副社長とわたし 奥様、お手をどうぞ 8

奥様、お手をどうぞ

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 久しぶりに見る三光製薬ビルの地下駐車場は朝という時間帯のせいか、止められている車は社用車がほとんどだった。空いている一画に孝一郎さんは車を止めた。

「すみません、起きられませんでした……」
 やはり今朝も目が覚めたのがぎりぎりの時間だった。止めた覚えがないのに目覚まし時計が止まっている。慌ててベッドを飛び出したら孝一郎さんはもう起きて着替えをしていた。
「大丈夫。少しでも寝かせておいてあげようと思って起こさなかったんだ。今日は車で行こう」
 駐車場の許可を取ってあるからと言われて、ぼけっとしてしまったら孝一郎さんに髪の毛を
くしゃっとされて笑われた。
「たまにはいいだろう?」
 クールビズで半袖のカジュアルっぽいシャツを着ている孝一郎さんの笑顔に見とれている時間はないけれど、出勤の途中でコンビニにも寄って、たったそれだけですごく余裕がある。いつもと同じ時間に会社に着いてしまった。車を降りて一階へ上がり、それからエレベーターに乗った。
「おはようございます」
 一階やエレベーターでは出社してきた人たちの何人かと挨拶したが、わたしたちがふたりで歩いていてもどの人も普通に挨拶して通り過ぎていく。
 今まで意識しすぎていたのかも。
 孝一郎さんは三光製薬の社長の息子だったけど、結婚したことを社内に発表するようなことはしなかった。プライベートなことをそこまでする必要がないというのが孝一郎さんやお義父さんの意見だったけど、でもそれは秘密にするということではなかった。結婚式には会社を代表してということで副社長の真鍋さんに来ていただいたし、重役の人たちには挨拶もした。 それにこういうことは自然に広まるものだよと孝一郎さんが言った通り、三光製薬の秘書課や総務の人たち以外にも わたしが思っているよりもはるかに多くの人たちがわたしたちが結婚したことを知っているみたいだ。
孝一郎さんが少しずつオープンにしているからかもしれないけど、三光製薬のビルの中ではわたしたちも他の社内結婚した人たちと同じように見てもらえているのかも。
「じゃあね」
 孝一郎さんが別れるときにそう言って手を握ったのでわたしも握り返して別れた。
 それからいつものように営業所の鍵を開けてからポットを持って給湯室へ行くと珍しく先客がいた。稲葉さんだ。
「おはようございます」
 わたしが挨拶したのに答えて稲葉さんも挨拶してくれたけど、昨日の浅川さんのこともあったので尋ねてみた。
「稲葉さん、浅川さんの体調はいかがですか」
「ご心配かけてしまったようで申し訳ありません。今日は休みを取って病院へ行かせますので」
 稲葉さんは相変わらずの強面で、いつもより眉を寄せて思いっきり顔が怖い。でも、稲葉さんの昨日の様子といい、浅川さんが病院へ行くっていうことは、もしかして。
「あの、浅川さんはもしかしたら」
「はい、子どもができたようです」
 わたしが最後まで言う前に稲葉さんが答えた。
「わあ、おめでとうございます。やはりそうだったんですね」
「まだ診察を受けてないので確定ではありませんが」
 なに言ってるんですか、稲葉さん。製薬会社の社員だっていうのに。最近の妊娠検査薬はすごく精度が高いそうですよ。あ、でも三光製薬では製造販売してないか。
「はっきりしてから浅川から言ったほうがよかったのですが、昨日、急に体調が悪くなってしまいましたので。すみませんが、まわりにはこのことは、まだ」
「あ、そうですよね。今が大切な時期なんですよね。お大事になさってくださいね」
「ありがとうございます」
 そう答えた稲葉さんがほんの少し笑顔になった。うわあ、稲葉さんが笑った……。
 強面だけど稲葉さんは結構男前だ。いや、男前の強面だから余計に怖いんだけど、でも稲葉さんも家では良い旦那様らしい。浅川さんは秘書らしい美人でわたしと同じ歳だけど、稲葉さんとは十二歳差の歳の差夫婦だからきっと稲葉さんも赤ちゃんを待ち望んでいたのに違いない。こういうことって人のことなのにうれしい。予定日っていつなんだろう。お祝いはなにがいいかな。 なんてわたしが脳内で浮かれていたら給湯室の前を人が通った。通り過ぎようとしてすぐに戻ってきたのは賀川さんだった。
「和司(かずし)、ちょっといいかしら」
 開いていた給湯室のドアを形だけノックして賀川さんが言った。和司って一瞬、誰のことかわからなかったけど、そうか、稲葉さんだった。
「おはようございます。副社長室でうかがいます」
 稲葉さんが強面の無表情に戻って答えた。
「ええ、お願いね」
 そう言って賀川さんがわたしのほうを見たので挨拶した。
「おはようございます」
「おはよう」
 素っ気なく返された。賀川さんはすぐに給湯室を出て稲葉さんがその後に続いた。わたしも出ようとしたらちょうどその時、三上さんが大きな体で早足で歩いてきた。
「あ、瑞穂ちゃん、おはよう」
「おはようございます。三上さん、どうしたんですか。今日も所長たちと一緒だったんじゃ」
「それが吾妻産業さんから急に来て欲しいって言われてさ。俺、この後すぐに吾妻産業さんへ向かうから」
「吾妻産業さんって、この前の製品配合の件ですか」
「そう。この前の書類出してくれる? それから所長の交代の挨拶状も持っていくから」
 せかせかと急ぐ三上さんと話しながらトーセイ飼料の営業所の部屋へ戻った。営業所へ入るときに向かいの副社長室へ入る賀川さんがわたしたちのほうを見ていたけれど、それ以上気にする暇がなかった。

