花のように笑え 第1章 8

花のように笑え 第1章

目次



 まるで静かな芝居でもしているような食事。あらかた食事が終った頃、聡へ電話が入った。
「失礼」
 聡がそう言って別の部屋へ行き電話で話していたので、瀬奈は食事を終えて2階の居間へ
戻った。聡はなかなか戻っては来ず、瀬奈が先にシャワーを浴びてから浴室を出て来ても聡はまだ戻ってきてはいなかった。髪を乾かしゆっくりととかす。

 居間へ戻ると瀬奈の姿が見えなかったのでノックして瀬奈の部屋のドアを開けてみても中は暗く、聡は今度は寝室のドアを開けた。こちらも暗かったが人のいるかすかな気配がする。暗闇に目が慣れてくると大きなベッドの端に瀬奈が背を向けるように小さくなって横たわっているのがわかった。
 聡はいったん寝室を出るとシャワーを浴び、パジャマでまた寝室へと戻った。明かりはつけずに真っ暗な部屋の中をベッドへ近づくと足元のフットライトの暗い明かりをつける。その明かりに瀬奈の背を向けて横たわる細い肩が暗闇の中にやっと見えている。
「瀬奈」
 そう言っても瀬奈は動かない。
「瀬奈……」
 そっと手を伸ばし彼女の肩にふれたと思ったその瞬間、瀬奈の体がびくっと震えた。 強張ったような瀬奈の体に聡は瀬奈の肩をつかんで自分へと向き直らせたが、瀬奈は目を見開き不安な表情で聡を見返した。暗い部屋の中でもわかる瀬奈の表情。
 不安なだけではないその表情、大きな瞳。肩のすくんだ固くなった体はおびえている。聡に触れられることを、そして聡という人間におびえているのだと、その時聡にもわかった。捕まえられた逃げ場のない小さな動物のように瀬奈はおびえている。 聡は瀬奈の肩をつかんでいた両手の力を抜いたが、しかし瀬奈の肩のすくんだままの姿勢は変わらなかった。
 こんなにも……自分はどうしてこんなにも瀬奈をおびえさせてしまったのだろうか。妻として迎え幸せにしてやるつもりだったのに。後悔の苦い思いに衝動のように瀬奈を抱きしめて口づけしようとする。しかしふたりの体の間にある瀬奈の腕が聡の体を押し返そうとしている。
 あっと思った瞬間、ベッドから瀬奈の体が転がるように飛び出した。ぱっと体勢を変えてドアへ飛びつく。
「瀬奈……!」
 寝室から飛び出した瀬奈を追って聡も飛び出したが遅かった。すでに瀬奈は自分の部屋へ駆け込んで鍵をかける音。

 暗い部屋の中で瀬奈はがっくりと床へと崩れるように座りこんだ。おさまらない体の震えと息。
 聡さんはわたしをどう思っているのだろう。妻としてこの家で暮らしていても、一緒に食事をしても、それだけなのだ。……こんなにも近くにいるのに縮まらない聡との距離。
 たとえ取引の結果としての結婚でも、愛のない結婚でも聡に求められれば抱かれようと思っていた。聡が何も言ってくれなくてもおとなしく従うつもりだった。しかしぎりぎりのところで瀬奈の心と体が反発してしまった。暗い部屋の中で涙が一筋頬を流れていく。
 わたしには何もすることができない。聡さんに何かを望むことも、まして札幌へ戻ることも出来はしないのだ。こうして身動きが取れないまま。

「……瀬奈」
 ドアの向こうから聡の声がきこえてきて瀬奈ははっとしてドアへと振り返った。
「すまない。忙しさを理由に君をほったらかしにしてしまった。今、私は仕事から離れられないんだ。今日も三田に無理に休まされた。でも君のことをどうでもいいと思っていたわけじゃない。もう少ししたらと思っていたが正直言って仕事のほうがいつ落ち着くのかわからない。 もし君がそれがいやなら、君が望むなら札幌へ帰ってもいい。君がつらいなら……」

 札幌へ? 帰る?
 それはどういう意味なのだろう……聡さんはわたしを帰したいの……?
 返事が出来なかった。
「私は書斎で眠るから君は寝室へ戻るといい。おやすみ」
 それだけ言うと聡は瀬奈の部屋の前から離れてしまったようだった。ドアを開け閉めする音がしてやがて静かになった。
 どうして……?
 仕事が忙しいのならもっと早く聡さんの口からそう言って欲しかった。待っていろでもなんでもいいからそう言って欲しかったのに札幌へ帰ってもいいだなんて。何も聞かされずこんな気持ちになってしまうなんて……。


 瀬奈はとうとう寝室へは戻らなかったのだろう。自分と目を合わせようとはしない。きっとあれから眠ってはいないのだろう。その顔つきからわかる。しかしそれ以外は瀬奈はいつも通りだった。
「今日は遅くなるが帰れると思うよ。夕食は先に食べているといい」
「はい」
 やっと目を合わせてそれでも何も言わない瀬奈の顔。沈んだその表情に聡は車へ乗り込むと大きく息を吐くのを止められなかった。
 自分のやっていることがわからないわけでもない。瀬奈が何も尋ねずにいることをいいことに自分はなんてことをしているんだ。瀬奈はもうすっかりこの家に慣れた様子で川嶋や小林ともうまくやっているようなのに瀬奈が慣れていないのは自分だけ、夫であるこの自分にだけだ。
 そして夕べ、瀬奈の固い態度に自分のしていることがあまりにも瀬奈の心を考えていないことに気がついて何とかしようと思って心にもないことを言ってしまった。札幌へ帰ってもいいなど
と……。しかしそのほうがもしかしたらいいのかもしれない。今日も瀬奈に時間を割いている暇はないのだ。 せめて明日……。聡はそれが言い訳なのだとわかってはいたが、今日1日を乗り越えなければどうにもならない。

