副社長とわたし 奥様、お手をどうぞ 4

奥様、お手をどうぞ

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 今朝はセーフ。ちゃんと時間に起きられたし朝ごはんも作ることができてしっかり食べた。ゆうべの蒸し野菜の残りをさっとソテーしてスクランブルエッグを添えて、ごはんとみそ汁だけど、一日の始まりの朝食って大事だと思う。ちょっと主婦らしくなってきた気分だ。でも後片付けや出掛ける仕度など、やっぱり朝は忙しい。
「瑞穂、今日は一緒に出るよ」
 もうスーツを着た孝一郎さんがわたしを待っていた。
「孝一郎、早いんじゃないの?」
「少し片付けておきたい仕事があるから早めに行くよ」
 孝一郎さんはわたしが玄関ドアを出ると鍵を閉めてくれた。ふたりでエレベーターへ乗って、一階へ降りたところでマンションの住人の人がいたので、おはようございますと挨拶してすれ違った。電車へ乗って、ふたりで一緒に通勤するのは初めてじゃないけれど、このところわたしのほうがいつも早く出ていたので久しぶりみたいな気分だ。孝一郎さんは混んだ朝の電車の中でも目立っているような気がするのは妻のひいき目だろうか。ううん、この人は絶対目立っている。当然か。 朝の電車の中は通勤の人が圧倒的に多くて、誰もが周囲の人とは関係なさげな無関心な風情で詰め込まれて揺られているって感じだけれど、孝一郎さんは何人かの女性にちらちらと見られたりしている。本人はまったくそんなことは気にしていない様子で吊り革を握りわたしと並んで立っている。わたしとは手を握っているわけでもないし隣りに立っているだけだけど、なにかあったらすぐに支えてくれそうな、そんな距離だ。 ときどきわたしを見る孝一郎さんから夫婦なんだから当然っていうオーラが出ているようで、電車の中っていうこともあるけれど、こうしてそばにいるのがくすぐったいというか。
「瑞穂、かわいい」
 ゆうべ、繰り返しそう言われた。孝一郎さんは笑いながらキスを繰り返して、わたしの髪を撫でてくれた。わたしを蕩かすような笑顔と声だった。まあ、わたしは美しいって言われるようなタイプじゃないからかわいいって言われるほうがうれしかったりするけれど、ベッドで孝一郎さんがささやけばたとえタコとかイカとか言っても甘く聞こえるのだろう。
「かわいい瑞穂。愛している」
 ああ、思い出しても赤面しそう。それがこの隣りに立っている孝一郎さんからささやかれたんだと思うだけで、意識したくなくても意識してしまう。
 昨日、副社長の真鍋さんの部屋でハグしていた女性は誰って聞きたかったけれど、でも聞かなくてよかった。あの女性が仕事に関係ある人なのは明白で、ハグだって副社長の真鍋さんの前でしている。孝一郎さんが副社長だったときから知っている人なのだろう。わたしが尋ねるようなこと
じゃない。だって孝一郎さんはこんなにも……。
 そこまで考えたところで降りる駅に着いて電車のドアが開いた。駅から数分で三光製薬のビルの前だ。
「おはようございます」
 孝一郎さんはビルの正面入り口に立つふたりのガードマンさんにも挨拶して広いホールへ入った。総務課長としてということもあるけど、こうしてガードマンや守衛といった役割の人たちにも挨拶をするのが孝一郎さんだ。
 明るく広いホールにはまだ社員の姿はちらほらといったところで何人かがエレベーターのドアの前にいた。
「じゃあ、孝一郎さん、わたしは上へ行きますね」
 わたしは最上階で孝一郎さんは五階の総務部フロア。言わなくてもわかっていることだけどそう言ったら、先に地階にある駐車場に用があるから寄っていくと言っていた孝一郎さんが立ち止った。
「あ、そうだ。明日かあさってにたぶん会食の予定が入ると思う。決まったら連絡するから」
 そうですか……って答えたら孝一郎さんがわたしの腕へ手を掛けた。
「な、なに」
「なにって、今日はまだ行ってきますのキスをしてないから」
 えーっ、ここで。でもここ会社ですよ。
 孝一郎さんはふふんとちょっといたずらっ子のように笑うとわたしの腕を引いた。彼の顔が近づいて、キスはされなかったけれど、なんか、その、いかにも。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
 くるっと体を翻して孝一郎さんが行ってしまうのと同時にうしろから人の声が聞こえた。いつのまにか後ろには顔を知っている総務課の女性がふたり。そしてその後ろには営業らしい男性社員がひとりいて、少し驚いたようにわたしを見ていた。
「お、おはようございます」
「おはようございます。常盤課長、朝から見せてくれますねえ」
「堂々とやってのけちゃって、もう、奥さんへの愛がだだ漏れ」
 だだ漏れ。だだ漏れですか。
 女性たちはそう言って笑って、後ろの男性社員も特に気にした様子は見せずに同じエレベーターへ乗ったけど、こっちが恥ずかしいったらありゃしない。これって夫婦なら当然なんでしょうか。この頃の孝一郎さんはなんだか、だんだんオープンになってきている気がする。結婚したからもう隠す必要はないし、孝一郎さんならこういうことも自然にスマートにできるのかもしれないけれど、わたしにはちょっと無理かも……。

