花のように笑え 第1章 9

花のように笑え 第1章

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 成り上がりの森山聡。だが頭のいい秀才というだけでもなく、勢いだけのIT寵児でもない。そんな森山聡が東郷の前に現れたのは聡がまだ中学生だった時だったが、聡は最初から東郷のカンにさわった。
 東郷は高校生でありながらすでに陰では名の知れた存在だった。東郷自身が不良だったいうわけではない。表向きは優秀な学生を装い、いや勉強に関しては事実優秀だったがそれは東郷が学校など頭から問題にしていなかった証拠だ。父親の会社が裏で懇意にする暴力団の幹部が東郷昭彦のところへ挨拶に来るほどで、 高校生だからとなめてかかると痛い目を見るぞとささやかれる昭彦の名は父親の金の力だけではない人を支配する力、従わぬ物を許さない冷徹な気性とともに暗然たる力を持ちつつあった。しかも名も姿も表には出さない狡猾さも。
 そんな東郷にまだ中学生だった森山聡はつまらない喧嘩を繰り返し影の世界へ足を突っ込みかけていたが、夜の街のルールも影の世界の縄張りもわかっていないただの不良だった。おそらく家庭か学校にでも不満があるのだろう、突っかかるように闇雲に荒れている聡は東郷から見れば目障りな子どもでしかない。 体も大きく、伸ばした髪で大人ぶってはいたが目の光はふてくされた子どもの持つそれだ。東郷には聡の内面が子どもであるということがなによりも腹立たしかった。ここには子どもなど必要ない。
 ある夜、派手に喧嘩をした聡を東郷は手下へ命じて痛めつけておとなしくさせてから連れてこさせた。血をにじませて腫れあがった聡の顔を見ながら言ってやる。
「中学生は学校へでも行ってろ」
「あんただって高校生だろう。あんたが東郷か。たいしたもんだな」
 子どもだと思っていたがどうやら聡は東郷のことを知っているようだった。油断できない。手下の手で床へ転がされて動けないのに森山聡が強気な口をたたくとビシッとした緊張が手下たちに走る。
「俺に口をきくな」
「じゃあ、なぜ俺を連れてきたんだ? 言ってみろ」
 その生意気な言い方に手下のひとりに腹へ蹴りを入れられて黙らされる。東郷は決して自分では手を出さない。
「目障りだ。消えるんなら忘れてやる」
 聡の右腕の骨を折らせるとそう言って放りだした。それから聡が姿を現さなくなったのであの生意気なガキも腕の骨をへし折られて怖気づいたと嘲笑っていたが、しかし、しばらくして北海道へ送られてしまったのだと聞いた。 旭川にある働きながら矯正生活をさせられるという牧場へ送られてしまったという。どうやら聡に手を焼いた親類の差しがねらしいという噂だった。
 馬鹿なやつ。鼻でせせら笑った東郷だったが、十何年後かに何かのパーティーで偶然にもその森山聡と顔を合わせることになるとは東郷も予想していなかった。

 公表されている経歴では森山は東京の国立大学を卒業しているという。調べたら詐称ではなかった。東郷の出身大学とは異なったが、あの不良が大学とは。表向きは優秀な学生として親の金などに頼らなくても一流大学を卒業していた東郷は、この時森山がふたたび自分にとっての目障りになったことの不快さに顔を歪めた。
 聡には東郷が嫌悪した無鉄砲な子どもだったころの面影はすでになかった。東郷に気がつきながらも堂々と挨拶をするしぶとささえ感じられた。その頃は東郷の会社のティーオールカンパニーのほうが会社の規模としては大きく、コンサルティング会社だけではなく人材派遣やインターネットでの音楽配信、ネット広告事業、 通販などいくつかの会社を持っていたから東郷にしてみればAMコンサルティングなど歯牙にもかけていなかった。しかしコンサルティング部門ではここ2年ほどであっという間に森山の会社に追いつかれようとしている。
 消えていれば忘れてやったものを。何もかもが気にくわなかった、森山聡の。
 また東京へ舞い戻ってくるとは、しかも東郷の会社と張り合うとは身の程知らずも甚だしい。まあ、つぶしてやるまでだ。札幌の高校生と婚約しているそうだが、どうせ取引だろう。AMコンサルティングを叩き潰す前にその娘を調べてやろう。どうせつまらない娘だろうが森山の気持ちを逆なでしてやるのも面白い。

 森山聡が会社から帰る暇もないほどになっていると知っていて、いや、そうなるようにしたのは東郷だったが、その隙にわざと森山の家を訪ねた。
 若くて美しい妻など金を使えばどうとでもなる。東郷にも生まれが良く美しい妻がいる。しかしなんの疑問も持たず東郷の金で贅沢な生活をし、美しく着飾る妻は飾りとしての妻なのだからそれでもよかった。森山の妻も同じようなものだろうと思っていた。瀬奈の顔を見るまでは。 金持ちの妻にありがちな気取った感じすらなく、育ちの良さを鼻にかけるほどの出自でもない平凡な娘。 しかし瀬奈の控えめな素直そうな美しさは東郷がかつて見たことのない種類の美しさだった。子供っぽいだけではない無垢な美しさ。
 ……おもしろくもない。ただの田舎娘だ。しかしこの娘を花咲かせたらどんなにか匂いたつように美しくなるだろう。それが出来るのは夫である森山聡だけだ。今のところは……。


