白 椿 17


白 椿

目次


17


 温かい雨が降ってくる。
 髪に、肩に、礼郷の頬を伝うシャワーの水がキスに絡むふたりの唇へ入り込む。離れない唇と体。抱き合ったふたりの体のわずかな隙間を伝うようにシャワーのあたたかい水が流れ落ちていく。
「う……ん」
 片手を下げて礼郷の指が久乃へと入り込むと、湯とは違うぬめりを感じさせて礼郷の指がすべる。下から浅く入れられた礼郷の指に動かされて久乃の膝から力が抜けていくが礼郷は久乃の体を支えて離さない。礼郷の唇に乳首を水滴とともに何度も含まれてもう礼郷へつかまっているのがやっとだ。
「もう……立っていられない……」

「ベッドへ行こう」
 タオルごと抱え上げられるようにされた久乃は礼郷を求めているような自分の目を見せられなくて顔を彼の肩へつけてしまう。

 ベッドへ降ろされた久乃へ重なる礼郷の体。今はひと時も離れたくないというように久乃の体を開いて、お互いの熱い部分を触れ合わせた。
「礼郷……?」
 久乃の小さな声に礼郷はすぐには答えず、ゆっくりと久乃の唇へキスをした。
「今だけ久乃を直接感じさせて。今だけだから」
「礼郷……」
「信じて」
「うん……」
 そのまま緩やかな律動を刻まれると久乃にはもうなにもできない。
「……信じてる」

 礼郷の何かを思っているような瞳に見つめられている。
 できることなら、ほんとうは何も隔てるものなく礼郷を受け入れたい。礼郷のすべてを受け入れたい。それが少しでも彼の慰めになるのなら、彼がそれを求めているのなら……。
 それなのに、心はそうしたいと思っているのにわたしはそれができない弱虫だ……。

 繰り返される礼郷の動きに久乃の体も動いてしまう。体の中が熱く溶けてしまいそうになるのにそれに任せてしまうことができない。体は礼郷に穿たれて、それでも心のどこかにある躊躇が体の上り詰める寸前で邪魔をする。
「あ……っ」
 急に礼郷が離れてしまうと思わず声が出てしまった。まるで彼が去っていってしまったような錯覚。体を離した礼郷が避妊具へ手を伸ばしているのを見て彼もまたもう限界なのだとやっとわかる。礼郷へ抱きつくと礼郷はやさしくなだめるように久乃へつぶやいた。
「いつだって愛しているよ、久乃……」

 こんなにも礼郷を求めている。
 久乃へ沈み込んで深くなる礼郷の動きにそれでも、もっともっと彼にぴったりと触れていて欲しい。離れずにひとつになって抱き締めていて欲しい。

「はあぁ、はっ……」
「……いって、久乃」
「礼郷、礼郷、……れい」

 この痛いほどの緊張を解いてくれるのは礼郷だけ。
 抑えきれない思いを受けとめてくれるのはあなただけだから……



 寄り添って久乃を抱きしめたまま礼郷は久乃の髪をなでていた。さらさらとあたたかく乾いた久乃の髪へ唇を寄せて肩を抱く。
「久乃、今まで言えなかった。僕は仕事でアメリカへ行かなきゃならないんだ。予定では
2年間」
「2年……」
「1月に行く」

 驚いて顔を上げたままの久乃へ礼郷はそっと笑いかけた。
「2年経てば戻って来るよ。でもその前に、アメリカへ行く前に久乃さえよかったら久乃のご両親に結婚したいことを話しておきたい」
「……でも、でも、すぐには……」
 家業のことも和史のことも久乃の一存で決めることはできない。父は和史が将来の跡継ぎになれるように宮原の家で育つことを信じて疑わない。父が和史を簡単に手離すはずがない。それに久乃は宮原家のひとり娘で礼郷は今や久保田家の当主だ。ふたりの結婚を許してもらうためにはいろいろなことを考えていかなければならない。 きっと時間がかかるだろう。
 そうしたらアメリカへ一緒に行くこともできないかもしれないのに、それなのに……?
「久乃がそういうのは僕にもよくわかる。久乃にはいろいろな責任がある。だけど久乃だけが僕の妻だ。一緒にアメリカへ行かなくてもいい。たとえすぐに結婚をしなくても僕の妻は久乃だ」
「礼郷……」
 礼郷がそっと久乃の頬を指でぬぐう。いつのまにか流れていた涙。

「ほんとうはこのままアメリカへ行くのが不安なんだ。久乃になにもしてやれないし……でも離れていても僕の妻は久乃だよ。だからご両親へ話しておきたい。時間はかかっても、今すぐでなくてもいずれはきっとご両親も許してくれる。たとえ僕が久乃の家へ入ることが結婚の条件でも僕はかまわないと思っている」
「でも……礼郷は和泉屋さんの」
「今は明治や大正の時代じゃない。継ぐほどの名も財もない」
 言いきる礼郷にそれでも久乃は首を振った。
「父は和史に酒造りの仕事を教え込んで宮原酒造を譲るって決めているのよ。礼郷を宮原酒造に迎え入れるかどうかもわからない……」
「僕は宮原酒造が欲しいわけじゃない。久乃と暮らしたいだけだ。たとえすぐに結婚できなくても僕がアメリカから帰ってきたら一緒に住めるように考えよう。和くんが立派な後継ぎになれるように一緒に育てていこう」
「いいの……?礼郷はそれでいいの?」
「久乃が僕のことを愛していてくれるのならね」
「でも……」
 それだけでいいという礼郷の言葉。ゆっくりとされる口づけ。もうそれ以上なにも言うなというように。

「……ありがとう……礼郷」
「2年間、帰ってこないわけじゃないよ」
「うん……」
「休みが取れたら帰ってくるから」
「うん……」

「帰って来ても……それからも変わらないよ。久乃を愛している。ずっと久乃を愛している」
「わたしも……わたしも礼郷を愛している……待っている……」

 待っていれば必ず礼郷は帰ってきてくれる。待っていれば必ず。
 それは確かな約束なのだと信じられた。
 亡くなってしまった人は二度とは戻ってはこないけれど、礼郷ならば、礼郷ならば
必ず……。


 離れがたい思いで礼郷も久乃も黙っていたが、礼郷の車はやがて和泉屋の前へ着いて
しまった。もうすっかり夜になっていたが、和泉屋から久乃の家までは近い。今までこんなに家の近くで久乃が車を降りたことはなかった。
 できるなら一分一秒でも長く一緒にいたい……そんな思いの滲んでいるような久乃の顔。少し疲れたような表情の久乃を引き寄せて礼郷は夜の暗さにまぎれるようにキスをした。

 久乃が車から降りたとき、和泉屋の前の道を老人の女性がひとり歩いていた。その人が足を止めた。
「あれ、あんた。川上屋(宮原酒造)さんの」
「こんばんは」
 久乃がそう言って挨拶したので礼郷も車の中から軽く頭を下げた。が、その人は礼郷を怪訝そうな目で見ていた。その人は通り過ぎた後でもう一度振り返ってこちらを見ていた。
 


2009.05.03

目次    前頁 / 次頁

Copyright(c) 2009 Minari all rights reserved.