花のように笑え 第3章 9

花のように笑え 第3章

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 同姓同名なのだろうか。わからない……。

 とくん、とくん、と心臓の音が耳に響くようだ。

 彼なのだろうか。でも彼はコンサルティング会社の社長だった。その彼が園芸や薔薇の育種に関わっているはずはない。だけど……。

 瀬奈は堂々巡りになっている思いの中で気がついた。新しい薔薇を紹介してきたという旭川の会社。偶然だろうか。
 瀬奈は思いついて桂木に旭川の物産の企画販売会社の住所も確認しておくのでと言って会社資料を借り受け、出張用に住所や電話番号などを控えに書き写しながら旭川の物産の企画販売会社の書類を読んだ。社長名、役員名……経理部長、三田勇三。

 ……三田さん。
 旭川の物産の企画販売会社との間で国産の麻について話があったのはあれは一年? いいえ、もう二年も前になる。最近の話じゃない。旭川、じゃあもしかしたら……。

 瀬奈はようやくその日一日の仕事を終えると自分の部屋に帰りついて着替えもせずに座り込んだ。
 三田の名のある旭川の物産の企画販売会社、そして森山聡。偶然だろうか……いや、偶然のはずがない。
 三田だったら、そして聡だったら。聡が新しい薔薇の発見者ということがどうしても結びつかなかったが、聡なら偶然などない。
 では……偶然ではないとしたら? 彼はもう一度わたしを引き寄せようとしているのだろうか。

 あの時と同じ胸苦しさを思い出して瀬奈は胸をおさえた。思い出さないようにしようと思えばそうできるようになってはいたが、忘れたわけではなかった。
 聡から逃げ出して4度目の夏が来ていても。
 逃げ出してどうなるものでもないとわかっていたのに。


 …………
 …………
 苦しかった。
 あの時彼に抱きしめられて、もう離さないと回された腕が。
 左腕を使えない聡だったが瀬奈の体を引き寄せて離さない。もどかしいほどの愛撫。瀬奈が左腕を使わせないように彼の体を支えようとしても聡は瀬奈の手をはずして強引に瀬奈を引きつけていた。

 何も考えられない。
 熱い動きだけが瀬奈に感じられていた。痛いほどの感覚に瀬奈の体が落ちていく。
 聡が動くたびに、瀬奈の体が揺れるたびに、瀬奈の心が落ちていく。

 どこへ? どこへ?

 わたしはどこへ落ちていくのだろう?
 どこへ? どこまで?
 …………

 聡に抱かれて苦しさの重みがのしかかってくる。彼に愛されているのに苦しい。まるで暗闇に落ちていくように息ができない。水の底から浮きあがれないような苦しさ。空気を求めるように聡の体から逃れようとしても息ができない。

 苦しい……。

 だからわたしは逃げ出してしまったんだ。
 自分を許せない苦しさから、聡さんに抱かれる苦しさから逃げ出してしまった。
 でも、何も変わらない。

 今なら聡さんも苦しかったのに違いないと考えることができる。だけど彼に何も言わず逃げ出してしまった。
 この四年の間、聡さんはどうしていたのだろう。勝手にいなくなったわたしを聡さんはどう思っただろう。きっと怒ったに違いない。聡さんがわたしのことなど忘れてしまっても仕方がない。
怒って忘れてくれたほうがいいとすら思っていた。
 誰よりも聡さんを傷つけているのはわたしなのかもしれない。それなのに聡さんは……。

 そして桂木。
 わたしの抱えているものは何かと、そしてわたしにはまだそれに答える準備ができていないと言った。瀬奈の女性としての生き方を考えずにはいられないと言った桂木。仕事のことを決めるために、その答えをしなければならないのだろうか。北海道へ行って、そうしたら……。

 時間は誰にも平等に過ぎていく。
 聡のその後。聡の今。偶然とは思えない聡からの意志。
 そして新しい仕事の打診、桂木の言ったこと。
 わたしはそれに応えることができるだろうか。

 わたしは……。
 …………



 あの日からいつもと変わりなく仕事をする瀬奈が少し疲れた顔をしている。
桂木はそれに気がついたが何も言わず、ただ瀬奈の様子を見ていた。自分と瀬奈との年齢差を考えないでもなかった。上司と部下という仕事上の関係を踏み出すつもりもなかった。瀬奈が秘書として働く間に若い男の社員たちの何人かが瀬奈に気があるらしいと気がついたが、 しかし桂木を含めてまわりの男たちに対して瀬奈のほうには全くそんな気はないようだった。
 瀬奈を企画の仕事にも関わらせたのは瀬奈の他の可能性も試してやりたかったからだが、企画の遠藤がかなりはっきりと瀬奈へ接近しようとしているのが見てとれて桂木はとうとう自分でも認めてしまった。
 本当は遠藤の企画に瀬奈を引っ張り出したくない。瀬奈は自分の秘書でいればいいのだ。そしてこれが口に出して言えないエゴだとわかっていた。
 若いのに控え目で、だが何も言えないわけではない、しっかりと仕事もできる瀬奈。その性格も生まれつきのものだろうが、しかし瀬奈がただ定食屋でバイトをしていただけとも思えない。 やわらかく美しいのにその底に固いものがある。そんな瀬奈にあなたが抱えているものは何なのですか、と言ってしまった。瀬奈の女性としての生き方を考えずにはいられない、とも。
 もう彼女はそれを意識しないではいられないだろう。イメージキャラクターを受けるか否かということが瀬奈の今後にとって大きな選択だ。そして桂木は彼女にもうひとつの選択をして欲し
かった。自分を選んで欲しいという選択だった。

 瀬奈はすでに翌日に迫った北海道出張に関する準備は終えていた。今回の出張は桂木と瀬奈のふたりだけで同行者はほかにいなかった。
 桂木はあれから瀬奈へ何も聞いてこない。けれども桂木は瀬奈の答えを待っている。その答えを出さなければならない。


2008.10.31

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