 三田は淡々と瀬奈にも解るように説明してくれた。
「AMコンサルティングは危ないところでした。でっち上げの投資話を外資の証券会社へ紹介した場に本当のAMの社員がいなかったことがいささかの救いです。まだ気は抜けませんが会社が潰れることは免れるでしょう」
 瀬奈がはっとしたのが三田にもわかった。会社が潰れるという言葉に瀬奈は動揺しているようだった。ああ、それで、と三田は思った。三田も瀬奈の父親が事業に失敗してしまったことは聞いていたし、結果として瀬奈が叔父夫婦に引き取られていたことも知っている。だからこそ聡は瀬奈へは何も言わずにいたのだろう。 父親の失敗をまた夫がしてしまうことに瀬奈はどんなに傷つくだろう。聡もきっとそう思ったのに違いない。
「でっち上げの投資話を手引きしたのがさっきの男です。社長に解雇されましたが恐らく逆恨みか何かでしょう。私たちも注意していましたが奥様にまでこんなことになってしまい申し訳ない」
「いいえ……」
「会社のことは本当は社長が奥様へ直接言うべきだと思いますがね。あの人は本気であなたのことを好きらしい。もし何もかもを失ってしまってもあなたを巻き込みたくはないと考えているのですよ」
 瀬奈は何も答えずにいたが三田が話してくれた聡の会社が危なかったこと、何百億もの負債を抱えることになったかもしれないことが瀬奈の心の中で理解されて落ち着いていく。聡の尋常ではない様子、疲れた限界にまできていた様子。
「それは……わたしのために」
「好きな人にこそ言えないということも世の中にはあるということです」
 自分がこんな甘ったるい言葉を吐くとは思わなかったが、瀬奈のために、聡のために三田は似合わない役回りを演じるしかない。

「少し……ひとりにしてもらえませんか。聡さんが帰って来るまで」
 川嶋と三田が居間を出ていく。しばらくして瀬奈は自分の部屋へ戻り、また出てくると階下へと降りて行った。


 森山聡は今回の偽の投資話で解雇した近藤が会社にある書類を残していったという報告を受けていた。 偽の商社役員を演じた男がどういう人間か、ある組織の名が記されていた。
 聡はその筋に詳しい警察退職者に問い合わせをしていた。その組織の下部組織といういくつもの組の名のひとつに目がとまる。記憶の底を探って聡はその組の名に行き当たった。聡が右腕の骨を折られた時にまわりにいた男たち。彼らはあの組ではなかったか?
 投資話で集められた資金がどこへ行ったのか警察は調べているだろうが、まだそれも明らかにはなっていないようだった。あの莫大な資金が特定の組織に流れていたら……考えただけで背筋が寒くなる。
 聡は東郷が自分のいない隙に家へ来たことで注意をするように川嶋たちへ言ってあった。自分だけならまだいい。東郷が嫌がらせのように瀬奈に会いに来たことは……。抑えきれない怒りが沸く。やはり瀬奈は札幌へ帰そう。何かあってからでは遅い。東郷は俺という人間を嫌っているのだから……。
 瀬奈を抱かずにこのまま別れよう。そうすれば自分の事業の失敗に巻き込まれることも、東郷や誰かの嫌がらせを受けることもない。瀬奈を解放してやれるのは自分しかいない。
 そう考えていたところで三田から近藤が家に現れたと連絡を受けた。

 聡はすぐに部下に今日の仕事に関する指示を出してから会社を飛び出したが、戻る途中でこんどは瀬奈がいなくなったと川嶋が電話をしてきた。
「いなくなった? 瀬奈が?」
『旦那様のお帰りになるまで……お部屋にいると……でも私が気がついたときにはもう姿が見えなくて……』
 あきらかに川嶋の声が狼狽している。家まで戻るその時間が恐ろしく長く感じられる。
 瀬奈がいなくなった? なぜ? 近藤のことがあった直後に瀬奈が? もしかして誰かが瀬奈を……という考えが頭をかすめて体が冷たくなる。あり得ないことではない。もしかしたらあの東郷が?
 瀬奈に、瀬奈になにかあったら自分はどうしたらいいんだ。仕事に縛られ、あまりにも小さすぎた自分。瀬奈を札幌へ帰そうとまで思っていたのに瀬奈を失いたくはない。自分の定まらない思いで瀬奈を身動きさせないようにしてしまっていたのに。今までのことは本当に瀬奈のことを思いやっていたことだと言えるのだろうか。
 激しい後悔に聡は自分を責め続けていた。

「旦那様!」
 飛び出してきた川嶋に瀬奈がいなくなった時の様子を話させる。近所はもう見て回ったという。
「川嶋さん、瀬奈の携帯は?」
「それが……お部屋に置いたままなんです」
 この家へ来てから聡と携帯で話すこともない瀬奈は遠慮して札幌の友人や叔父たちへもほとんど電話する事もなかったという。
「…………」
 そんなことさえ知らなかった。聡は唇を噛んだ。そして瀬奈の携帯電話の横に置かれた平たい小さな箱のふたがずれて中から1枚のカラー写真がのぞいていた。赤ん坊を真ん中にしてその両親と祖父母らしき人たち。
「……先生」
 聡にとっては知っている人物がそこに写っていた。それは瀬奈の祖父の田辺康之だった。
「旦那様、警察へ電話しましょう」
「三田さんは?」
 三田は家にいるはずだ。さっき電話をしてきたのだから。しかし三田も姿が見えないという。なぜだ? なぜ三田までいなくなっているんだ? その時電話が鳴り、聡が飛びつくように出た。
『社長? 三田です』
「三田さん!」
『今、瀬奈さんは品川駅の近くを西へと向かっている。このまま俺がついて行くからお前はすぐにこっちへ来い。たぶん羽田へ行こうとしているのだと思う。急ぐんだ』


2008.04.28

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