花のように笑え 第3章 6
花のように笑え 第3章
目次
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「聡はどうかね」
聡が出て行ってしばらくすると部屋へ田辺康之が入ってきた。いつ見てもシャツと作業ズボン、聡と同じような服装のこの老人は背筋もまっすぐで陽に焼けた肌が若々しい。帽子を取りながら三田へ尋ねる。
「先生」
「聡はあいかわらずか」
「はい」
「時間をかけるのも大切なんだがなあ、あいつも強情だから」
「はい」
「瀬奈もなあ」
田辺が三田の手元の書類をのぞきこむ。
瀬奈がいなくなってから1年ほど過ぎたところで、聡の東京の家の住所だった瀬奈の住民票が都内の別の場所へ移動していた。これを知らせてきたのは東京の川嶋晴代で定期的に調べてほしいと三田が頼んでいたのだった。
聡は婚姻届を出してはいなかったが瀬奈の住所は東京の聡の家へ移動させてあった。その瀬奈の住所が移されたという。
三田が内心待ちに待っていたことだった。すぐにそれを足がかりにして調べさせた。ほどなくして瀬奈がある会社へ就職して働いていることがわかった。就職のために住民票を移動させる必要があったのだろう。しかし住民票を移したのだから、
いや、もっと前からかもしれないが瀬奈は聡と戸籍上の結婚をしていなかったことに気がついているだろう。もはや瀬奈は森山瀬奈ではなく立花瀬奈として生きている。
このことを聡へ言ったら聡は何と思うだろうか。瀬奈は完全に聡の手を離れてしまっている。
田辺と三田は年長者が年下の者を面倒みなきゃならないのかというようにわざと渋い顔を見合せた。聡の少年時代を知る三田勇三と田辺康之。多くは語らなくても聡の強情ぶりが説明しなくてもふたりにはわかる。ふたりはそんな間柄だった。
「それじゃあ聡に手伝ってもらうとしよう」
田辺老人はそう言うとまた帽子をかぶりなおして出て行った。
近くまで来ると田辺はひょいと足取り確かに畑へ入って行った。
「天気が良くてよかったな」
聡へ声をかける。聡は黙って畑の様子を見ている。
「ここの穫り入れが終わったら手伝ってもらえんかな?」
「いいですよ。どこの畑を手伝うんですか」
「うちの牧場だよ」
「一部だが買い戻したんだよ。借金だらけだがな。おまえに手伝って欲しいんだ」
「よく買い戻せましたね」
聡は感心した。この七十歳を超えた老人へ牧場を買い戻す金を貸す人間がいるとは。三田だろうか。
「なあに、俺もしょぼくれちゃいられないさ」
そう言って田辺が笑う。
「おまえに手伝って欲しいんだ。牧場に来い」
聡が肩のせいでもう重労働はできないとわかっていてもそう言ってくれている。
「嫌かね」
聡が黙っているので田辺が聞いた。
「おまえがずっとそうしているのは仕方ないが、俺には身内にかかわりがあることなんでね」
身内……。
「まあ、来い。年寄りばかりに働かせるな」
聡が田辺の牧場へ行くと住まいの古い建物はそのままだったが、もともと少し畑があったところが広げられて整地されていた。すでに資材が運び込まれていてそれからは夏から秋にかけて先を急ぐようにいろいろな補修や準備がされ始めた。
聡は田辺が牧場を再開するものだと思っていたが温室型のハウスがいくつも建てられると聞いて驚いた。
田辺は花卉(かき)栽培を始めるのだという。冬の間にいろいろな準備をして来年の春から本格的な栽培を始めるという。田辺はすでに何年も前から春から秋にかけては隣町の農家の花卉栽培を手伝っているという。
「今までは手伝うだけだったんだがな。おまえと勇三が帰ってきてくれたからこの土地を買い戻してハウスを建てる金も借りられた」
聡はまるで年齢を感じさせない田辺の言葉にあきれたように見ていた。
この老人は様々な苦労をしてきてもしぶとく生きている。しかし失敗したらどうするんだ。新しい仕事を始めて失敗したら残るのは借金だけだ。七十過ぎの年寄りなのに……。
かつて会社経営をしていた聡の頭が働きだす。準備以外にも必要な資金繰りは? それよりも何の花を栽培するんだ? 栽培のノウハウはあるのか? その花に商品価値はあるのか? 初めの年から収益をあげられるのか? いくらなんでもそれは無理だろう。
