副社長とわたし 18
副社長とわたし
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「今日は浅川さんに助けてもらったけれど、これじゃ何日も会えなかったらどうなってしまうんだろうね」
「え……?」
帰りのタクシーの中で、常盤さんがため息をつくように言った言葉に思わず聞き返してしまった。
「電話? メール? でも、それじゃ会ったことにはならない」
タクシーに乗ってからもつないでいる常盤さんの手に力が込められた。
「あの、それは仕事ってことですか」
「じつはあさってから出張。あと視察とかね。父にちょっとやる気のあるところを見せたのがまずかったのかなあ。ここぞとばかりに山のように仕事を入れられたよ。まったく人の忙しさに拍車をかけてくれて、本当にあの人は性格が悪い」
常盤さんがお父さんのことを話すのって初めてかもしれない。なんだかぼやきだったけれど。
「大変なんですね」
「まあ、仕方ないかな。今までさぼっていたのもあるから」
「常盤さん、あんなに働いていたのに、さぼっていたなんて」
そんなことないのに。でも、わたしは常盤さんの仕事を突っ込んで聞くわけにもいかないのだけれど。
「そう言ってくれるのはうれしいけれどね。でも瑞穂になかなか会えない」
仕事のことはそこまでという感じにして、わたしに会う時間が少ないと言ってくれる。それはそれでなんだかうれしくて恥かしい。
「でも電話する。週末には必ず会おう」
今はそれでいいかな、と思う。いたらいたでオーラ的な存在感のある常盤さんだったから、たぶんわたしは変にどぎまぎしてしまうだろう。今日だってそうだった。わたしは社内恋愛とか、そういうことに上手く立ち回れるほうではないのかもしれない。常盤さんが相手では誰でもそうかもしれないけれど。
次の日、常盤さんは社にいたけれど、総務課長たちが副社長室へ来ていた。
「具体的には第一に女性社員の仕事の配分の見直しです。特に総務部は男女問わず仕事量の偏りを是正してください。早急に」
総務部長と総務課長を呼んでレビュー結果としての改善点の通達を行っていた。
「早急にと言われましても」
総務部長が渋った言い方をする。
「これができないことには話が進みません。どんな会社でもそうですが、社員達の質には多少ばらつきがあるものです。営業などではそれが営業成績に出ますが、数値や具体的な達成目標で表しにくい事務系の社員ではそれが目立たないまま与えられた仕事をするだけです。何年も同じ仕事だけをする。退職者が出ればそれに人員の補充はされますが、課内での配置転換などはほとんどない。違いますか」
総務部長がかすかに渋い顔をした。
「事務系では同じ仕事をミスなく続けることも重要ですが」
「そうですね。でも『漬け物』社員ほど無駄なことはない」
「では、そういった『漬け物』社員を切れと、副社長はおっしゃるのですか」
「部長も『漬け物』という言葉をご存知で話が早い」
総務部長が一瞬むっとしたようだが、すぐにその表情を戻した。
「違います。誰しも最初からモチベーションが低いわけではないでしょう。採用段階からモチベーションの低い人を採用する会社などない」
「ですが」
「これは総務の社員の一年間の残業時間の集計ですが」
そう言って書類を指し示した。
「女性社員の場合、モチベーションは自分で下げるのではなく、下げられてしまうのでは? たとえば与えられた仕事をこなしていればそれでいいと言われて、何年も同じ仕事をして他の仕事との関わりも変化ない。そんな『漬け物』の人がいる一方で、残業が絶えない人もいる。この残業時間のばらつき、これはひと言で言えばかなりバランスが悪い。まずはこれを直してください」
「……しかし」
「残業だけに限った事ではありませんが、女性社員たちが働く環境について少し無頓着なようですね。総務部長も課長も忙しいと思いますがこれは働いてもらう全社員の今後に関わる重要なことです。お願いできますか」
「……わかりました」
