夜の雨 1


1  秋 孝

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 駅から歩く道はなだらかな登り坂の坂道だった。道路沿いに住宅が並び、まわりには雑木林が広がるこの土地は古くから有名な別荘地に続いていた。別荘地のいわば入口のような町で、普通の家々もあれば以前流行ったようなテニスコートがあるペンションや企業の所有する別荘も点在していた。八月に入ったばかりでレストランのある店やドライブインには観光客らしい人たちも見えたが、歩いていくうちにそれも見えなくなった。 建物がまばらになり、畑や林が道の周りに広がっていた。
 昼を過ぎたばかりの強い日射しにアスファルトの道路には陽炎かげろうが揺らめき、高原と言ってもいいくらいの標高の土地だというのに日差しは容赦なく照りつけていた。八月の日本はどこも暑い。この暑さの中で上着を着ているのも馬鹿らしくなって脱いだ。林に囲まれた道の端に目印になる番号の書かれた小さな木の板を見つけて、ふうと息を吐きだした。 道から折れた細い道は車が一台通ることができる道幅で、舗装はされていなかったが砂利が敷かれていて、林の先に小さなコテージのような家が見えた。道から少し奥まったところにあるこの家が日本での住まいで、希和きわがいる家だった。

「ただいま」
 玄関には鍵がかかってなかったので黒い木のドアを開けて中へ入ると、奥のほうから人の気配とすぐに玄関へ向かってくる足音が聞こえてきた。
 玄関へ出てきた希和は半袖のシャツブラウスにスカート姿だった。驚いた顔がゆがんだように表情を変えてかすかな笑顔になった。
「おかえりなさい」
 玄関から上がろうとして段差があることに気がついて靴を脱いだ。ここは日本だ。部屋に入ると窓は網戸で、まわりに木立のある家の中は歩いてきた道よりもはるかに涼しかった。手に持っていた上着をリビングのテーブルの前の椅子の背にかけて座ると希和がこちらに扇風機の風を向けてくれた。
「冷たいお茶を持ってきますね」
 キッチンへ戻った希和が小さな盆に載せてガラスの湯呑みに入った冷茶を持ってきてくれた。黒い茶托の上のガラスの器は薄緑色の茶を入れられてうっすらと曇ったような水滴がついていた。ひと口、液体を含み喉を下っていく冷たさを感じながら希和を見た。
 テーブルの向こうに立ち、盆を手にした希和は所在なげというか、こちらの様子を見ているような表情だった。真っ直ぐな髪を首の後ろで束ね、前髪が少し額にかかっていたが、このまえ見たときよりも少し陽に焼けているようだった。けれども色白の希和は焼けてもそれほど黒くはならないのかもしれない。

 結婚したその日に希和とこの家に来て、翌日にはニューヨークへ戻ってしまったからこの家に来るのは三か月ぶりだった。以前は個人の別荘だったという家を買ったのだが、コテージ風のこの家の木々に囲まれた静かな佇まいが気に入った。ニューヨークへ戻る日にはまだなにもなかった家の中にはテーブルやイス、そしてソファーが置かれていたが、希和の好みなのか余計な装飾のない部屋の中は広々と見えた。
「シャワーを使ってもいいかな」
「あ、はい。着替えを持ってきますね。ちょっと待っていてください」
 そう言うと希和は奥の部屋へ入っていった。
 替えのシャツと下着なら持ってきたアタッシュケースに入っていたが、アメリカで大学院を卒業して仕事をするようになって以来住まいはニューヨークで、日本へは帰ってくることはあっても仕事絡みだったから滞在はいつもホテルだった。日本で住まいを持っておらず、ここへの引っ越しも俺の荷物はほとんどなかったから、希和が用意しておいてくれたのだろう。
 希和の持ってきてくれたのはサンドグレーのTシャツと綿のイージーパンツだった。新しい下着もあった。ありがとうと言って受け取ると、まだ言ってなかったことを思い出した。
「一週間ほど日本にいる。仕事で京都へ行かなければならないが、ともかく明日は休みだ」
 え、と小さく言った希和の顔が少し驚いていた。電話もメールも仕事以外では使いたくないから、ここへ帰ってくることも希和には日にちをメールで知らせただけで、それ以上のことはなにも伝えてなかった。この三か月で希和にメールしたのはその一回だけだった。
「あの、それなら、お夕飯の用意しますね。なにがいいですか」
「なんでもいいよ」
「わたし、買い物に行ってきます。秋孝あきたかさんはどうぞシャワーを浴びてください。じゃ、行ってきます」
 そういうと希和は手早く出かける支度をして、もう一度「行ってきます」と言って出て行った。家の後ろ側から車の出る音がして窓から見ると白い軽自動車が細い道を出て行くのが見えた。
 希和はまだあの車に乗っていたのか。
 もう何年も乗っているような車で、結婚したときに希和が荷物を積んで運んできたのもあの車だった。生活費はもちろんのこと、車でも家具でも必要な物は買うように金を渡してあるのに、希和は少しの物しか買っていなかった。

