白 椿 6
白 椿
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6
……自分があんなことを言ってしまうとは思っていなかった。
街道保存会の交流会の話を聞いた時から礼郷は自分が変だと感じていた。もしかしたら久乃が東京へ来るかもしれないとそればかり考えて、その通りになったときには自分を抑えていた何かが消えていた。
ずっと好きだった。初めて会った時から……。
無意識に抑えていた言葉だったのに。
初めて会った時の久乃には夫がいた。これは悟ってはいけない気持、言ってはいけない言葉だとわかっていた。この気持ちを閉じ込めておくのはそんなに難しいことではなかった。久乃の夫が亡くなっていることを知ったあの日までは。
だけど彼女の気持ちも聞かず、いや、会って言葉を交わしたことさえも少なかったということに今更ながら気がつく。
一方的に抱きしめてしまうなんて、どうかしていた……。
8月になって礼郷は夏休みを利用して父に付き添って時沢へ行くことにした。父は毎月の検診も時沢の病院で受けていたので今月は姉に代わってその検診に自分が付き添い、礼郷は病院の待ち時間のあいだに宮原酒造へ電話をした。久乃が電話を取るかどうかは賭けのようなものだった。
『はい、宮原酒造です』
「久乃さん、久保田です」
『……はい』
「この前は済まなかった。でもいい加減な気持ちであんなことしたんじゃない。ちゃんと話したいから、もし久乃さんが嫌でなければもう一度会ってもらえますか。今、時沢に来ているので」
『……わたし、これから和泉屋さんへ行きます。夏休み期間中は毎日公開しているので誰かがいるように当番があるんです。子どもが一緒ですけど、それでよければ……』
声をかけて開け放たれている和泉屋の家へ入る。入ったところの横の座敷には上がり端へ細長い座卓が置かれていて町の案内やパンフレットが並べてある。
「いらっしゃいませ」
すぐに久乃が出てくる。家の中にはほかに誰もいないようだった。平日だったし観光地ではないので見学者も大勢訪れるというわけではなさそうだった。カタカタと小さな音がして奥の座敷では和史がおもちゃで遊んでいた。その横の土間に立ったまま礼郷は久乃へ頭を下げた。
「この前は悪かった。あんなこと、自分でもらしくないと思ったんだけど」
久乃は黙って聞いている。
「でも久乃さんがずっと好きだったから、だからあんなことをしてしまった」
黒い土間の土を見つめている久乃。
「また会いたいって言っても駄目かな」
その時、座敷にいた和史が何か言いながら久乃のほうへとことこ歩いてきた。土間へ立ったまま抱きあげる久乃。
「わたし、子どもがいるし」
「うん」
「夫は……」
「ご主人のことは聞いたよ。だから時々でもいい。僕が時沢へ来たときに会うだけでもいいんだ。今みたいに」
「でも……」
「あーちゃん(おかあちゃん)」
和史が久乃の顔へ手を伸ばした。和史のさわろうとする手をちょっと避けるようにしている久乃の後の言葉が出てこない。
「ごめん、困らせているのはわかっているんだけど。今すぐ返事を聞きたいわけじゃないんだ。和くん、邪魔して悪かったね。じゃあ、僕は帰るから」
和史へ笑いかけると礼郷は和泉屋を出て行ってしまった。
和史を遊ばせながら和泉屋の当番を終えると久乃は家へ帰った。夕飯までに洗濯物を取り込んでたたむ。その間に眠くなった和史がぐずったのでおんぶして家のまわりを歩く。買い物から帰ってきた母が和史を寝かせてくれて、その間に夕飯の支度をする。たいして眠らずに和史が起きてしまい、ぐずぐず言うのでお風呂へ入れようと湯の用意をする。
もうすぐ父も仕事からあがってくるだろう。父は孫の和史と一緒に風呂へ入るのを楽しみにしている。おなかが空いているだろうからと和史に先にご飯を食べさせるが機嫌が悪いのと遊び食いで食べ散らかしてばかりいる。
「和史、ちゃんと食べて。じいじと一緒にお風呂入れないよ」
それでも父や母が和史の相手をしてくれるので久乃は食事の片づけや自分の入浴も済ますことができて和史と一緒に二階の部屋へ行った。しばらく抱っこしたり、歌を歌ってやっているとやっと和史があくびをする。またあくびをすれば眠る合図だ。やがてことんと眠りこむ和史。小さな手がひくひくしている。
じっと和史のとなりで横になって和史の寝息を聞く。弱く効かせたクーラーに小さな鼻の頭に汗をかいている和史。
あの人……。
和史がいることもわかっているし、夫の圭吾が亡くなったことも知っていると言っていた。それでも会いたいと言った。
だから? ……でも……。
会わないほうがいいのかもしれない。あの人はいい加減な気持ちではないのかもしれないけど、会ってどうするというの。
彼ではなく、わたしがどうにもならないのだから……。
断れば彼はあきらてくれるだろう。
そのほうがいいに決まっている。
だけど……
わたしは……彼にあきらめてほしいのだろうか……。
2009.02.21
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