花のように笑え 第3章 4
花のように笑え 第3章
目次
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返事を決める前に一度会社を見に来たらという桂木の言葉に瀬奈は見学のつもりで桂木のいる会社K&Kを訪ねた。
「K&Kの通販カタログを見たことはありますか?」
桂木の質問に瀬奈は困った。見たことさえない。しかしそれはK&Kが知られていない会社というわけではなく瀬奈がそういったことに関心なく過ごしてきたからだろう。
K&Kの親会社は昔は肌着やタオル、寝具などに使う布地などを専門に扱う会社だったが、通販の普及の波に乗って衣類を中心とした通販部門を独立させたのがK&Kだった。さまざまな通販会社やネットショップなどが乱立する今の社会では堅実なほうだろう。
本社以外にも通販の中心となる受注と流通部門のセンターなどが他県にあり事業規模はなかなかのものらしい。
「すみません、見たことありませんでした」
「おや、うちの会社も立花さんのような新しいお客の開拓の余地がまだまだあるということですね」
桂木は笑ったが瀬奈は顔が赤くなるような思いだった。
瀬奈の前にはK&Kの商品だという服が何点か広げられていた。どれもオフィスワークでも着られるソフトな感じのスーツの上下やブラウススーツなど。モノクロ系の多い服に効き色を効かせるような良い色のブラウスやスカーフなどの小物もあった。
これらの数点を瀬奈へ仕事用の服として与えてくれるという。その場にいる女性社員の着ている服もK&Kの商品だという。制服の貸与だと思ってくれればいいのですよと桂木は説明したが、ちょっと試着してほしいと言われ、
押し切られて試着をすると待っていたかのように女性社員にそのまま化粧を施され髪型が整えられた。
こんなふうに化粧をされたりするのは瀬奈にある記憶を思い出させる。きれいな服を着せられて化粧をされたことがある……。
けれども瀬奈はその記憶を封じ込めた。考えてはいけない、思い出してはいけない……。
何色かの幾何学模様の入ったベージュのブラウスに黒っぽいジャケットとスカートのセットアップを着て瀬奈は桂木の前へ出てきた。働く女性風の化粧が今までの瀬奈の素顔を洗練された若い大人の顔に見せている。
すっと立つ瀬奈の自然な立ち姿。予想以上だなと、と桂木が思うほど今までの素っ気ない普段着の瀬奈とは違った優雅なたたずまい。まるで瀬奈本来の。
「立花さんにはこういった服が良く似合う。仕事に必要ですからね。立花さんがそういう服が似合う人でよかった」
瀬奈にはおどおどしたような子供っぽさも、新しい服に戸惑っているような様子もなかった。かといって鈍感とも思えない。まだはたちの娘なのに瀬奈には年若いのに静かさを感じる。慣れているという感じでもなく、暗いという感じでもない。
それがどこからくるのだろうかと桂木は不思議だった。定食屋のアルバイトの女の子なのに。
「不思議な人ですね」
桂木が声に出して言った。
定食屋で働いていた瀬奈に目をとめたのは桂木だった。定食屋の主人やおかみさんに頼まれたわけではなかった。忙しそうに働く瀬奈を見るたびに、てきぱき働く子だなと思って見ていた。特別元気が良いというわけでもなく威勢のいいおかみさんなどに比べたら静かだったが、
それでも声が出ている。ろくにしゃべろうともしない店員が多い世の中だが瀬奈の受け答えがはっきりしていた。
店以外での姿を見たことはなかったが、顔もきれいなのに化粧っけがない。それでも肌が美しく目鼻立ちが整っている。あれで化粧をさせてうちの服を着せたら……などと桂木が考えたくらいだ。それにしても店になじんでいるのにどこかそぐわない。いきいきとしているのに静かすぎる……?
