副社長とわたし わたしの総務課長様 3
わたしの総務課長様
目次
3
「すごいビルだね。さすがは三光製薬本社だ。それに本当に最上階フロアなんだね。噂には聞いていたけれど」
その日の昼休み、谷崎さんと三上さんとわたしは三人で食事へ行った。久しぶりだからと谷崎さんが言って、申し訳ないけれど金田所長が留守番してくれた。
「でも、どうして最上階なの?」
「谷崎課長、それはですね、瑞穂ちゃんが」
「わー、三上さん、いいです。それ、言わないで下さい」
わたしはあわてて三上さんを止めた。三上さんのおしゃべりは要注意だわ。
「なに、瑞穂ちゃん、なにやらかしたの?」
谷崎さんが笑いながら聞いてくる。
「だからそれはですねー」
「三上さんっ!」
「言われたらヤバイこと、やっちゃったんだ、瑞穂ちゃん」
してません、してません。いや、しちゃったかな。
三上さんも谷崎さんも営業マンのノリでわたしをかまってくるから。
「瑞穂ちゃん、変わらないね。もう結婚したかと思っていたけれど」
谷崎さんがなんとなくわたしの左手を見ている。わたしは婚約指輪をはめていなかった。
「瑞穂ちゃんと仕事をしていた時はよかったなー。本社のお姉様がたは厳しいよ。俺、向こうへ行ったばかりのときは本気で営業所へ戻りたいって思ったよ」
「谷崎課長、営業だけあってうまいですねー。わたしのこと持ち上げて、またこき使うつもりでしょう」
「あ、わかった?」
三上さんも笑っている。うちの会社の営業ってみんなこんな感じばかりね。
「データの移管も行うけれど、手作業で入力してもらわなければならない事も多いんだ。新しい顧客管理システム導入の準備としてね。その点では瑞穂ちゃんに通常の業務とは別にやってもらうことになる。俺が大阪から来たときは残業してもらうこともあるかもしれない。毎週じゃないけれど、頼むね」
谷崎さんがこれからの仕事をわたしに説明してくれた。事務の仕事の移管も行われるので当然、それはわたしの仕事になる。
「はい、大丈夫です」
「そう。じゃあ、よろしくね」
仕事の打ち合わせをする谷崎さんはやはり営業所にいた頃と変わっていなかった。
谷崎さんとはたった一度デートをしただけ。
営業所にいたころの谷崎さんはどうしてまだ独身なんだろうって思うような人だった。仕事もできるし、人柄も明るくてちょっと体育会系。ある日さりげなく、ドライブなんてどう? と言われて、わたしと谷崎さんは十歳も歳が離れていたからそれまで意識するようなことはなくてちょっと驚いた。でも、
谷崎さんは話していて楽しい人だったから断らなかった。食事をして、話をして。その時はそれだけで別になにもなかった。デートをした数日後に大阪へ異動が決まったけれど谷崎さんはわたしにはひと言「残念だけど」と言っただけだった。異動後に連絡をもらったこともない。それっきりだった。
なにもなかった。
だから谷崎さんとはまた以前のように仕事をしていくだけ。
わたしはそう思っていた。
「常盤課長、お話ししたいことがあるのですが」
デスクの前にひとりの社員が立っている。総務の女性社員。袴田真奈美、二十四歳。ふんわりとした髪型。なんだろう。
「はい。なんでしょうか」
「あの、後ほどお時間をいただけたらと思いまして」
「そうですか。では袴田さんの仕事が終わった後でいいですか? 打ち合わせ室で」
「はい。お願いします」
軽く頭を下げてから自分のデスクへ戻る袴田。
こうして女性社員から話があると言われて話が手短に済む場合はあまりない。仕事のことや職場での人間関係のことが話しにくいのはわかるが、女性の場合、話があると言ったにもかかわらず、いざ話をしてみると言いたいことがなかなか出てこない。ずばずば言う人間は多くはないが、それにしても……。
とにかく話をしてみなければわからない。そう思って総務の打ち合わせ室の使用予定表に名前を書き入れた。
「袴田さん、どうぞ。座ってください」
「はい。失礼します」
やはり袴田真奈美はすぐに話そうとはしなかった。
