副社長とわたし 奥様、お手をどうぞ 5
奥様、お手をどうぞ
目次
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「孝一郎を説得しようと思ったら、まずあなたを説得しなければならないだろうって真鍋副社長が言われた意味がわかったわ。だからあなたと先にお話しさせていただきたいの。いいかしら」
意味、と言われてもわたしにはすぐには飲み込めなかった。それに孝一郎さんを説得って? よくわからなかったからこそ賀川さんの申し出を断ることはできなかった。
「もう昼休みですが、営業所の中でよろしければどうぞ」
「昼食には行かないの?」
わたしが営業所のドアを開けて中へ案内すると、入りながら賀川さんが不思議そうに尋ねた。
「はい。今日はわたしひとりで留守番を兼ねていますから、あまり営業所を空けられないんです。わたしと営業が二人の営業所なものですから」
「そう。あ、お茶は結構よ。わたしは後で昼食を取りに出るので」
やはり賀川さんの物言いははっきりしている。アメリカのビジネスウーマンはみんなこんな感じだろうかと思いながら、賀川さんには打ち合わせ用の小さなテーブルの前に座ってもらい、わたしも向かい合って腰を下ろした。賀川さんはわたしが座るとさっそくという感じで話し始めた。
「孝一郎が副社長を辞めたって聞いたときは驚いたわ。だって孝一郎が副社長を辞めた理由がわからなかったから。わたしも以前の総務課長のことは少し知っていたけれど、あの人を辞めさせた責任を彼が取るなんて理解できないわ。前の総務課長はいずれ振り落とされても仕方がない人だったとわたしは思う。それなのに彼のビジネスマンとしての考えがわからないのよ。孝一郎は将来は名実ともに三光製薬を背負って立つ人なのに」
賀川さんの言うところのビジネスマンというのが日本で言う「営業マン」ではなくて、経営者という意味らしかった。単刀直入に話す賀川さんの話しをわたしは聞き漏らさないように気をつけて聞いていた。
「総務の改革なら彼が副社長でもできることなのに、会社の内務のほうへ行く必要はないでしょう。私も三光アメリカの総務部門の責任者のひとりだけど、孝一郎の場合は本社の総務部よ。孝一郎も知っているはずよ。製薬会社にとって総務というのは会社の業務の中核には当たらない部門だということ。奥様も会社で仕事をされているのならおわかりになるでしょう?」
「でも、孝一郎さんは総務の仕事はやりがいがあるって言ってます」
なんだか賀川さんの言っていることと比べるとわたしが言うことは天と地ほどの差があるみたいだ。
わたしの答えを聞いて賀川さんはちょっと小首を傾げた。そんな仕草もチャーミングだ。でも次に賀川さんから飛び出した言葉にわたしは思わず目を見張ってしまった。
「彼らしくない。孝一郎は総務部長に昇格することが決まっているそうだけど、総務部長にしても彼にふさわしい役職とは言えないわね」
え?
「総務部長、ですか」
そんなの、聞いてない。思わず聞き返してしまったわたしを賀川さんがじっと見ていた。
「言わないほうがよかったかしら」
もう聞いてしまったのにそう言われても、どうにもならない。
「いえ、それは孝一郎さんの考えでしょうから……」
そう答えるのが精一杯だった。歯切れの悪くなってしまったわたしを賀川さんはやはりじっと見ていた。
「私も日本に来たら孝一郎と直接話したいって思っていたのに、孝一郎は勤務時間中は忙しいって時間を取ってくれないのよ。だから今日、孝一郎を夕食に誘おうと思っているのだけど、いいかしら」
孝一郎さんが会食の予定があるって言っていたのはこのことだったのだろうか。それでもわたしはなんと答えたらいいのかわからなかった。それは夕食のことだけではなくて、賀川さんに聞かされたことに戸惑っていたのかもしれない。
そのときだった。営業所のドアがこつこつとノックされて、わたしが振り返ってドアを見たらガラスの壁の向こうに秘書の稲葉さんの姿が見えて、その時には稲葉さんはもうドアを自分で開けて入ってきていた。
「失礼します」
そう言った稲葉さんはわたしではなく賀川さんに向きあっていた。
「話はそれくらいでいいのではありませんか」
「あら、聞いていたの。そんなことを許した覚えはないわよ」
「聞いてはおりません」
立っている稲葉さんは怖いほどに無表情で口だけ動かして答えた。
「それなら変な気は回さないで欲しいわ」
どことなくつんとして賀川さんが答えた。賀川さんは稲葉さんがここへ入ってきたことを良く思っていないようだったけど、でもわたしはちょっとほっとしていた。
「真鍋副社長がお呼びです。昼食をご一緒したいと」
笑みひとつ浮かべずに稲葉さんがそう言うと、やっと賀川さんは立ち上がった。
「わかったわ、失礼するわ。あ、それから瑞穂さん」
稲葉さんが開けた営業所のドアのところで賀川さんが振り返った。
