夜の雨 27


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 野田慎二が亡くなった。
 遠からずこの日が来るとは思っていたが、衝撃は否めなかった。日本へ行かなければならないと思いつつメールを見直したが、希和からの知らせはたった一行だけでほかのことは何も書かれていなかった。
 希和が知らせてくれるとは思っていなかった。今回の紅とのことも、いや、それより前から希和にはなにも連絡していない。希和へ電話をかけてみたが、呼び出しのコールがされても希和が電話に出ることはなかった。

 これが希和の答えなのかもしれない。
 俺との直接の会話を希和は拒んでいる。俺からの着信を見ているはずだという妙な確信があったがそれでも希和は電話に出ようとしないのだ。何度電話しても希和は出ないだろう。そして、そうさせているのは俺だ。

 希和と、野田夫人と。
 会うことは避けられない。そのために日本へ行かなければならない。

 希和からメールが来てから一週間後、日本へ発った。






 関西空港に降り立つとまだ十二月になったばかりだというのに空港内の店にはどこもクリスマスの飾り付けがされていて電飾の光が溢れていた。
 四月に野田が倒れてから七か月余り、意識不明のままでよくもったと思う。ニューヨークでの展覧会が始まるまではもってほしいと望んでいたが、野田はそんな俺の希望に応えてくれた。にもかかわらずその展覧会のオープニングに自分で泥を塗ってしまった。
 野田夫人にはアメリカでの展覧会の仕事から離れることが決まったときに電話で連絡はしていたが、それ以後は話すことができていなかった。野田の容体が予断を許さないものだったらしく夫人は病院へ詰めていたと聞いた。オープニングでのことは帰国した紅から話を聞いているだろうと思ったが、申し開きはできない。玄関払いも覚悟して京都の自宅アトリエを訪ねた。

「このたびは申し訳ありませんでした」
 画家の家の玄関で頭を下げて詫びた。家の奥からは線香の香りが漂い、すでに野田の葬儀は済んでいるのだと改めて感じられた。
「永瀬さん、遅いですよ」
 なにが、いや、日本に来ることも、詫びることも、今となってはなにもかもが遅すぎると言われても仕方がない。顔を上げたが黒い服を着た夫人はにこりともしないで俺を見ていた。
「こちらにどうぞ」
 夫人が母屋のとなりのアトリエのほうへ先に立って案内してくれたので付いていくとアトリエの応接間には簡素な祭壇があった。
「どうぞ」
 もう一度夫人が招じ入れてくれたことに少しだが安心した。
 白い布を掛けた小さなテーブルの上には黒ぶちの額に入れられた画家の写真と白菊の花が活けられた花瓶とが置かれていた。写真は画家がアトリエで筆を持って白いパネルへ向かっている姿だった。画家にとっては人生で一番長い時間を費やしたであろう作製中の姿だったが、俺自身はそういった姿を見たことはあまりなかった。アトリエの中だからか焼香のための抹香は置いてなく、写真へ向かい手を合わせて瞑目した。ただそうすることしかできない。

「永瀬さん」
 夫人の声に引き戻された。振り返ると夫人が一枚の紙を手にしていた。
「日本での展覧会は取り止めにしてもらいました。いずれ追悼展か回顧展を行うという条件で。だから永瀬さんが日本での展覧会の仕事から外れようが外れまいが同じですよ」
「それは……」
 差し出された書類を見た。主催をしているテレビ会社との書類だった。予定されていた日本での展覧会自体がなくなれば、この仕事からキュレーターとしての俺が外れたという事実もこれで見えなくなるということだろうか。
「思い違いなさらないでね。あなたのためじゃありませんよ。一番の理由はわたしがそうしたかったからだけど、あなたのためじゃありません」
 夫人の言葉は思いのほか冷たかった。そう言われても仕方ないが、いつも朗らかなこの人に言われるのは堪えた。
「永瀬さんがああいった場で紅さんに暴力を振るうなんて、そんなことをするなんて思いませんでした。野田はあなたを信頼していたのに」