ガラスの室内窓がある壁で仕切られている打ち合わせ室は総務から中が見えるようになっていたが、終業時間を過ぎた総務課に残っている社員はすでに少なかった。
「今日はどういうことを話したいのかな?」
少し口調を軽くして聞いてやる。話しやすくなるように。袴田はそれでもためらってからやっと話し出した。
「すみません、退職したいのですが」
退職。
「それは……理由を聞いてもいいですか?」
「あの、ちょっと個人的な理由で。すみません、三月末日までということでお願いしたいのですが」
「袴田さんは人事関連グループで、今は入社式と新入社員研修などの準備中ですね。月末までもうあまり日にちもないし、三月末でというのはちょっと急ですね。確か規定では退職は一ヵ月前までに言ってもらうことになっていると思いますが」
「すみません。でも、ちょっと事情がありまして、すみません」
「ご家族かなにかの都合?」
そう尋ねて少し待ってみたが、袴田は事情というのを話す気はないようだった。黙ってうつむいている。
「どんな事情かはわかりませんが、袴田さんはとても人当たりが柔らかいかただ。細かい仕事も根気良くやっている。そういう良いところを活かして仕事を続けて欲しいと思っていたのですが。もしも、辞めたい理由が仕事に関することであるなら」
「いいえ。仕事のこととか、そういうことではありません」
小さい声で袴田が言った。
「あの、すみません、本当に私的な理由なんです。すみません」
「……そうですか。では、残念ですが人事のほうへ手続きを頼んでおきます。あとで書類を出して下さい」
「はい。申し訳ありません」
袴田が出ていった後で持っていたグループ配置表を広げた。前の総務課長のときに始めたグループ化を手直しはしたが、総務の社員達の仕事もすでに落ち着いてきている。
袴田は俺が総務の課長になってから課内では初めての退職者だ。
はっきりと理由も言わずに辞めるのか。私的な理由だと言われてしまえばそれ以上は聞けないが……。
袴田のいるグループは今、入社式と新入社員研修の準備を行っている。入社式の運営準備。新入社員への社員章や身分証などの貸与物の手配。新人研修用に必要な備品の発注など。時期的に忙しい部署だから彼女に抜けられるのは痛いんだがな。袴田のいるグループの リーダーにも話をしなければならないな……。
そう考えながら仕事を再開する前にコーヒーでも飲んでおこうとカフェテリアの自販機コーナーへ向かった。
「常盤課長、お先に失礼します」
「お疲れ様」
「お先に失礼します」
「ご苦労様でした」
次々と社員たちが退社していく。総務だけではなく廊下を固まって歩く女性社員達が先を争うように挨拶をしながら通り過ぎていく。それにいちいち答える。
副社長時代よりも直接多くの社員に関わり、一緒に仕事をする。挨拶するだけの社員にしても以前とは比べるまでもなく多い。あのまま副社長でいたら知らないでいたことも多かっただろう。それにしてもやらなければならない事が多い。
仕事の担当ごとのグループ化は他の部署でも進めることになっている。この件の統括責任者は副社長の真鍋さんだが、真鍋さんは「これは孝一郎君が始めたことだから」と言って仕事を 振ってくる。こっちも忙しいのに真鍋さんはわざとそうしている節がある。親父の差し金か。
そして自販機でコーヒーを買い、取り出して振り向いた時だった。
瑞穂が広いカフェテリアの向こう側を歩いていた。ひとりの男を案内するように。
瑞穂は気がついていないようだった。俺がこちら側にいることに。声をかけようかと思ったが、ふたりが出口のほうへ向かったのでやめた。さりげなくテーブルを並べてある休憩スペースの観葉植物の陰へ移動する。
瑞穂はやはりその男を案内しているようだった。胸に身分証をつけている男。三十代らしい年齢の見たことのない顔。客か? だがそんな感じでもない。ふたりは自然な感じで話しているようだった。
瑞穂だって仕事をしているんだ。別にどうということもない。
だけど瑞穂は笑顔だったな……。
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