彼方の空 9

彼方の空

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「宮沢さん」
 沢田拓海がなにも言わず離れていったあとで高宮が振り向いて、名前を呼ばれただけなのに宮沢は背筋が寒くなった。
「申し訳ありません!」
「いや、宮沢さんは個性的な後輩をお持ちだ」
 さらりと皮肉を言われる。高宮が面白くないだろうことくらいわかる。噛みついた拓海が悪いとはいえ、あんなことを言われて高宮が黙っているはずがない。 謝っていいのかどうか宮沢にはわからなかったが、とにかくこの人はあの三生の夫で白広社の社長なのだからここは謝っておくに限る。 フリーとはいえ今もCMプランナーとしての仕事のほとんどは白広社とやっているだけに、この社長を怒らせたら後がまずいことくらいわかっている。高宮が個人的な感情を仕事に持ち込むとも思えなかったが、 俺は立て続けに謝っている、と思いながら。
「だからというわけではありませんが」
 もう高宮はいつもの様子に戻っている。
「あの沢田君には映画を撮っている仲間がいるでしょう。大学のサークルかなにか」
「あ、それは映像研究会です。じつは俺も大学のときに所属していました」
「それは好都合です。ではその仲間か友人か、調べて連絡を取ってもらえませんか。私から頼みたいことがあるので私の名前を出してもらってもかまいません。明日、必ずお願いします」
「はい、わかりました」
 高宮の依頼というのがどんな事なのか、とても尋ねる気になれずに宮沢は返事をした。

『さっきはタクミが悪かったね』
 ジェフはずっと黙って聞いていたが、パーティーも終わりに近づいて宮沢も近くにいなくなると高宮にもう一度近寄ってきてそう言った。
『いいえ、先程は失礼しました』
『タカミヤは奥さんを愛しているんだね。日本人はそういうことは言わないと思っていた。でもわかるよ。私も新婚だからね。じつはあなたの奥さんに会っている。タクミの大学で』
 にこりと人懐こい顔で笑うジェフ。しかし高宮はやはりジェフがなにか思惑があったのだと思った。沢田は宮沢だけでなく、ジェフも同じことを考えていると言っていた。三生に対して。
『彼女を見たよ。若いのに内に秘めているものがあった。タクミの気持ちもわかるな。それに
とても似ていた』
『似ている、とは誰にです?』
『もちろん、私のワイフにだよ。ワイフがあなたに会いたいと言っている。会ってみるかい?』

 高宮は自分の社用車にジェフを同乗させると彼の滞在しているホテルへと向かった。
 高層ビルのホテルのスイートルームのある階。静かなその階の廊下をジェフが先に立って部屋のドアを開けた。
『どうぞ』
 気さくな顔でジェフが言った。開けたドアの中にひとりの女性が出迎えるように立っている。
「あなたがタカミヤ?」
 それは日本語だった。






「キャスリーン・グレイです」
 キャスリーンはゆっくりと確かめるように日本語で言った。
「日本語が話せるのですね」
「すこし、だけ。えいごで、おねがい」
 そう言われて高宮は英語に切り替えた
『はじめまして、高宮雄一です。あなたが日本にお出でになっているとは知りませんでした』
『今回はプライベートな旅行なので』
 ジェフは近くのひとりがけのソファーへ座りキャスリーンを見ながらときどき高宮も見ている。
『ジェフはわたしのパートナーなの』
『ご結婚されていたのですか』
『ええ、三か月前に。三生とあなたが結婚したのと同じときくらいかしら。でもジェフとの付き合いは二年ほど前からなの』
『そうですか』
 座っているキャスリーンは当然のことながら女優としてメーキャップした顔ではなかった。白い長袖のぴったりとしたTシャツ型のトップスにパンツスタイルで背筋の伸びた、けれども余計な緊張感のない座る姿だった。先ほど高宮を迎えたキャスリーンはスクリーンのイメージほど背が高くなく、三生よりも少し小柄なくらいだった。

 キャスリーンが三生を産んだのは二十歳の時だったと聞いている。だから今は四十二歳のはずだが、濃くない化粧でもスクリーンで見るのとは違う美しさがあった。肩へかかるウェーブのある髪は金髪と栗色の中間のような明るいブラウンで同じ色の瞳。 白人の、アメリカ人の顔で、日本人の血を引く三生とは違いを感じさせるような顔だったが、やはりどこかしら共通するものもある。
『日本へ来たのは三生と会うためではないのですか』
『迷っています。だからあなたに会っている』
 高宮の問いに簡潔に答える。性格を感じさせるような答えだった。
『三生に今さらと思われるのが怖くて。憶えていないくらい小さなときに別れたきりの母親をあの子がどう思っているのかわからないの』
 キャスリーンが視線を落としている。視線が陰り、それは作られた表情ではないだろう。別れてから一度も会ってないという三生とキャスリーン。どんな思いで三生がいたのか。高宮にもそれは答えられなかった。

『でも、三生が今、自分の道を歩いているのならそれでいい。あなたと会ってそう思った。あなたと結婚して幸せそうだとジェフが言っていたから』
 そう言ってキャスリーンがジェフを振り返った。ジェフがそうだろう? とでも言うように高宮を見ている。
『あなたに会えてよかった。あなたが三生を愛してくれて』
 また高宮をじっと見つめるキャスリーンの瞳。
 母親としてか、女性としてか、それとも女優としてか。それぞれの思いが込められているかのような。
『三生へ知らせなくていいのですか』
『あなたがいいと思うのなら知らせて。すべては三生の心のままに』

 キャスリーンが立ちあがった。手を差し出し、高宮がその手を握る。三生と同じ細い指。キャスリーンは高宮を見つめていたが抱き合うことはしなかった。キャスリーンのとなりに来たジェフとも握手をして、そして高宮は部屋を出た。


2011.01.15

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