総務部長が答え、総務課長もそれにならった。
部屋を出ていく部長と課長。その様子を座ったまま見送った。
常盤さんからは木曜日の夜に出張先から電話があって、金曜日は仕事早く終わる? と尋ねられた。
「たぶん、定時で終わると思います」
「さすがだね。じゃあ僕も瑞穂さんを見習おう」
やっている仕事が違うでしょ。でも会えるのは理屈抜きでうれしい。
金曜日には金田所長も三上さんも出張で直帰の連絡が入っていたから、わたしは自分の ペースで仕事を片付けていた。午後になって出社してきた常盤さんは副社長室で仕事をしていたけれど稲葉さんがずっとついていて、常盤さん、缶詰め状態みたいだった。定時に終われるのかなあと思ったけれど、わたしが仕事を終えて部屋を出たら常盤さんも出てきた。
「お疲れ様です」
「うん、お疲れ様」
稲葉さんが秘書室のほうへ行ってしまうと常盤さんはエレベーターのほうへ行こうとしていたわたしを呼び止めた。
「こっちから行こう」
こっち。それはこの階専用の直通エレベーターだった。わたしがまだ乗ったことのない、あれ。
「こういう時は直通エレベーターが便利だね」
エレベーターの扉が閉まると常盤さんが笑った。正面から抱き締められて、キスされるんだと思ったらやっぱりそうだった。
「ここ、会社っ……」
すぐに常盤さんからの返事はなかった。唇が触れたまま離れなかったから。わたしの唇を開こうとさせる唇に抗いきれずにキスを続けられたけれどやっとのことで顔を離した。
「大丈夫だよ」
なにが大丈夫ですかっ。ほら、もう下へ着いちゃいますよ。
「あ」
開いた扉の先は一階ではなくて、ビルの地下の駐車場だった。
「今日は車で来たから。乗って」
そう言って常盤さんが車のドアを開けた。この東京でこんなオフィスまで車で来ることのできる人って。この人にはちゃんとここに駐車スペースがあるのね。
常盤さんはなぜか楽しそうだった。
「瑞穂に見せたいものがあって」
「見せたいもの、ですか」
なんだろう。
「ここ」
車が止まったのは真新しい感じのマンションだった。
「あの、ここって」
「手頃な分譲があったから買ったんだ」
買った? このマンションを?
「どうぞ、入って」
まるでモデルルームのようにリビングに置かれた家具はそれさえも真新しい。こういうことに詳しくないわたしだって東京でこんな新築マンションの部屋が手頃な値段で買えないことくらい知っている。いや、この人の言う手頃な値段っていうのはいったい?
「ここって常盤さんの部屋ですか……」
「そう。今日の午前中に家具を入れて、夕方には瑞穂に見せたかったから急がせたんだ」
「午後から出社していたのは、だからですか?」
仕事で忙しいんだと思っていたのに!
「驚いた?」
「驚きました。もしかしてマンションのビルごと買ったとか」
「いくら僕でもそれは無理だ」
無理じゃないと思わせるところがおそろしい。
常盤さんはそんなわたしをソファーへ座らせると自分もとなりへ腰を降ろした。
「じつはホテルのようなところはあまり好きじゃないんだ。瑞穂と会うのなら僕も自分の落ち着けるところが欲しいって思った。それにここなら瑞穂にもゆっくり過ごしてもらえると思って」
落ち着けるところ。
それは常盤さんにしてはちょっと意外に聞こえる言葉だった。この人は仕事も人生も思いのままのような人で、そんなことは感じさせない人なのに。
わたしを見る常盤さんは穏やかに少しほほ笑んでいる。
「常盤さん……」
ほほ笑んだままの常盤さんの唇が近づく。
「好きな人と一緒にいたいと思うのは僕のわがまま? こうやってキスしたいと思うのはわがまま?」
唇が触れてしまったらなにも言えない。やっと唇が離れて常盤さんの息を耳に感じた。わたしの耳元にささやく常盤さんの顔はよく見えないけれど、それは副社長ではない顔だ……。
「瑞穂を抱きたいと思うのはわがままかな?」
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