 聡が出かけてしまった後でやってきた川嶋は瀬奈の様子に内心またため息をついた。聡様はどうするつもりなのだろう。
「奥様、今日は美容院へいらっしゃる予定ですね。美容院へ行ってそれからお買い物でもされたらいかがでしょう」
「そうですね……でも」
 瀬奈が今日はひとりで散歩へ行きたいのだと言った。落ち着いてはいたが寂しそうなその言い方はやはり元気がない。
「わかりました。そういたしましょう」
 川嶋もそう言うしかなかった。

 瀬奈はひとりで散歩へ出た。歩きたかった。何も考えずに歩いて外の空気を吸いたいと思っていたが川嶋は瀬奈がひとりで散歩へ行きたいと言っても何も言わなかった。川嶋さんにもわかっているのだろうか……。
 いつものように商店街を抜けて小学校のあるほうまで歩いて行った。小学校を見て、その先へと歩いていく。今までこんなところまで来たことはなかったが、住宅街を通る道沿いに真っすぐ歩いているから迷子になることもない。住宅街からやがて広い道路へ出て交差点まで行きその道を横切る。 しばらく歩いてから同じように続く変化のない街並みに瀬奈はそろそろ戻ろうと引き返した。案外遠くまで来てしまった。ひとりで歩くのは久しぶりだったからだろう。
 何事もなく家まで戻って門を開けてもらおうとインターホンを押そうとしたが、それよりも早く川嶋が出てきて門を開けてくれた。やはり心配して待っていてくれたのかもしれない……。

 その時うしろから声がしたように感じて瀬奈はなにげなく振り返った。
「奥様!」
 川嶋の叫ぶ声が聞こえたが、ぱっと目の前を覆う人影に瀬奈の体はよろめいた。男に肩をつかまれ門の格子に背がぶつかったが、それがなければ転んでしまっていただろう。
「……!」
 同時に男の手が瀬奈から離れた。男がふたり揉み合うようにしていたが相手の腕を押さえているのが三田だと気がついた。
「奥様! 早く」
 川嶋に手を引っ張られ門の中へと入れられる。
「三田さん!」
 瀬奈が叫ぶと三田はようやく相手の男の体をどんと突き放した。 地面に尻もちをつくように倒れた男が立ちあがる。まだ30代くらいの男だったが背広を着ていてもネクタイをしたその襟元が乱れている。
「帰れ」
 三田が言った。すでに瀬奈は門の中で格子のむこうだ。
 男が何かを言ったようだった。唸るように言ったその言葉は瀬奈にははっきりとは聞き取れなかった。
「川嶋さん」
 わけが解らず瀬奈が川嶋の手を握りしめる。川嶋も立ちつくしている。
「帰れ」
 三田が再び言った。男は背を向けると走るように離れ、門の中にいる瀬奈にはすぐに男の姿は見えなくなった。

「大丈夫ですか」
 家の中で座っている瀬奈へ三田が言う。
 驚きはしたがけがをしたわけではないので瀬奈は大丈夫だと答えたが男に肩をつかまれた感覚が今も残っている。
「三田さん、あの人はいったい……」
「説明してあげたいが社長へ連絡するのが先です。ちょっと待っていて下さい」
 三田は電話をするために居間を出て行ってしまった。さっきから川嶋が瀬奈のそばに付ききりで離れようとしない。
「奥様、申し訳ありません。私がいながら」
「そ、そんなことはないわ。川嶋さんのせいじゃないもの。わたしがひとりで散歩へ行ってしまったから……」
 今まで川嶋が瀬奈の散歩や外出にいつも一緒だったその訳がなんとなくわかったような気がした。ただ東京が物騒だからというわけではなさそうだった。それにしてもあの男がなぜ瀬奈を襲おうとしたのかその理由がわからない。
「社長が戻ってこられるそうです」
「聡さんが」
 戻ってきた三田に言われて瀬奈は急に狼狽してしまった。聡さんが会社から帰ってくる? だけど何て言ったらいいの……夕べあんなことがあって……それで今日は……。
 そんな瀬奈の様子を三田はやはりじっと見ている。
「やれやれ、私から説明しなければならないようだ。瀬奈さん、少し聞いてもらえますか?」
 瀬奈がうなずくのを待たず三田が向かい合って腰を下ろすと、そして話し始めた。

「ふん、つまらん」
 遠ざかる近藤の姿を車の中で見てから東郷はそう言い捨てて車を出させた。 森山の家の前を通ったが東郷は目も向けない。すでに瀬奈は家の中へ入ってしまっていることなど見なくてもわかる。
 近藤の劣等感につけこんでうまく協力させたところまでは良かったが、偽の投資話で近藤は最後のところでおじけづいてしまった。偽の大手商社の役員を外資系証券会社に紹介する役は近藤がするはずだったのに。それとも何か東郷が裏で関係していることに気がついたか。東郷は別にそれはどうでもよかった。 近藤に自分の存在を気がつかれても何の証拠もない。偽の投資話は完全に東郷とは関係ないようにしてある。
 近藤を森山の家へ行かせたのも東郷だったが、またしても近藤は失敗した。これだから小物は困る。しかし東郷はそんなことは意に介さないといった笑いを浮かべていた。近藤など所詮ただのカードの1枚に過ぎない……。


2008.04.23

目次    前頁 / 次頁

Copyright(c) 2008 Minari all rights reserved.