副社長とわたし わたしの総務課長様 1
わたしの総務課長様
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「ほうほう、黒鯛(クロダイ)をね」
「この地方特有の釣り餌っていうのがありましてね。エサを団子状にしたものなんですが、その団子が海水のなかでゆっくり溶けていくように作るんですよ。それを……」
さっきから釣り談議に花を咲かせているのは金田所長と、なんと三光製薬の常盤社長。つまり孝一郎さんのお父さん。
社長であるお父さん、このビルに移ってきてすぐに金田さんと意気投合してしまったのには驚いた。トーセイ飼料が魚のエサを扱っていることは知っていたんだろうけど、常盤社長、昼休みにひょいっと顔を出して、やあ、瑞穂さん、なんていうからトーセイ飼料のわたしたち三人はもうびっくり。
天下の三光製薬の社長がこんなところへ来てもいいの?! いえ、べつに自分の会社を恥じているわけじゃないけれど、これってわたしがいるから? 金田さんは常盤社長よりも年上だし、落ち着いて対応していたけれど、なんだかわたしは申し訳なくて。
そして孝一郎さんと同じ反応で、これが思わず笑っちゃいそうになったんだけど、お父さん、置いてあったビンに入ったエサに目をとめて、これがエサなのかって金田所長へ尋ねているの。さすがに孝一郎さんのようにビンのふたを開けて匂いを嗅ぐようなことはしなかったけれど。
それから魚の話になって常盤社長が海釣りが好きだってことがわかったんだ。話相手になるのはおもに金田さんだったから「釣りバカ日誌」みたいにはならなかったけれど、それから常盤社長は昼休みなどに時々、トーセイ飼料へ話をしにくるようになった。
「瑞穂さん、私にお茶をもらえるかな」
「はい」
きゃー、三光製薬の社長さんに飲ませるお茶なんて。お客様用の茶葉はあるけどこれでいいのかなあ。これしかないよねえ。
わたしが恐る恐る出したお茶は幸い気に入ってもらえたらしく、常盤社長は金田所長がいない時にもトーセイ飼料に来ることもあった。わたしの淹れたお茶を飲みたいと言ってくださって。それってわたしに気を使ってくださっているようで。
そして、今は新しい副社長のいる向かいの副社長室。
現在の副社長は真鍋さんというとても品の良い五十代のお人だ。新しい副社長はトーセイ飼料なんてものがこのまま副社長室の前の部屋でもいいのかと金田所長以下わたしたちが恐縮してしまいそうな、いかにもこの三光製薬の重役にふさわしい知的で穏やかな印象の人だった。
本当のところ、孝一郎さんが総務課長になった時点でトーセイ飼料も入るはずだったフロアへ移転したほうがいいのでは、という話があったんだ。それをこのままでかまわない、と止めたのはなにあろう孝一郎さんのお父さんの常盤社長。それは鶴のひと声以上の威力で天の声ってな感じでした。まさに。
孝一郎さんが総務課長になったのは二月から。
孝一郎さんは本当に忙しかった。毎日のように帰りが遅かった。慣れない仕事、今までの副社長としてのキャリアなど役には立たないだろうと孝一郎さん自身も言っていたけれど、とにかく二月と三月のあいだに仕事に慣れないと四月には新年度が始まってしまう。三月の年度末、そして四月の新年度になれば新入社員も
入ってきたりして総務の仕事は忙しいはずだ。ときどき、わたしが総務へ行っても用もないのに孝一郎さんと言葉を交わしたりできないから、仕事をしている彼の姿をかいま見るだけだった。
総務部長ですらない、総務課長。
孝一郎さんは自分からその仕事へ飛び込んでいった。
こっそりと物陰から見る孝一郎さんの姿。
トーセイ飼料は前と変わらず最上階で総務とは違うフロアだったけれど、今はそのほうが良 かったとも思えた。
孝一郎さんのマンションで部屋の中を片付けていた時だった。
「あれ?」
キッチンのペールが一杯になっていてゴミ袋を取り替えようとしたら、ゴミ袋の中にコンビニのお弁当のカラ容器。孝一郎さん、会社から帰ってきてからこういうものを食べている?
部屋の中は散らかってはいなくて、洗濯物もたまっているというほどではなかったけれど、でも。
孝一郎さん、家に帰ったほうが楽なんじゃないのかな。
孝一郎さんの家は大きな家で、孝一郎さんはひとりっ子。お手伝いさんもいるそうだから家にいたほうが食事や身の回りのことは不自由ないだろうに。
「僕が自分の意志でこのマンションを買ったんだから。それに僕はもう副社長じゃないからね」
そう言った孝一郎さんは副社長を辞めるのと同時に自分の車での通勤もやめてしまった。電車での通勤のほうが時間がかかるのに、彼は徹底している。
わたしが孝一郎さんの総務課長としての姿を初めて見たのは二月の安全管理者の会合の時だった。この三光製薬のビルに入っている子会社などの安全管理者が一堂に集まっての会合。どの会社の安全管理者も総務課長クラスらしい人たちばかりで事務の女性社員がでているのはうちの会社くらい。
うう、弱小会社の悲しいところ。そこに三光製薬の関係者として孝一郎さんがいた。総務課長としての彼を見るのは初めてだった。濃紺のスーツに真っ白なワイシャツ、無難なストライプのネクタイ。そして髪も以前よりも短めにしている孝一郎さんは副社長だったころよりもビジネススーツな姿。
総務課長としての服装。でも、どんな服を着ていようと端正なその姿、その顔はやっぱり常盤孝一郎だ。
会合で地震などの自然災害時にビルでの対応や、新型インフルエンザのようなことが起きた場合の対策を話す孝一郎さんはただの総務課長ではない。聞いている誰もが彼が総務課長であってもこの三光製薬の御曹司だということを知っているはず。彼がこの会合の座長を務めているということは
総務課長としてと同時に三光製薬の代表者としての面も意識させる。製薬会社として特に想定される新たなインフルエンザなどが発生した際の対応の重大性を話す彼は副社長ではなくとも三光製薬を代表して話しているのだと思わせるものがある。そういうところは彼は上手にその立場を活かしていると思う。
孝一郎さんはわたしがここへ来ていることを知っているのかもしれないが、もちろんそんなことは態度に表さない。
こんな孝一郎さんを見たら。
総務課長として働く姿をいつも見ていたら、わたしはどうしようもなかっただろう。その腕に抱いてもらいたくて、なんて考えていたかも。しっかりしなさいよ瑞穂、と自分に喝を入れる。そんなこと考えていたら自分の仕事ができるわけがない。
忙しくて休日にも会えないことが多くなっている。
それでも彼に実家に戻ってもらいたくない。彼にも戻る気はないとわかっていた。
そしたらわたしには何ができるかな……。
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