 営業所に入ってほうっとため息が出てしまった。今日は金田さんたち三人は出張で直行直帰だ。ひとりで留守番をするのは営業所を留守にできない不便さがあるけれど、自分のペースで仕事ができる利点もある。ひと通り朝の仕事をしてからインスタントコーヒーを淹れた。ひとりでコーヒーを飲んで、仕事をしてやっといつものペース。今日は電話もかかってこない。こういう落ち着いた日の、特に午前中に仕事に集中できると、とてもはかどる。 月末までの集計や金田さんの退職に備えてやっておかなければならないデータの整理が済んで、これなら今日も残業なしで帰れそうだなと考えていたら電話が鳴った。
「トーセイ飼料関東営業所でございます」
『瑞穂、仕事中に済まないが』
 孝一郎さんだった。

『今、忙しくないようなら瑞穂を紹介したい人がいるので真鍋さんの副社長室へ来てもらってもいいだろうか。すぐに済むから手間は取らせないから』
 わたしが孝一郎さんと結婚している以上、同じビルにいる三光製薬の人たちとの付き合いも必要だと金田さんも承知してくれているが、孝一郎さんはわたしが今日はひとりで仕事をしていることを知っているから手間は取らせないと言ったのだろう。
「はい。すぐにうかがいます」
『迎えにいくよ』
 副社長室は目の前なのに迎えなんて。でも、ふっと孝一郎さんの口調が緩んだのがわかって、わたしは待っていると答えて電話を切った。孝一郎さんがすぐに来ることは予想できたので机の上をさっと片付けると営業所のドアの前へ出た。今日は副社長室はブラインドが閉じられていて中が見えなかったが、中は明るくて人がいるようだった。待っているとすぐに孝一郎さんが来た。
「悪いね、瑞穂。忙しいのに」
「いいえ、大丈夫です」
「三光アメリカから総務部門の責任者が来ているんだ。瑞穂を紹介したい」
 三光製薬の傘下にはアメリカにおいて医薬品の販売や製造、研究開発などをする会社がいくつかあって、それらを統括する会社が三光アメリカだ。ということは知識として一応知っていたけれど、そこの人に会うのはもちろん初めてだ。でも、わたしは英語がまるで駄目だ。どうしよう、アメリカの会社の人と聞いて心の中が一気にあせった。孝一郎さん、もっと早く会う人の予備知識をください!
「あの、アメリカのかたですか。わたし、英語は苦手で」
「それは大丈夫。さあ、どうぞ」
 孝一郎さんがわたしを見ながら副社長室のドアを開けてくれた。英語でなんて言って挨拶したらいいのか考える間もなく、副社長室の中で真鍋さんが応接用のソファーから立ち上がった。真鍋さんと向かい合って座っていた女性、それはあの孝一郎さんとハグしていた女性だった。 

 副社長室の応接用のソファーから濃紺の夏のスーツを着た女性がゆっくりと立ち上がった。立ち上がったときにきらっと光った瞳ははっきりとしたアイメイクで引き立てられていて、その瞳でわたしを見ている。
「賀川さん、妻の瑞穂です。瑞穂、こちらは三光アメリカの賀川美佐さんです」
 孝一郎さんがあいだへ入るようにわたしを紹介した。
「初めまして。奥様にお目にかかれてうれしいわ。六月にご結婚されたばかりだとか。おめでとうございます」
 賀川さんは日本語で言って手を差し出した。こういう場合、どちらから手を差し出すべきなのか良くわからなかったけれど、賀川さんが手を差し出してくれたのでわたしもすぐに握手をしながら挨拶した。
「ありがとうございます。お会いできてうれしいです」
 でもその後なんと言っていいのか。主人がお世話になっています、だろうか。でも孝一郎さんと賀川さんの仕事上の関係がわからない。わたしが会話を続けられなかったので一瞬間が空いたが、賀川さんはそつなく会話を始めた。
「孝一郎が結婚したって聞いてすごく驚いたの。そんな気はないってずっと言っていたから彼のことは独身主義だと思っていました。でもそうじゃなかったのね」
「結婚したいと思うすばらしい相手に巡り合えましたからね」
 にっこりと笑って孝一郎さんがそのきれいな笑顔をわたしにも向けた。気負いのない会話は孝一郎さんらしく、相手が賀川さんだからだろうけど、アメリカっぽい。わたしを妻として堂々と紹介して褒めていて、うわあっと叫んでしまいたいような気分だけど、それをやったらあまりにみっともない。
「瑞穂さんの働く会社は向かいの部屋に入っているのですよ」
 と、副社長の真鍋さん。
「あら、そうなんですか。では孝一郎が副社長だったときは向こうの部屋と差し向いで仕事をしていたってことね。それは楽しいわ」
「ええ、楽しかったですよ」
 孝一郎さんが笑顔のままでそう答えた。あ、でも……。
「お幸せそうね。これからもよろしく、瑞穂さん」
「よろしくお願いします」
 笑顔でわたしを見た賀川さんの表情は大輪の花のようだった。三十代後半だろうか、若さだけではないキャリアに裏打ちされたような美しい顔だった。でも、わたしを見る賀川さんの視線がはっきりしすぎてちょっぴり痛い。
 最後はわたしも笑顔で返すことができたけれど、これでよかったのだろうか。欧米式の挨拶なんてよくわからない。

「ありがとう、瑞穂。じゃあ、また後でね」
 孝一郎さんがトーセイ飼料のドアの前でそう言って、見送るわたしにエレベーターのあるホールに出る手前で彼が振り向いた。少しほほ笑んだ孝一郎さんがわたしを見て、そして彼の後ろ姿が見えなくなるとわたしは営業所のドアを開けようとしたが、その時に副社長室の中から視線を感じて顔を上げると賀川さんと目が合った。わたしと目が合うと賀川さんはにこやかな笑みを浮かべながら副社長室から出てきた。


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