副社長とわたし わたしの総務課長様 14
わたしの総務課長様
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次の週にまた出張してきた谷崎さんと同じように仕事をした。その週の仕事を終えると事務関係の仕事はこれで終わりだからと谷崎さんが言った。
「瑞穂ちゃん、がんばってくれてありがとう。あとは営業のほうの仕事があるけれど、それは金田所長が新しい所長への引き継ぎを兼ねて行うことになっているから、俺がこっちへ来るのは今日まで」
「はい」
「谷崎課長はすぐに九州へ行かれるのですか」
「うん、来週から」
「お体に気をつけてがんばってください」
わたしは心を込めてそう言った。うちの会社は小さな会社だけれど、それでも関東営業所とは違って九州営業所は本社に引けを取らないほどの規模だと聞いている。三十八歳でそこの所長なのだから栄転なのだと金田さんも言っていた。
谷崎さんはありがとうと言って笑った。普段は三上さんと同じように気さくで冗談の多い人だけれど、この時は礼儀正しくありがとうと言った。
なにも変わらずにいるものなんてない。
人の心も。
でもそれはきっと良いほうに変わると信じたい。
今は……。
「孝一郎さん、お父さんが今度の土曜日に家に来てくださいって」
「親父が?」
マンションへ帰ったわたしがそう言うと孝一郎さんがじっとわたしを見ている。
「瑞穂にそう言ったの?」
「うん。そうだけど」
「……まったく」
え? なんで?
孝一郎さん、不機嫌そうな顔しちゃって。
「親父はまだ瑞穂のところへ行ってるんだ」
まだ、って。
「来られてますよ。いいじゃないですか。来て下さるんですから」
あー、やっぱり面白くなさそうな顔しちゃって。どうも孝一郎さんはお父さんのことになると微妙らしい。
「お父さん、瑞穂を伝言係に使わないでください」
土曜日に孝一郎さんのご両親の家へふたりで行くと開口一番、孝一郎さんが言ったのはこれだった。
「なにを偉そうに言ってるんだ。器の小さい奴だな。なあ、瑞穂さん」
えっと、あの、同意を求められても。
「瑞穂、帰ろう」
孝一郎さんがわたしの手を握って立ちあがった。
「えっ? あの、ちょっと」
「こんな親父は放っておけばいいんだ」
孝一郎さんってばー。
そこへお盆に紅茶を載せて入ってきたお母さんの鋭い声が飛んだ。
「待ちなさい、孝一郎。お父さんもなんですか」
「私か? 私は何も間違ったことは言ってないぞ」
お父さんは一見、余裕ふうだったけれど。
「孝一郎をわざと怒らせて!」
お母さんのきっぱりとした声にお父さんの肩がちょっとだけびくっとしたのをわたしは見てし まった。
「孝一郎もです」
「え、俺もですか?」
立ったままの孝一郎さんが聞き直した。わたしの手を引っ張ったまま。
「瑞穂さんを親子で困らせるなと言っているんです。そんなこともわからないんですか、あなたたちは!」
美しい顔で一喝。
孝一郎さんはわたしの手を握ったまま、さっきまで座っていたソファーへすとんと腰を降ろした。お母さんが何事もなかったかのように香り高い紅茶の入ったティーカップをわたしの前に、そしてお父さん、孝一郎さんの前に置く。ケーキも。
「さ、お茶にしましょう」
にっこりとほほ笑むお母さん。
あああー、この家で一番強いのはお母さんだった。やっぱり……。
ややあって仏頂面で紅茶を飲んでいたお父さんが口を開いた。
「孝一郎」
「……はい」
お父さんに返事をする孝一郎さんの声がまだかなり微妙に不機嫌だよ。
「六月と言っていたな。日にちはそれでいい。こっちはそれに合わせるから話を進めろ」
「はい」
え? 六月って。
「じゃあそれで決まりね。それなら、瑞穂さん」
「お母さん、ちょっと待って下さい。俺が言いますから」
となりに座っていた孝一郎さんがわたしに向き直った。
「結婚式のこと、待たせてしまって済まなかった。仕事も落ち着いてきたし、瑞穂のご両親も 六月で良いと言ってくれた。式を挙げよう」
しき……。
結婚式……、六月……。
ぽかんと口があいてしまった。孝一郎さんだけでなく、お父さんやお母さんのいる前なのに。
「でも、六月は……式場だってジューンブライドだから今から予約なんて」
孝一郎さんがにこっと笑った。わたしを見ながら。
「瑞穂は俺の父を誰だと思っているの。三光製薬の社長だよ。こういうときは親のコネは喜んで使わせてもらうよ」
孝一郎さん……。
「おまえがそんなことを言うのは初めてだな」
お父さん……。
「お父さん、ひと言余分ですよ。ね、瑞穂さん」
お母さん……。
お父さんとお母さんがにこにことしている。そんな光景を見たのは初めて。
そして孝一郎さんはしごく真面目な顔だった。
「瑞穂、明日は瑞穂の家へ行こう。ご両親にお詫びして、そして改めて挨拶したい。瑞穂をお嫁にくださいってね」
大好き。
そんな子どもみたいなことを言ったらこの人は笑うかな。
あ、もう、笑っているか……。
孝一郎さんが手を差し出す。
「瑞穂、帰ろう」
「……うん」
孝一郎さんがわたしの手を握る。手を握ったまま腕を組むように引き寄せられる。
帰ろう。家へ帰ろう。
一緒に帰ろう。
なんていい言葉なのだろう。
同じ家へ帰る。そうでなきゃ言えない言葉だから……。
「瑞穂」
マンションの部屋へ入ると孝一郎さんがわたしを立て抱きに抱き上げた。
彼の肩に腕を回してしがみついたわたしがすん、と鼻をすすりあげると孝一郎さんは顔を上げてお互いの鼻先をくっつけた。
「泣いているの?」
唇が触れてキスをされる。深くはないけれど、震えているわたしの唇を濡らしていくように。
ぽたりとわたしの涙が孝一郎さんの頬へ落ちた。
「泣いてる」
わたしの答えに彼はやっぱりほほ笑んだ。きれいで、そしてやさしいわたしだけの笑顔で。
泣いている。
泣いているよ。
あなたが好きだから。
大好きだから。
愛しているから。
だから泣いているんだよ……。
六月最後の日曜日。
ぎりぎりセーフでわたしはジューンブライドになれた。
孝一郎さんが選んだ式の衣装はダークな藍色がかった黒のスーツだった。
「白いスーツ? 結婚式で男の白いスーツは変だよ」
「えー、でも孝一郎さん、白もすごく似合っていたのに」
似合うどころじゃない。芸能人もモデルさんも真っ青てなくらいだったよ、試着の時に。
「でも白は花嫁の色だからね。ジューンブライドの瑞穂のためのものだからね」
そう言って笑っていた孝一郎さん。
今は手を差し出している。わたしと一緒にバージンロードを歩いてきた父と握手をするために。
祭壇の前、父と孝一郎さんが握手をするのをわたしは父の腕に手をかけて見ていた。しっかりとした握手を交わすふたり。そして父はそっとわたしの手を取って孝一郎さんの手へと導いた。
それは永遠の誓い。
ふたりが神様に約束した言葉。
病めるときも、健やかなるときも……
終わり
あとがき 目次 前頁
番外編は目次よりどうぞ。
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