花のように笑え 第1章 7

花のように笑え 第1章

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 経理部のひとりの社員が部長室へ呼ばれた。近藤という30代の男性社員。何だろうとまわりの社員がデスク越しに顔を見合わせる。しかし静かに出ていく近藤に社員たちはまたすぐに自分の仕事へと戻る。そして経理部長は社長室へと近藤を伴い、その後二度と近藤が自分のデスクへ戻ることはなかった。

 社長室の窓際で険しい顔で窓の外を見ながら聡は頭の中では辞めさせた社員の事を考えていた。近藤というその男は経理部では中堅どころといった目立たないポジションだった。
 すでに近藤が手引きをしてAMコンサルティングの社員を装った男が総合商社の役員を名乗る男を外資系証券会社へ紹介させていることを突き止めていた。AMの社員という男も総合商社の役員と称する男も別人が成り済ましていた。近藤自身がそれを行っていないのは近藤もそれほど馬鹿ではないということだろう。 それとも騙されたか。金に釣られたのか。ただ近藤の手引きで偽のAM社員の名刺や総合商社の書類が作られている。
 近藤は落ち着いていた。社長である聡の言うことを黙って聞き、そして解雇を言い渡されても無言だった。その時の聡を見た近藤の一瞬の表情。聡と年齢も近い、妻も子もあるという近藤が社長である聡を見たその表情は何だったのだろう。ふたりは今まで直接話したことさえなかった。 会社のトップとして上り詰めている森山聡と一社員である近藤。その近藤の思い、それは聡にもわからなかった。聡は近藤が黙って頭を下げて出て行くのを苦い思いで見送るしかなかった。まるで自分の犯した過ちのように。

 聡は窓際でふーっとため息をついた。会社の他の人間には見せられない疲れたため息だった。何もかもが思うようにいかなかったが今の聡には自暴自棄にさえなれない。
「社長」
 後ろに三田が来ていたのに気がついてはいたが聡は窓の外を見る視線を振り向くことはせず、じっとそのままでいた。
「少し休んだらどうだ」
 三田らしくない言い方だ。今回のことではあれだけ俺の尻をひっぱたくようにして今まで来たのに。まあ、そのおかげでこうして今も社長室にいられるのだが。
 聡にとっては当然だったが経理関係の不正は見つからなかった。社長である自分が知らないで粉飾決算などができるはずがない。 結果として経理関係のチェックは徒労に終わってしまったが、偽の投資話の件も近藤の解雇で新たな手を打てるところまで来ていた。このふたつが関連のあることかどうかまだわからなかったが、ここまで巧妙に疑惑を抱かせるのは誰の仕業なのか。
「いいえ、もう少し」
「今、お前に倒れられるとまた厄介なことになるんだがな」
 やっと振り向いて聡はふふっと笑って見せた。
「大丈夫ですよ。三田さんよりは若いですから」
「このままでは瀬奈さんを失うぞ」
「…………」
 三田が聡の心の中を見透かすような目で見ている。
「……そうですね。考えていると言い訳しても三田さんには通じないでしょう。正直言って俺は瀬奈どころじゃなかった。今回のことでは自分の小ささが良くわかりましたよ」
「まだ終わったわけじゃない」
「そう……そうですね。負けるわけにはいかない。さあ会議へ行きましょう」

 あの石頭が、と三田は心の中で舌打ちした。聡を休ませるように他の幹部連中へ言ってついでに簡単に脅しもかけておいた。社長を休ませなければどんなことになるかわかるだろうと。その後三田は会議へは出ずに聡の自宅へと戻った。庭にいた瀬奈へ近づくと瀬奈も気がつき、かすかにほほ笑む。
 今まで三田はこんな若い娘と話をする機会などほとんどなく年月を過ごしていた。気むずかしい顔をして口数の少ない三田は若い女と話すような話題は持ち合わせてはいなかったし、自分でも若い女と話したいという気もなかった。瀬奈とも必要なことを話しているだけだったが瀬奈は年上の者へ対する礼を持って三田へも接してくれていた。 控えめな笑顔の自分の娘ほどの年齢の瀬奈。
 三田は瀬奈の前へ来てまじまじと瀬奈の顔を見たが、そんな失礼にも瀬奈は不快な顔さえ見せない。若く美しい瀬奈。この妻のために聡はあんなにも無理をしているのだ。しかも瀬奈を抱きもせずに。
「三田さん」
「社長を帰らせますから。必ず。待っていて下さい」
 三田にそう言われても瀬奈は目を見張るばかりだった。この前、聡が東郷のことを聞いて
怒って出かけてしまってから聡は会社の近くのホテルへ泊まりこんでいた。あの時の聡の激しい反応。瀬奈には理由はわからなかったが、それ以来彼は家へ戻っていなかった。聡から電話で今週は会社の近くのホテルに泊まるからと連絡を受けていたがその電話にも、もう瀬奈は返事をすることが精一杯だった。 聡の口調は静かなもので土曜日の夜には帰ると言っていたが。
 三田はそのことを知っているのだろうが、そこまで心配してくれるのも不思議だった。三田さんにしろ川嶋さんにしろそれが仕事とは思えないほどにわたしを気にかけてくれるのはなぜだろう。この家の人たちにわたしは守られているような気がする。ただ聡さんを除いては……。 でも心配かけまいと瀬奈は寂しい笑顔を浮かべるしかなかった。