 希和が買い物から帰ってきてからも暑かった。ここは高原だからもっと涼しいかと思ったが、そうでもないらしい。布張りのソファーで持ってきた仕事のファイルを見ていたが、希和は買い物から
帰ってきてからずっとキッチンでなにかしていた。時間がかかったわりに夕食に出てきた料理はありふれた料理だったが、めったに日本に帰ってこなかった身にはどんなものでもかまわなかった。テーブルに向かい合って座り、 ほとんどなにも話さずに食べた。
 途中で希和が「パンのほうがよかったですか」と尋ねてきたが、「いや、これでいいよ」と言って、またひと口食べると希和は小さくうなずいた。
 夕食を終えるころには空はまだ明るかったが、遠くで雷の音がしているようだった。希和が窓の外を見ていて、空はだんだん暗くなってきていたが、それは夕暮れというよりは雨が来る前触れのようだった。いつもこうなのかはわからないが、夕方になっても涼しくならず蒸し暑かった。
 夕食の後でもう一度シャワーを浴び、奥の部屋へ行くとそこには二人分の布団が敷かれていた。フローリングの部屋の中には壁際に扉の付いた木製のクローゼットと奥行きの狭い細長いテーブルと椅子があったが、ベッドはなかった。ベッドは買っておくと希和は言っていたのだが。
「ベッド、買ってなかったのか」
 希和が後から入ってきたので振り返ってそう言うと希和はちらっと戸惑ったような顔をした。
「すみません、どんなのがいいのかわからなくて。秋孝さんに聞いてからのほうがいいかなと思って」
「べつに、普通のでいいよ」
「明日、買いにいきますか」
「いや、インターネットで買えばいいだろう。大きなものだから運んでもらわないとならないし、俺が注文しておくよ。いい?」
「はい」
 そう答えたものの、希和はなんとなく眼をそらしてクローゼットから着替えを出すと部屋を出て
行った。

 布団に寝転がりながら希和がリビングでなにかしている音と、やがて浴室に入っていく音を聞いていた。ときどき聞こえてくる希和の気配に混じって雨の音が聞こえ始めていた。
「降ってきたか」
 この部屋はエアコンがつけられていて窓は閉められていたが、雨音がしてきたと思っていたら
一気に雨音が大きくなった。
「雨がひどくなってきたみたい」
 シャワーを済ませてドアを開けて入ってきた希和が窓に寄って外を見ながらつぶやくように言った。顔を窓ガラスに寄せて暗い外の様子を見ている希和の白い寝巻が窓ガラスに映っている。希和の寝巻は白く薄い生地のすとんとしたワンピースの服で、ほとんど飾りもないシンプルな寝巻はいかにも希和らしかった。
 窓の外を見ている希和のそばへ行って後ろから体を囲むように腕を回すとうつむくようにしたまま身を寄せてきた。うつむいてはいたが、希和の視線は窓側へ向けられたままだった。しばらくそうして外の音を聞いていたが、唇を希和の首筋につけると希和はやっと体の向きをこちらへ向けた。
「灯りを消してください……」
 希和の声は小さな、やっと聞き取れるくらいの声だった。


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