「なにかわけがあったのでしょうけど、紅さんからも話を聞きたいと思っていたのに来てくれなくて野田は亡くなってしまった。紅さんとあなたになにがあったのかわからないけれど、いったいどうしてそんなことになってしまったの」
 夫人の目は怒っていた。大きな声を上げないだけの分別のある人だが、目は怒っていた。責められてもひと言の弁明もできない。
「主人はずっとあなたのことを気に入っていた。まわりの人にはあなたのお母さんのことをいろいろ言ってきた人もいたけど、主人は絵を描く人だから人を見るのも理屈じゃなくて直感みたいなものだって言ったことがある。それくらいあなたのことを認めていたのよ」
 夫人の言葉に顔色が変わったのかもしれない。夫人がそっと俺から目を逸らした。
「あなたのお母さんのことなら主人もわたしもずっと以前に知っていましたよ。あなたと知り合って一年くらいのときだったと思うけど、ニューヨークに来ていた日本の画商のかたが主人に話していたことがあったから。でも、その話を聞いても主人はべつになにも言わなかった。そういう人なのよ、あの人は……」
 夫人の声に涙が混じる。頬に手を当てて押さえていた。

 若くして認められた画家にしては野田は威張ったりすることはなかった。大学教授でもあり学生や若い画家たちにも気さくだった。日本人らしくなく明るい人だった。

 じっとアトリエに掛けられている画家の絵を見た。木々を、樹木を描くことを好んだ画家の未完の作品だった。森の中の小道の先には青い空が描かれていた。ぽっかりと明るい空の先にあるものはなにを暗示していたのか。もうそれを考える資格すら自分にはない。

「申し訳ありませんでした」
 野田の家を辞するときにもう一度頭を下げた。
「そう思うのならわたしにではなく、希和さんにお言いなさい」
 夫人は静かになった声で言った。
「野田の葬儀には希和さんも来てくれました。でも葬儀会場に入ることさえ憚られて何度も謝られて……、こちらが気の毒になるくらいでした。そんな希和さんの気持ちがわかりますか。わたしが言うべきことではないかもしれませんが、あなたは希和さんの心も痛めさせているんですよ」






 京都から東京に向かい、そして家へ向かった。都心の混雑が嘘のように軽井沢へ向かううちに消えていく。長野新幹線から乗り換えて降りた小さな駅は京都や東京では気にならなかった寒さに包まれていた。軽井沢の駅のまわりにはクリスマスの飾りが目に付いたが、ここにはそんな物もなかった。雪はなかったが凍りつくように冷たい道路を家へ歩いた。以前にも冬に来たことはあったが、今日は曇天の空のもとでまわりの家々も木々もすべてが寒々と感じられた。

 希和に会わなければならない。
 野田夫人に会った今は希和に会うことしか残されていない。
 しかし、家の玄関には鍵がかかり呼び鈴の音にも静まり返っていた。家の脇に希和の車が止めてあったが家の中からの音はしない。それでも鍵を持っているから戸を開けて中へ入ることはできる。
「希和」
 家の中へ入って声をかけたが返事はなかった。夕方近くなってすでに薄暗くなっていくなかで家の中はもっと暗かった。リビングもキッチンも寝室も物がないわけでもなく、人が住んでいないという感じはしなかったが部屋の中は静まり返り、寒さで体が冷えていく。

 野田慎二が亡くなったときに希和からメールが来るとは思っていなかった。その後の電話にも希和は出なかったが、それでもまだ希和が家にはいるだろうと思っていた。今となっては笑えるほどの考えだったが、なぜそんなふうに思えたのか。
 希和がいるわけがない。あんなふうに突き放したら、いるわけがないのに。

「希和」
 家の中を見回してもう一度呼んだが、やはり希和はいなかった。


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