副社長とわたし 奥様、お手をどうぞ 2
奥様、お手をどうぞ
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「昔からの養殖業者も埼玉や茨城のほうへ移っていますからね。うちの取引先もそうですよ。水質や環境の問題もありますしね」
岡本さんが何枚かの資料を広げていて、きれいなランチュウの写真もあった。そう、金魚のランチュウだ。岡本さんはかつてランチュウのエサを改良したことで社内では有名な人で、今でも養殖業者や金魚のエサの問屋さんのあいだではかなり名を知られているらしい。これもわたしは金田さんに教えてもらったことだけど、あの独特なランチュウの形と美しさを保存したり鑑賞したりする趣味の愛好会や保存会が日本各地にあって、
品評会も行われているそうだ。養殖業者も東京では江戸川の下流が有名だったらしいのだけど、時代の流れで今はその養殖業者も東京近県へ移っているところが多いそうだ。
「埼玉と茨城は次回に行くとして、都内は今日行きますか」
「都内にも残っているところはありますからね。回れる業者は……」
金田所長と岡本代理、三上さんが引き継ぎの挨拶回りの打ち合わせをして午後は出かけることになったので、金田さんに見てもらわなければならない書類を優先して午前中に終わらせるためにかなり忙しかった。三上さんも月末の営業の集計や書類作成をしていた。三人が出かけてしまえば営業所にはわたしひとりで、週末が月末だ。来週は八月になってしまう。
「じゃ、これを月末に本社へ送っておいて」
昼前に金田さんのデスクの前で出来上がった書類を渡されていたときだった。
「代理、あそこにいるのが三光製薬の総務課長の常盤さんですよ」
コーヒーを取りに行った三上さんがブラインドの開けられたガラスの向こうの廊下を手で示していた。
えっ、と思って振り返ると向かいの副社長室から孝一郎さんが出てきたところだった。廊下に出た孝一郎さんは三上さんとわたしが見ていたのに気が付いて、軽く会釈をした。
「あの人が瑞穂ちゃんの旦那さんですよ」
三上さんがいきなりそんなことを言うから部屋の奥のデスクから廊下を見ていた岡本代理の顔が少し驚いたような顔になった。
「常盤さんは結婚しているって聞いたけど、そうですか、あの人ですか」
岡本さんがさりげなくガラスの向こうを見ていた。孝一郎さんはときどきこの最上階にも来ていたけれど、それは社長室に来るよりも副社長室に来ることのほうが多かった。以前は副社長だった孝一郎さんは現在の副社長である真鍋さんに引き継いでいる仕事がある関係らしかったが、もちろん総務の用事で来ることもあった。だから孝一郎さんがいるのは別に珍しいことではなかったけれど。
目礼を送ってきた孝一郎さんは副社長室や社長室の前のホールになっているところへ出て行った。ホールの向こうにはエレベーターがあり、エレベーターのドアに向かって立っている孝一郎さんは来客を迎えに出たという感じだった。やっぱりというか、すぐにエレベーターが着いたらしく、副社長室の前に孝一郎さんがひとりの女性を案内するように並んで歩いてきた。ふたりの後ろには副社長秘書の稲葉さんが付いている。
女性はモカブラウン色のブラウスとスカートのセットに黒のジャケットを着こなし、カールさせた黒髪と黒い瞳なのに日本人らしくない印象で、はっきりとしたメイクの顔をまっすぐにあげていた。
手にはブリーフケースを持った女性はまさに仕事ができるキャリアウーマンという感じだった。
「……なんだか、ここは世界が違うって感じですね」
そう言ったのは岡本代理で、わたしもちょっとそう思ってしまいそうになった。
「代理もそう思いますよね。いやー、代理にも見せたかったなあ。瑞穂ちゃんの結婚式。披露宴であの常盤課長が瑞穂ちゃんを抱き上げて」
「三上さん!」
わたしは慌てて三上さんのおしゃべりを止めた。今、そんなこと言わなくていいです。仕事中なんですから。岡本さんがいるのに三上さんはまったくいつもの調子だ。
「いいじゃないの。新婚らぶらぶなんだから。あのキスは見ものだったなー。常盤課長に頼んだらいつでも再現してくれそうだよね」
三上さん、お願いですから。面白がってそんなこと言わないでください。わたしだって今の孝一郎さんを見て、世界が違う人だって思ってしまいそうになっていたんですから。
「三上君、それくらいにしてあげたら。常盤課長に知れたら後が怖いよ。なんといっても三光製薬の社長の後継ぎなんだからね」
金田さんがそう言うと岡本さんの目がじっとわたしを見た。やはり驚かせてしまったのだろうか。
「三光製薬の社長の息子? はあ、そうですか」
「同じ社内というわけではありませんが、そういうわけですのでよろしくお願いします」
金田さんがまるでわたしの親代わりでもあるかのようにそう言ったのでわたしは岡本さんにあわてて頭を下げた。
「ご迷惑おかけすることがないように気をつけますので、よろしくお願いします」
金田さんはわたしの夫である孝一郎さんが三光製薬の総務課長であるのと同時に社長の息子で後継ぎなのだということをきちんと岡本さんへ伝えてくれた。これは、もうすぐこの営業所の所長になる岡本さんが所長として知っておくべきことだと金田さんは判断したのだろう。確かに三光製薬のビルの中に営業所がある以上、孝一郎さんのことは知っていてもらうのが筋だ。
自分からは ちょっと言い出しにくいことだったので金田さんの心づかいがありがたかった。
「常盤課長には近いうちに改めて紹介しますよ」
「まあ、うちの仕事とは直接関係はないらしいですからね」
岡本さんもそう言ってくれた。よかった。わたしからも孝一郎さんに言っておこう。
そう思いながら向かいの副社長室を見ると中では真鍋副社長がさっきの女性を迎えて笑顔で話しをしていた。ふたりが手振りを交えてにこやかに話す様子はまるでアメリカのビジネスシーンのようだった。それがこの三光製薬の最先端のオフィスで交わされている。女性が孝一郎さんとも話していたが、孝一郎さんよりは年上に見える女性はとても親しげだった。
日本ではあまりこういう光景は見ない。アメリカナイズされているっていうか。でも、わざとらしくない。やはり岡本さんが言ったように世界が違うってわたしも感じる。
別に、だからって自分たちは自分たちなのであって、田舎者丸出しでじろじろ見たりしないように気をつけなきゃ。
そこまで考えたところでわたしは持っていたペンを落としそうになってしまった。孝一郎さんと話をしていた女性が急に彼と抱き合って……えっ、ハグ? ハグしてる? 孝一郎さんも自然にハグを返している。親しい友人のように。そしてあの女の人、ハグをした後でこっちを見たような気がする。ううん、気がするんじゃなくて、見ていた。はっきりとわたしのほうを見て、笑った。美しく、洗練された笑顔で、目はわたしを確かに見ていた。
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