 土曜日の深夜、やっと聡が帰宅してきた。瀬奈が出迎えたが聡はろくに瀬奈を見ようともしない。書斎へ入って上着やカバンを放り出し億劫そうにネクタイを引き抜く聡の疲れた様子。まるで限界にきているようだ。
「あの、何か召し上がりますか?」
「いや、いい。休みたいんだ」
 書斎から出てきた聡に瀬奈は尋ねたが聡はそのまま寝室へ入り瀬奈がいることにもかまわず服を脱ぎ、パジャマを着るとベッドへ倒れこむように横になってしまった。
「…………」
 聡の脱いだ服を持って居間へ戻った瀬奈はそのままソファーへと座りこんだ。泣きたくはないのにぽたぽたと涙が落ちていく。膝の上に置いた聡の白いワイシャツへ涙が落ち、染み込んでいく。
「う……」
 いくつもの涙。いくつもの涙の染み。瀬奈の慰めにすらならない涙が落ち続けていた。

 瀬奈は寝室へは行ったがほとんど眠れないまま体を強張らせるように聡の隣りに横になっていただけだった。夜が明けると起きだし居間にいてそのまま聡が起きるのを待つ。川嶋が心配してくれたのだろう、瀬奈はいいと言ったのだが日曜日だというのにいつもと同じ時間に来てくれた。 朝食を食べようとしない瀬奈を食堂へ連れて行き普段どおり話しかける。
「旦那様はお疲れですからこのままお目覚めになるのを待ちましょう。どうぞ、奥様は朝食を召し上がってください。旦那様にはいつでもお食事ができるように準備しておきますので」
 瀬奈へ朝食を勧め、瀬奈もおとなしく食べたが居間へ戻ると瀬奈はやはりソファーへ腰を下ろし何もしないでそのまま待ち続けた。聡が起きてくるのを。

 昼近くなって静かに寝室へ入ってみた。聡はあのまま眠っているのか、なかなか起きてこない聡に心配になっていた。カーテンを引たままの薄暗い寝室のベッドで眠りこんでいる聡に近づいてベッドサイドへ膝をついて彼の様子をうかがう。具合が悪いのだろうか。背を向けて横向きに眠っている聡の顔を見ようと身を乗り出すようにした時、聡が寝返りを打ち体がこちらを向く。 思わずぎょっとした瀬奈の気配に気がついたのだろうか、聡が目を開けた。
「……ああ、君か」
 ふーっと聡がため息のような声を出した。また目を閉じてしまう。
「もう少し眠らせてくれないか」
 瀬奈は答えず黙って立ちあがった。寝室を出る。居間へ戻ってまたソファーに座る。瞬きも忘れたように瀬奈は身動きをせずじっと座っていた。途中で川嶋がお昼はどういたしましょうかと聞きに来たが瀬奈は「用意をお願いします」と答え、なおも動かない。聡のいる寝室のドアをじっと見つめ瀬奈はそうして座っていた。

 もう午後の2時を過ぎている。
 ふいにパジャマ姿で聡が寝室から出てきた。ドアを開けた瞬間に瀬奈と目が合って瀬奈がそこにいるのがわかっているのに何も言わない。洗面を済ませ着替えをして聡が出てきても瀬奈はさっきのままじっと座っている。
「小林さん、食事をもらえますか」
 内線電話でそう言うと聡はやっと瀬奈を振り返った。
「食事をしてきます」
「はい」
 瀬奈の答えに聡は階下の食堂へ行ったがテーブルにふたり分の支度がしてあるのを見て眉をひそめた。
「小林さん、これは?」
 小林が急に狼狽した表情で答える。
「申し訳ありません。奥様もお昼を召し上がっていらっしゃらないのでご一緒かと。失礼しました」
「瀬奈が? まだ食べていない?」
「奥様は旦那様が起きられるのを待っていらっしゃったのですよ」
 川嶋が静かに、しかしむずかしい表情で口をはさんだ。
「私を?」
「はい、聡様を」
「…………」
 川嶋にだめ押しされたように言われて聡は沈黙した。

「瀬奈」
 居間へ戻って瀬奈の前へ行く。座ったまま目を上げる瀬奈。まっすぐ静かなその視線に聡は自分のほうが目をつぶりたくなった。
「一緒に食べよう。待っていてくれたんだろう。気がつかなくて悪かった」
「……いいえ」
 静かに立ちあがって瀬奈が聡について階下へ降りていく。

 ……奥様は、と川嶋は心の中でため息をついた。
 お若くてとても素直だ。その気持ちそのままで戸惑いながらも聡様を信じようとしている。
 でも……。
 いつもと変わらない様子で食卓につき、聡様に話しかけられれば穏やかに受け答えをしている。しかし聡様の疲れた様子は隠しようもないし、ふたりの会話はどこか空気が違う。聡様は気がついているのだろうか…… 。

 食事を終えてまた2階の居間へふたりで戻ったが、聡は「ちょっと失礼するよ」と言って書斎へ入ってしまった。しばらくして聡が書斎を出てくると瀬奈はソファーへ座り、読みかけの本を手に取ってページを開いていた。その様子を見て聡はまた書斎へ戻りパソコンを前にして家でも片付けなければならない仕事に没頭していくうちに時間の感覚がなくなってしまったようだった。 窓の外を見てもう夜だと気がついて急に立ち上がった。居間へのドアを開けるとやはり瀬奈が
座って読書をしていた。
「……瀬奈」
 ページを開いた本。それを手にしていても瀬奈の視線はその本を見てはいなかった。像のように微動だにしない。しかし聡が近づくと瀬奈の視線がゆっくりと聡へ戻された。
「夕食は?」
「準備ができているそうです」
「そうか、ありがとう」
「食堂で召し上がられますか?」
「そう……そうだな。そうしよう」
 聡がドアへ向かったが瀬奈は立ち上がらなかった。
「瀬奈」
「はい」
「君も一緒に来なさい」
 素直に瀬奈が立ちあがる。無言だったが。


2008.04.17

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