「わたしは孝一郎がアメリカへ来てくれるのをずっと、ずっと待っていたの。もちろん今でも待っている」
机の上はさっき孝一郎さんに副社長室へ呼ばれたときのまま。自分の机に戻ってイスに座って。昼休みのせいか電話も鳴らない。金田さんや三上さんが出張のときは大抵、昼休みの前に午前中の定時連絡が入るけれどわたしが席をはずしていたからだろうか。取引先からの電話は反対に昼休み中っていうのが意外とある。営業をつかまえるには昼休みを狙えっていう法則でもあるのだろうか。でも、いまのところは静かだ。
今日の昼は営業所にいるつもりだったから持ってきたおにぎりを出した。このところ朝がとっちらかっていたけれど、今日はなんとかおにぎりを作ることができた。といっても自分のぶんだけだ。芯になにも入っていない、海苔を巻いただけのおにぎり。こんなの孝一郎さんには持たせられない。
おにぎりをぱくついた。さっきの賀川さんの言ったことってなんだったのだろう。孝一郎さんが総務部長になるってことは多分本当だろう。それは突拍子もない話ではなくて充分にあり得ることだと思う。だけど賀川さんは孝一郎さんが総務部長になったとしても不満そうだった。いったい賀川さんはなにを言いたかったのだろう。孝一郎さんにアメリカに来て欲しいっていうのは孝一郎さんが三光アメリカへ行くってことだろうか。そんなことってあるのだろうか。
……だけど。
なんか腹が立ってきた。孝一郎さん、どうして総務部長になるっていうことを話してくれないの。まだ決まったことじゃないとか言われそうだけど、だけどどうしてそれを賀川さんから聞かされなきゃならないの。それに孝一郎、孝一郎ってアメリカ式かも知れないけれど、孝一郎さんのことそう呼んで、なんだかすごく腹が立つんですけど!
営業所にひとりなのをいい事にぶちぶち文句を並べておにぎりを食べていたけれど、そのうちに電話が鳴って、取引先からの電話だったから昼食も考え事も中断されて、その後で金田さんたちからも連絡が入ったりして午前中よりも忙しくなってしまった。とりあえず後で賀川さんのことや三光アメリカのことを浅川さんに聞いてみるつもりで、わたしは午後の仕事を続けていた。
午後四時頃になってやっと手がすいたので同じフロアの給湯室へ行くと、そこには稲葉さんがいて洗いものをしていた。稲葉さんが洗いものをしているなんて珍しい。
「お手伝いします」
わたしが洗いかけの茶器を代わって洗いだすと稲葉さんはすみませんと言って手を拭いた。
「浅川さんは別のお仕事ですか」
こういうことはいつもは同じ副社長秘書の浅川さんが引き受けてやっている。浅川さんは稲葉さんの奥さんだからということもあるだろうけど、別に稲葉さんがお茶の支度や洗いものは女性の仕事だときめつけているわけではなさそうだ。浅川さんがいないのなら、何かの仕事で外出しているのかなと思って聞いてみたのだけど。
「いや、今日は午前中に早退しました」
「え、早退?」
今日は浅川さんを見ていなかったけれど、いつも通り仕事をしているのだと思い込んでいた。そういえばわたしが副社長室へ呼ばれたときも浅川さんはいなかった。
「浅川さん、具合でも悪いのですか」
稲葉さんが浅川さんが早退したのは午前中って言ったのがちょっと引っかかった。
「いいえ、そういうわけではありませんが……」
そう言って稲葉さんは視線を逸らした。どういうわけか稲葉さんにはあり得ないような歯切れの悪さだった。
「あ、いいんです。別に用ってわけではないので。それよりも稲葉さん、先ほどはありがとうございました。わたしが賀川さんと話していたとき入ってきてくださって」
本当はちょっと困っていたんです。察して来てくださったのでしょう? そう言ったら稲葉さんの強面(こわもて)が少しだけ緩んだ。
「いいえ、こちらこそ話を中断させてしまって申し訳ない。あの人は有能な人なんだが、アメリカ育ちで完全にアメリカのやり方が身に付いている人なのです。もちろんそれはすばらしい素質ですが、日本人は仕事でも習慣でも、そういうことに慣れていないから驚くでしょう」
「稲葉さんは賀川さんを良くご存じなんですね」
「はい、私も常盤課長が三光製薬に入られたばかりのとき、同行して二年ほど一緒に三光アメリカにいましたから。常盤課長は三光アメリカでは社長付きといった役職でしたが、賀川さんはその時の常盤課長の指導役をした人ですよ」
はい? 稲葉さん、今なんて。
孝一郎さんと一緒に三光アメリカにいたって……。
わたしはひどく驚いた顔をしていたのだろう。稲葉さんが心配そうに慌てて言った。
「瑞穂さん、もしかして常盤課長から聞いてないのですか。常盤課長が以前、三光アメリカにいたことを」
……聞いてません。
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