 三上さんが急いで出かけてしまうとわたしにはいつもの仕事が待っていたけれど、明日が週末で月末のせいなのか、それとも金田さんが退職してしまうせいなのかわからないが、今日は取引先からの電話が多かった。金田さんも三上さんも不在だから、用件を聞いているうちに取引先から金田さんが退職することに話しがいけば「はい、そうです」のひと言で済ますわけにもいかないから 代わって簡単でも挨拶をしなければならない。事務の合間に電話を受けて、メモを取りながら電話を受けていたら向かいの副社長室にいる賀川さんが見えた。副社長室にデスクを置いて仕事をしているようだった。副社長の真鍋さんもいる。真鍋さんが三光アメリカのCOOだったと聞いてレディ
ファーストが板についた人柄もうなずける。真鍋さんは元部下の賀川さんに快く部屋を使わせているという感じだ。
 けれどもいくら賀川さんが元部下であっても、ただの社員が副社長室を使うということは普通ありえない。賀川さんは三光アメリカで重要なポジションについているということだ。デスクの上の電話と携帯電話と両方を使って話をしていたり、さっき稲葉さんから書類を受け取ってなにかやりとりしている様子がいかにもアメリカのビジネスウーマンだ。電話で話している雰囲気からして違う。 向こうの声は聞こえないけれど当然英語だろう。わたしにとってアメリカのビジネスウーマンは映画やテレビドラマでしか見たことがなかったから、そういうイメージが現実と同じものかどうかはわからないけれど、日本に出張中も仕事をしている賀川さんはまさに仕事ができる女性だ。
 きっと忙しいんだろうな。そう思いながら見ていた。しばらくすると三光製薬の社員が三人訪れてミニ会議みたいなことをやっていた。この人たちとも握手を交わして賀川さんが中心になって座り、話をしている。稲葉さんが時々、副社長室へ入っているけれど、先週から常盤社長は海外へ行っているそうで社長秘書の人たちも同行しているうえに浅川さんも休みだから稲葉さんはいろいろ忙しそうだ。
 昼食の時間になると三光製薬の専務のひとりが来られて、真鍋さんと浅川さんと出かけていった。きっと昼食を一緒にするのだろう。なんだかすごいビジネスランチだけどそれはそれで大変なんだろうな。わたしの昼食はコンビニで買ってきたパンで、今日のお昼も営業所を出るつもりはなかった。昼までに帰ってきたいと言った三上さんを待たなければならないし、帰ってきたらその後また金田さんたちと合流するために出かけなければならない三上さんも忙しい。
 いったん帰ってきた三上さんが慌ただしく出かけてしまうと三時近くになっていた。出かける三上さんには買っておいたスポーツ飲料と塩あめを差し入れした。暑い中を帰って来た三上さんはすごく汗をかいていたので熱中症にならないように。おみやげ好きの三上さんは昨日の出張先で買ったというおまんじゅうを持ってきてくれていたので、自分のぶんはインスタントコーヒーでいいやと営業所を出て給湯室へ行こうとしたら賀川さんが出てきて女性用トイレへ入っていった。
 給湯室に入るとシンクにはコーヒーカップが置かれていた。マグカップではなくて三光製薬の来客用のコーヒーカップだったけど、自分のインスタントコーヒーを作るついでにこのカップを洗って水切りカゴの中へ置いた。このくらいはかまわないだろう。
「あら、あなたが洗ってくれたの。ありがとう」
 意外と早く賀川さんは戻って来た。わたしがインスタントコーヒーを作っているのを見て賀川さんはまわりを見まわした。
「ねえ、ここにはインスタントコーヒーしかないの?」
「これはわたしの会社の物なんです。三光製薬さんの物は秘書室のほうにあると思いますが」
「そう」
 賀川さんが棚を見ながら言った。棚といってもほとんど物が置かれていない。このフロアは三光製薬の社長室と副社長室のあるフロアなので茶器や茶葉やコーヒー豆などは一級品が用意されていて、給湯室に置きっぱなしにされることはなく秘書室で保管管理されている。賀川さんが使っている来客用のコーヒーカップも白地に青い花模様が美しいヨーロッパの有名ブランドのものだ。
「稲葉さんを呼びましょうか」
「いいえ、いいわ。彼も忙しいみたいだし。ねえ、そのインスタントコーヒー少し貰える?」
「え、これですか」
 でもこれ、安いやつなんですよ。と言ったけど賀川さんはかまわずにインスタントコーヒーをブランド物のカップへ入れてお湯をそそいだ。
「ありがとう」
 そう言って賀川さんはコーヒーカップを持つとさっさと行ってしまった。

