白 椿 14


白 椿

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14


 礼郷はアメリカ勤務の打診があったことを父よりも先に姉の孝子へ話すことにした。この家の主婦は孝子で、礼郷がアメリカへ行ってしまえば父のことでさらに姉の負担が増えることはわ
かっていた。姉はそんなことは気にするなと言ってくれるだろうが、そうなれば父を時沢ではなくまた東京の病院で治療を受けさせたかった。

「礼郷、ちょっといいかな」
 姉にアメリカ勤務のことを話した翌日の夜、姉の夫の佑介が自分の部屋にいた礼郷へ声をかけてきた。都内の銀行へ勤める佑介とはお互い忙しくてこのところ顔を会わせていなかった。
「アメリカ勤務の話があるそうだね。孝子から聞いたよ」
「すみません、お義兄さんにまで心配かけて」
「いや、それはいいんだ。それよりお義父さんに聞いたんだけど、好きな子がいるんだってね。お義父さんも知っている子だって言ってた」
「ええ」
「時沢町の蔵元のひとり娘だそうだね。小さい男の子がいるって」

「礼郷がそうしたければ結婚すればいい。俺は長男だけど俺の弟も結婚して実家の近くに住んでいる。だから俺たちが今まで通りこの家に住んで、そうすればお義父さんのことは心配いらないよ」
「お義兄さん」
「アメリカ行きのことは彼女に話したかい?」
「…………」
「なんだ、その顔だと彼女に結婚してほしいって言いだせないのか」
 礼郷から何も言わないので佑介はわざと冗談のように言った。その言葉に思わず礼郷も苦笑いする。
「そうですよ。言えないんです。彼女はこれから家業を背負っていかなきゃならないからアメリカなんて言えませんよ」
「その男の子が跡を継ぐのはまだずっと先の話だろう? 礼郷が今の仕事を続けても結婚したら蔵元の仕事をできるだけフォローしてやればいいんじゃないのかな」
 佑介はアメリカ勤務のことだけではなくもっと先のことまで考えてくれている。それが礼郷にもよくわかった。

 あれから久乃とは会えていなかった。
 久乃の家のこと、家業のこと、和史のこと、結婚するならばそれらのことをきちんと考えてからでなければできない。久乃の両親が久乃の再婚などは考えていないらしいことがなんとなく久乃の言動からもわかる。
 久乃は今まで何の約束も礼郷に求めなかった。それはこのまま恋人同士でいいということだろうか。久乃にとって結婚はすぐには考えられないことだろうか。
 このままアメリカへ行ってしまってもいいのだろうか……。


 久乃は横浜のフェアの後で和史が水ぼうそうになってしまい、仕事も思うようにできない日が何日か続いていた。和史は丈夫で病気をすることは少なかったが、こうした病気は成長にはつきものだ。久乃は仕事は家業だし、家には母がいるから和史のことを優先することができてそれはとても恵まれていることだと思えるけれど、 やはり自分の自由になる時間は少ない。和史が毎日休まずに保育園へ行ってくれるとほっとする。
 夜、和史が寝てしまうと久乃は携帯電話で礼郷へ電話をした。2階の和史の寝ている隣の部屋で話している。
「久乃は夜遅く何を話しているんだ」
 父から言われて驚いたこともあるが、なんでもないふりをして「友達へ電話しているんだよ」と言った。
「友達と話すくらいいいでしょ。毎日じゃないし。大目に見てよ」
 わざと明るく言う。

『夏休みはあるの?』
「お盆休みはあるけど、でも……」
『その時に時沢へ行こうか』
 礼郷はそう言ってくれたが、8月のお盆には出かけられない。圭吾が亡くなってからまだ3度目のお盆だ。圭吾の実家の両親たちも線香を上げに来てくれる。それは礼郷には言わなかったが。
『和くんはもう良くなった?』
「うん、もうすっかり」
『じゃあ、こんどの日曜日にどこかへ行こうか』
「日曜日? でも」
『一緒に出かけよう。和くんも一緒に』
「……いいの?」
 
『僕は姉の一家と一緒に暮らしているから姪っ子たちは生まれた時から知っている。小さい子には慣れているつもり』
「本当に……いいの?」
 久乃が尋ねると礼郷は「同じ男同士だし」と言って笑った。