瀬奈をK&Kで働かせたい。桂木は今はどうでもそうさせたいという気持ちになっていた。秘書としても、他の仕事でもいいかもしれない……。
「桂木さんのところで働くの?」
「はい」
「ふーん、じゃあうちはやめるんだ」
瀬奈のアパートの前、今夜も送ってくれた芳樹が立ち止って聞いた。
「すみません。ご主人やおかみさんたちによくしてもらったのに」
「理奈が言ってた。そのほうが瀬奈ちゃんのためだって。親父やお袋もそう思っているよ」
「はい……」
「自分で決めたんだろ?」
芳樹が眼鏡越しに瀬奈を見ている。
「もう会えない?」
何と答えたらいいのだろう……。
無口で愛想のない芳樹。だけどいつもさりげなく瀬奈を送ってくれた。それは……。
「はい……」
「そっか」
瀬奈の答えに芳樹はそれ以上何も言わなかった。くるっと身を返すと「じゃあ」と言って行ってしまった。いつものように。
瀬奈にもわかっていた。何も言わなかった瀬奈を芳樹は気遣ってくれた。いろいろな意味で。今もそれ以上何も言わず帰って行く。瀬奈はついに芳樹には応えられなかった。
応えることなどできないから……。
「あの子いいなあ」
「秘書に入った立花さんだろ? 何でも専務秘書の倉田さんが直々に教育しているって話だぞ」
「ひょー、倉田さんがかよ」
そんな会話がK&K本社の若い男性社員たちの間で交わされるようになっていた。
倉田というのは長らく桂木の秘書をしていた女性で瀬奈は契約社員として入社してから倉田のもとで仕事を覚えていた。倉田は50代の女性で一見厳しそうではなかったが入社前に会社を訪れた瀬奈はこの倉田に専務室に案内されてお茶を出されていた。
「もう20年来の付き合いです。倉田さんとは。だが残念なことにあの人のご主人が病気で体が少し不自由になりましてね。介護のこともあって来年には早期退職することになりました。だからあとを引き継いでくれる人を探していたわけです」
「はい」
「倉田さんが辞めるまで立花さんをみっちり仕込んでもらうつもりです。有能な人材を育てていくのも会社にとっては大切な仕事ですから」
そう言う桂木はなぜか楽しそうだった。
3か月に渡る倉田からの教育、そしてさらにその後の秘書見習いを過ごしていたが、倉田の教育はすべて実務主義で、資格などには全くこだわらなかった。
「まずはこの会社のやりかたを覚えて下さい。どんな課に配属されても毎日の日常の仕事、それから会社全体の仕事の流れ、どこの会社でも多かれ少なかれその会社のやり方というものがあるものです。そしてそれとは別に礼儀作法、立居振舞、
これらはあなたの人間としての資質を磨くことになりますから大切なことですよ」
最初に倉田からそう言われて瀬奈はその言葉を心へたたみこんだ。経験に磨かれるそういったことが自分には足りないのだから。瀬奈の緊張した顔を見て倉田が言う。
「私も若いころは事務の仕事をしていました。転職先が小さな会社で事務も兼ねて社長の雑用係のようなものから始まってだんだんと秘書のような仕事をしてきました。だから私も最初から仕事ができたわけじゃないのよ。何の仕事でも経験ですけれど経験が身につかない人もいる。
立花さんがそうならなければいいのです」
50代という年齢もあるが、瀬奈たちのような若い社員が着ているK&Kの服を倉田は着ていなかった。自社製品を着ることは強制ではなく、むしろ着心地や着回しなどを参考にするために女性社員に着させているらしい。
いつでもオーソドックスなスーツを着て仕事をする倉田はやはりかなり教育も厳しく、瀬奈は夢中で過ごしていた。日常のちょっとしたことでもさりげなく倉田の指導がされる。
「お茶をお出しするときは湯呑の向きに注意して。模様があるほうをお客様の前へくるようにするので盆に載せるときから気をつけないと、お客様の横でいちいち向きを確かめるのでは遅すぎますよ」
「このファイルは専務の管理ですので私たちが中の書類の整理をしたりすることはありませんが、ファイルの表紙の見出しは覚えておいてください」
毎日、瀬奈の頭の中のメモ帳が覚えることでいっぱいになる。
秘書といってもこの会社の秘書は社長秘書の男性とあとは倉田と瀬奈だけだ。秘書課として独立しているわけではなく、瀬奈も総務の配属だった。中途採用者もいて今年入った社員と一緒に受ける教育などもあり少しずつ社内での知り合いも増えていったが、
若い年齢の瀬奈は会社勤めが初めてだと言っても驚かれなかったが、単なる飲み会も経験したことがなかったことを話したときにはまわりの社員たちに驚かれたりしていた。
「もしかして立花さんってものすごいお嬢様?」
総務の同じ年齢の足立真由美にからかわれる。
「違いますよ。お酒好きじゃないんです」
「飲まなくたっていいから今度みんなでご飯食べに行こ。もー、同期の連中がみんなうるさいのよ。立花さんを誘えって。特に男たちが」
そんな誘いにも応じられるようになっていた。
2008.10.10
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