 賀川さん、昨日わたしと話したことにもまるでこだわってないみたい。孝一郎さんがアメリカ行きを断ったからわたしに対して機嫌が良くなくても仕方ないと思っていたけれど、むしろ普通だ。そういうものなのかな、アメリカのやり方って。
 営業所に戻って仕事を続けていたら、夕方になって稲葉さんがやってきた。明日、常盤社長が金田さんに会いたいと言っているが、都合はどうだろうかと聞かれた。明日も出張だけど午後には戻る予定ですと答えた。
「金田が戻りましたら金田のほうからおうかがいするようにしますが」
「いいえ、金田所長の定年退職に際して社長がぜひお会いしたいということですので、社長からうかがわさせていただきます」
 常盤社長はワンマンだとか言われているけれど金田さんに対して傘下の小さな会社の営業所長だからといって見下すことはなかった。金田さんの人柄と、会社の規模や役職は違っても長年に
渡って誠実に働いてきた金田さんの実績を認めてくださっている。ただ、大きな会社の組織の中ではこういうトップに立つ人の人間的なことはなかなか隅々にまで伝わらないのかもしれない。
 稲葉さんには明日、金田所長が戻ってきたらお知らせしますと伝えておいた。稲葉さんが一礼して営業所を出ていった。そのとき、向かいの副社長室から賀川さんがこちらを見ていた。じっとわたしたちのほうを見ていた賀川さんはどこか醒めたような目だった。


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