことがありませんし、秘書とおっしゃられても……秘書の資格なんて持っていません」
「それだけ敬語が使えれば充分ですよ。資格はひとつの目安ですが、資格があっても仕事のできない人よりもその仕事に向いている人が私は欲しい」
 瀬奈はなんと答えていいのかわからなくてもう一度おかみさんの顔を見た。それを見た桂木が言う。
「まあ、いきなり急な話なので立花さんもお困りでしょう。すぐに返事をしろとは言いません。考えてもらえますか」

「おかみさん」
「この人ともずっと話していたんだ。瀬奈ちゃんはうちみたいな店よりもっと向いた仕事があるんじゃないかって」
「でも……」
「理奈もそう言っているよ。別にあんたがこの店に要らないわけじゃない。ずっと働いてくれていいんだよ。でもね」
 そう言っておかみさんはやさしい笑顔を見せてくれた。
「あんた見ているとなんか思うんだよね。もっともっと人生楽しんだっていいんじゃないかって、ね。瀬奈ちゃんはそうしたいとは思ってないみたいだけど」
「……そうでしょうか……」
「楽しむっていうのは遊ぶっていうことだけじゃないよ。仕事、勉強、趣味、いろいろひっくるめて。あんた高校はちゃんと出ているそうだし、まじめに働くことだってできる。会社に勤めて仕事をするのもきっといい経験になるよ。 それにやっぱり正社員で働いたほうがいい。無理にとは言わないけれど考えてみたら?」

 おかみさん……。
 バイトの店員にすぎないわたしにそんなことを言ってくれるなんて。おかみさんや店の主人のあたたかさを感じて瀬奈は涙がにじんだ。
「お節介なだけ」
 おかみさんは笑ってそう言ったが、次の日、理奈からも言われた。
「瀬奈ちゃん、きれいな顔しているんだからもっと笑ってみなよ」
「理奈さん」
「でなきゃ苦しいことはみーんな吐き出しちゃうとか。瀬奈ちゃん、ひとり暮らしで働いていろいろ大変でしょ? うちみたいな定食屋じゃたいして時給良くないし」
「そんなことありません」
「瀬奈ちゃんに何かほかにやりたい仕事があるんなら別だけど、桂木さんの話、悪い話じゃないと思う。少なくともあの人はそこらへんのスケベ親父じゃないと思うよ、あたしはね」

 ちゃんと働いてはいても心の中が一杯一杯だ。それは瀬奈自身が一番わかっていたし、そんな瀬奈にこの一家は気が付いていたのだろう。そう、こんな余裕のないわたしはこの人達とは違う。
 瀬奈は何もない薄暗い自分の部屋を見回した。何もいらないと何も求めなかった。わずかな身の回りのものだけで家具もテレビも冷蔵庫もない部屋。この時、初めて瀬奈は自分の生活を振り返る余裕が出た。今までこんなことは考えたこともなかった。
 若い女の子らしい生活、好みの服を着ておしゃれをすることも誰かと一緒に出かけることもない。おいしいものを食べておしゃべりをして……そんなことを瀬奈は無意識に避けてきた。自分へ禁じていた。
 何も考えずに働いていたのは悪いことではないだろう。繰り返される同じような毎日、それでいいと思っていた。だけど……。


2008.10.03

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