「やる気になってきたか?」
田辺は気楽な表情で聡をおもしろそうに眺めている。気楽ではあったが田辺も無謀ではないだろう。俺にやらせる気か、この人は……。
これじゃまるで自分のほうが年寄りのようだ。聡の心の中に笑いがこみ上げたが顔には出さなかった。
「家のほうまでは手がまわらん。修理して住むしかないからな。おまえをあてにしているぞ」
ハウスを建てるのは業者へ頼んだが、田辺の古くからの知り合いの近所の牧場の人達も手伝ってくれた。三田も仕事の合間をみて手伝いに来る。家のほうはだいぶ傷んでいたがとりあえず田辺と聡が住めるようにするしかない。
北海道の早い冬の訪れに間に合わせるように田辺と聡は牧場の家へ入ることができた。住まいの補修、来年への準備などすることはいろいろとあった。
まだ雪が降る前、聡は壁の補修に邪魔になるなと思いながら住まいの東側の壁際にある葉を落として何本かの細い枝が弓なりに地面に倒れた低木を眺めていた。通りがかった田辺が気がついて言う。
「その木は抜かないでおいといてくれんかな。ばあさんが大事にしていた薔薇の木だよ。薔薇の実をどこかからもらってきたんだったか、ちょうど娘が来ていて小さい瀬奈が種をまきたいと 言ってな。そこらに試しに播いたら芽が出たらしい。もう枯れているかと思っていたよ」
瀬奈がまいた種から育った薔薇。
聡は薔薇に実がなることも種から育てられることも知らなかったが、たぶんまかれた種が運良くここで育ったのだろう。瀬奈が幼い頃にまいたものならば二十年ほどたっているはずだが、その木はここ数年手入れもされず放っておかれて荒れていたので
聡は適当に枝をつめて雪で倒れたりしないように支えをしてやった。
厳しく長い冬。
田辺とふたり、冬の間にできる準備を少しずつ進める。田辺の家はがっしりとした木造の作りで食堂を兼ねた居間と台所は靴のままで過ごせる。聡もかつては過ごしたことのある懐かしい空間でストーブのあるその居間には昔から田辺の古い木の机が置いてあったが、
昔と違うことはそこに一枚の写真が飾られていることだった。
小さな赤ん坊を抱いた母親と父親の写真。かつて聡が見たことのある写真と似た写真だった。しかし少し違う。母親に抱かれたかわいらしい幼子が笑っているのがはっきりとわかる。小さな、幼い瀬奈。無垢な笑い顔の瀬奈。暖かそうな白い服を着せられて……。
吸いつけられるように写真を見ている聡に田辺が気がついた。
「こんな小さな頃の写真しかないんだよ」
「大人になった瀬奈を知らないなんてなんて情けないじゃないか。だから瀬奈さえよければここへ来てもらいたいとそう思っているんだ。俺が元気なうちにせめてあの子にそう言ってやりたくてな。おまえが言わんなら俺が言う。たったひとりの身内だからな」
静かな言葉だったが、田辺はその言葉で聡を打った。
かつて荒れていた聡をそうしたように。聡は目の前にいる。あとは聡次第だ。受け取るのは聡次第だとでも言うように田辺は聡を見ていた。
やがて春が来て薔薇の木から小さな葉が芽吹き、聡が気がついた頃には青々とした葉が伸びていた。伸びてきた緑の固いつぼみは白い花かと思ったが、白い花びらにうっすらとピンクでふちどったような花がいくつか咲いた。
ぽつぽつと咲く薔薇の花は派手ではなかったが、蕊(しべ)の見えるほど開いた花はまた巡り来た夏の季節を喜ぶように咲いている。聡は地面に片膝をつきながらそっとその花を上向けさせた。
瀬奈のまいたという薔薇の花が咲いている。緑の葉を茂らせ可憐な美しい花を咲かせている。何年も、誰も見る人もいない間もひっそりとこの花は咲いていたに違いない。
心が年をとってしまったのは俺のほうだった。まるで世を捨てたひがみ者だ。かつての少年 だった頃の自分と同じ。あの時は先生に救ってもらえた。しかし今は……。
聡はあまり力のはいらない左手を握った。
まだ、間に合うか? ……俺はまだ間に合うか?
瀬奈……。
2008.10.17
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