 礼郷が行こうと言ったのは時沢と同じ県内にある子ども向けの遊園地だった。就学前の子どもとその親たちに狙いを絞ったテーマパークで、日曜日の今日は大勢の親子が訪れていた。園内の乗り物は車の形の乗り物やメリーゴーランド、ブランコ型の乗り物といったもので、いずれも親子で乗ることができる物ばかりだった。
「和くんは何に乗りたいのかな?」
「わー」
 和史がうれしそうに闇雲に手を振る。最初は3人で園内をぐるっと回る小型の機関車へ乗り、次に久乃と和史がメリーゴーランドの馬へまたがる。久乃の前でなにか神妙な顔つきでじっと周りを見ている和史。でも嫌なわけではなさそうだった。メリーゴーランドの柵の外から礼郷が手を振ると久乃も手を振り返す。
 園内は親子連れの声が響いていて施設はどこも親子向けにできていた。弁当を広げるためのパラソルつきのテーブルや椅子、天気の悪い時にも使える畳敷きの広い休憩所もあった。 トイレや休憩所にはどこもベビーチェアやベビーベッドがあり赤ん坊連れの家族も困ることがない。また大きな子どもが遊べるようなアスレチック風な遊具や滑り台がある広場もあり、小学生くらいの子どもたちも歓声を上げて遊んでいる。
「すごーい、このレストラン、離乳食もある」
 久乃が感心しながら見ている。
「ここで食べる?」
「あ、ううん、お弁当作ってきたよ。礼郷さんの分も」
「えっ、久乃が作ってくれた? マジでか?」
「うん、マジ」
 礼郷のいつにない気楽な言葉に久乃が笑う。礼郷と久乃、和史は親子にしか見えないだろう。
 礼郷はあいているベンチを探そうとしたが、久乃は日陰になった芝生へシートを敷いたほうがいいという。小さな子どもは動いたり食べ物をこぼしたりするのでシートのほうがいいらしい。
「ちょーでい!(ちょうだい)」
「はいはい和史、手を拭いてね」
 久乃がおしぼりで和史の手を拭いてやると差し出す小さな手へおにぎりを渡す。自分の顔ほどもある大きなおにぎりを持ってかじりついている和史の顔がおかしくてかわいくて礼郷は大笑いをしてしまう。
「でかいおにぎりだなあ」
「えー、そうかな。うちはいつもこのくらいだよ。大きいほうがおいしいよお」
「それにしても和くんにはでかいだろ。和くん、うまいか?」
「うまーい」
 もぐもぐという和史。あはは、と久乃の声が明るく響く。礼郷も和史と同じように大きなおにぎりへかぶりついた。
 もう和史は礼郷に慣れてきたようで礼郷をじっと見るようなことはしなくなっていた。ぱくぱくとおにぎりを食べている。

 ……礼郷さんって子ども好きなのかな。

 礼郷なら良い父親になってくれるかもしれない。
 そんなことを考えそうになって久乃はあわててその考えをふるい落とすように首を振った。
 そんな都合のいいこと……礼郷さんは和泉屋さんの長男なのに。

 礼郷は家の前まで送ると言ってくれたが久乃は家から少し離れたところで車を降りた。
「誰かに見られるとうるさいから……」
「そうか」
 久乃がそれを気にするのはしかたのないことだ。小さな町の人の目は礼郷が思う以上に久乃には気になるのだろう。
「ありがとう。楽しかったわ。気をつけて帰ってね」
「ばいばーい」
 それでも久乃の笑顔と和史のバイバイに礼郷の車が去りながら手が振られる。

「和くん、きょうは楽しかった?」
「おにいちゃんとあそんだー」
「おにいちゃん?」
 母が和史と話している。
「うん、おにいちゃんにいっぱい遊んでもらったねえ。機関車にもてんとう虫のコースターにも
一緒に乗ったねえ」
「のったー」
 明るく言った久乃の言葉に和史がぴょんぴょん飛び上りながら答える。
「あーら和くん、よかったわねえ」
 母はどこかの子に遊んでもらったと思ったのだろう。久乃の楽しそうな様子も久しぶり
だった。

「久乃、なんだか明るくなったわねえ」
 久乃の母の言葉に新聞を読んでいた父が湯呑へ手を伸ばした。
「そうかね」
「圭吾さんが亡くなってからも普通といえば普通なんだけど、あの子はなんにも言わないから」
「和史がいたらふさぎこんでばかりはいられないからな。和史もどんどん大きくなる。そういう意味でも和史がいてくれてよかったじゃないか」
「そうねえ」
「和史のためにも久乃がしっかりしていてくれなきゃ困るよ」
「そうですねえ」

 帰りに礼郷の車の中で眠ってしまったせいかその夜、和史はなかなか寝なかった。横にならせてもすぐに起き上がってしまう。
「和史、寝ないの?」
「しゅっーしゅっー」
「和史、機関車が気に入ったんだ」
 布団の上にちょこんと正座しているパジャマを着た和史を久乃は膝へ乗せた。
「でも、もうバイバイしたからね。機関車さんも寝ているよ。和史もおやすみなさいだよ」
「いやー」
 膝の上で跳ねるように動く和史。今夜はまだまだ眠りそうにない。久乃のほうが眠くてしかたがないのに。
「おやすみー、またねー」
 枕元へ携帯電話を置いて久乃も和史といっしょに横になった。まだぱっちりと目を開いている和史。

 さっき礼郷からメールが来ていた。

 ――家に着いたよ。今日は僕も楽しかった。おやすみ。――

 和史が車の中で眠ってしまった時にそっと交わしたキス。
 小さな幸せのようなキス。

 ……わたしも楽しかったよ。
 おやすみ、おやすみなさい。
 礼郷……。
    


2009.04.22

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