副社長とわたし 奥様、お手をどうぞ 1
奥様、お手をどうぞ
目次
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ああ、もう時間がない。着替えして、お化粧して。うわー、焦るとストッキングが上手くはけない。 ええと、バッグ持って、ゴミ持って――。
結婚してひと月。
結婚する前から一緒に住んでいたとはいえ、やはりわたしはまだ新しい生活には慣れていないのかもしれない。今日だってぎりぎりの時間に目が覚めた。
「孝一郎さん、わたし先に行きますね」
ばたばたと支度をしてゴミ袋をひっつかみ、マンションの玄関ドアへ向かおうとしたら。
「瑞穂」
わたしの腕がくいと引き戻されると持っていたゴミ袋が手からはずされた。
「俺が出しておくよ」
「えっ、でも」
「いいから」
さすが孝一郎さん。ゴミ出しには似つかわしくないきれいな顔でそう言ってくれるなんて。じゃあ、すみませんがお願いします、って言ったのに孝一郎さんの唇がすぐ目の前にあるのはなぜ。
「なにか忘れてない?」
はい? 忘れ物?
「行ってきますのキス」
えっ、えええーっ!
時間がないんです。ぎりぎりなんです。そう言う間もなく、孝一郎さんの唇がわたしの唇につけられた。あたたかくて柔らかな、でも張りのある孝一郎さんの唇はしっかりと舌を絡めさせるディープなキスをわたしに仕掛けて、でも、時間が! 時間がないのに!
「んんんんんー」
思わず声が出てしまう。こんな濃厚すぎるキスを朝っぱらからするなんて。わたしの頭の中は叫びまくりなのに孝一郎さんはしっかりとわたしの体と唇を捕まえて離してくれない。
「こっ、孝一郎さんっ!」
「行っておいで。気をつけて」
切羽詰まって声を上げたわたしに孝一郎さんが余裕でほほ笑んだ。そのまま部屋を飛び出してもう下へ降りるエレベーターの中でも走りたい気分だった。ぎりぎりで電車へ滑り込み、朝の電車は空いているわけがなかったけれど、降りる駅に着くまでになんとか息と気持ちを落ち着かせた。電車の窓ガラスに映る自分の姿に思わず点検してしまって、電車の窓ガラスじゃ良く見えないけど、まさかキスマークなんて残ってないかと。
そりゃ、孝一郎さんはいいわよね。わたしも孝一郎さんも行き先は同じビルだけど、孝一郎さんは三光製薬本社総務部総務課でわたしはトーセイ飼料関東営業所。孝一郎さんの出勤も会社の中では早いほうだけど、わたしにだって始業前にいろいろやることがあるわけで。だからわたしのほうが早く家を出るのにあんなキスをするなんて。
朝だというのに、お肌がするするで整った孝一郎さんの顔。ひげを剃っただけなのにどうしてそんなきれいな顔なんだろう。そんな顔をくっつけられてキスされたら、もうわたしは。孝一郎さんは確信犯だ。絶対そうに決まっている。だってこのところ毎晩のように……あわわ、電車の中でなに考えてるのよ、わたしったら。朝の電車の中でぼーっと考え事なんかしてちゃ、危ないんだから。
「あらー、瑞穂さん、どうしたの」
副社長秘書の浅川さんが給湯室へ入ってきたとき、わたしは営業所の朝の準備を終えてもはやぐったりしていた。もうすぐ所長たちも出社してくるはず。
浅川さんは今日も完璧で美しいお化粧と秘書らしく落ち着いたシックなデザインの紺色のスーツ。わたしはと言えばちゃちゃっと済ませてしまったお化粧が汗で崩れかけていたのがまだ直せてないし、髪もややいまいち。
「浅川さん、いつもどうしてそんなにきれいなんですか」
いつも思うのだけど、浅川さんがわたしと同い年にはとても思えない。それに浅川さんだって結婚しているのに。
「容姿を保つのは秘書の仕事上の技術みたいなものよ」
そう言って浅川さんがたおやかに笑う。その笑顔がいつもに増して美しくて。うーん、もしかして 人妻の色香ってやつですか。時間ぎりぎりで飛び出してくるわたしとはえらい違いだわ。
「もしかして、お疲れ? まあ、想像はつくけど。常盤課長でしょ。新婚ですものねえ。もしかして寝かせてもらえないとか? いいわねえ」
うふふーと笑いながら美しい顔で爆弾発言をかましてくる浅川さん。
「あら、赤くなった。瑞穂さん、かわいいー」
「浅川さん!」
浅川さんは笑いながら行ってしまったけれど、浅川さんのところだってまだまだ新婚みたいなものなのに。確かまだ結婚して一年ちょっとくらいのはず。
「おはよう、瑞穂ちゃん」
「あ、おはようございます」
金田さんの声に振り返ると営業所へ入ってきたのは営業所長の金田さんと営業の三上さん。それから。
「おはようございます。お久しぶりです、岡本代理」
金田さんと並んで立っている岡本代理に挨拶した。岡本さんは恰幅が良く、わりと背が高かったけれど髪が薄くて短く、金田さんや三上さんと同じように陽に焼けた顔をしていたが、五十歳にしてはちょっと老けたかんじだった。大阪本社で営業部長代理をしている岡本さんは八月に退職する 金田さんの後に営業所長になる人で、今日は打ち合わせと引き継ぎに来ていた。
岡本さんはずっと大阪本社にいた人だったけれど商品開発に詳しく、何度か以前の関東営業所に来たことがあったからわたしも会ったことがある。商品開発っていうと専門の部門のように聞こえるけど、営業が顧客からの要望があれば工場の人と一緒に各種エサの配合や成分を改良したりと、なんでもやらされるのがうちの会社なのだ。
「代理のデスクを用意してありますので、どうぞ」
「ありがとう、瑞穂ちゃん」
そう言ったのは岡本代理ではなく、金田さんだった。岡本代理はちょっと感心したようにガラス張りのオフィスの室内を見回していた。
「近代的なオフィスですね。三光製薬のビルだけのことはある」
このオフィスに初めて来る人は皆、同じ感想を持つらしい。以前の関東営業所はデスクや備品も古かったが、ここはぴかぴかのオフィスに新しいデスクやキャビネットが並べられている。去年の 引っ越し以来、環境はぴかぴかになってもここにいる人間は変わらなかったけれど、もうすぐ金田さんは退職してしまう。
打ち合わせを始めた三人にお茶を出し、わたしはいつもの仕事に取りかかった。とにかく日々の仕事を確実にこなしていくことが一番大切。去年の秋に営業所がここへ引っ越してきてまだ一年も経っていないけれど、新しい所長が来る。わたしが結婚しても、金田さんが退職しても、仕事は止まって待っていてくれない。
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