花のように笑え 第2章 15
花のように笑え 第2章
目次
15
「東郷のところの家政婦に話がついた!」
まわりの迷惑もかえりみずに病室へ駆けこんできた三田が言う。川嶋が聡の家にいた家政婦の小林と連絡を取り、小林もベテランの家政婦であり今までさまざまな家で働いていただけあって東郷のところの家政婦とは知り合いではなかったが、彼女の所属する家政婦紹介所を知っていた。
そのつてを頼って何とか東郷のところの家政婦に手引きを頼むことができないかと画策していた。
「案外すんなり話に応じてくれた。どうやら瀬奈さんのことを気の毒に思っていたらしい。家政婦は私にまで気配りをしてもらって、というようなことを言っていた」
三田の報告を待ち望んでいた聡は黙ってうなずいた。そう、それが瀬奈だ。
聡は三田の手を借りて着替えをすると車いすでなく杖をついて立ち上がった。右手でしか杖はつけない。
「三田さん、警察は明日動くでしょう。だが警察が動くのを待っている必要はないし、一時的にでも瀬奈をひとりのまま警察へ渡したくはない。瀬奈を迎えに行きます」
聡の目はしっかりしていた。怒りと激情に流されている目ではなかった。
夜明けの色。
暗かった室内が徐々に闇を払う。瀬奈は眠れぬままにひとりでいた。
夕べ東郷は部屋を出て行ったまま戻ってくることはなかった。もうとても抵抗しきれないと絶望のように思っていた瀬奈だったがとうとう東郷は戻ってこなかった。しかし眠れるはずもない。
夜が明けた頃にノックの音がして年配の家政婦が入って来た。東郷が呼んでいるという。瀬奈が東郷のいる部屋へ行くと東郷は鏡へ向かって服を整えているところだった。
一筋の乱れもない髪とスーツにネクタイという服装を鏡へ映しながらドアのそばで東郷を立って見ている瀬奈を東郷は鏡の中に見ていた。
瀬奈には予想できまい。これから東郷の身に起こるであろうことを。そのことを話したら瀬奈はどんな反応を見せるだろうか。きっと喜ぶだろう。俺から解放されるのだから。
それと同時に瀬奈ならそんな事はしないだろうとも思えた。どんなに東郷が憎くてもあからさまに人の不幸を喜ぶようなことはしないだろう。そういう女だ……。
東郷が瀬奈の前へ立つ。瀬奈の目が伏せられて繊細なまつ毛が頬に影を落とす。
美しい。
瀬奈の意志にかかわらず、東郷の意志にかかわらず。そのまつ毛に触れてみたい、触れたら瀬奈は……その時、ドアがノックされてあの家政婦の声が聞こえてきた。
「旦那様、お客様でございます」
「客?」
家政婦にそう言われて東郷は嫌な顔をした。この家へは誰も来るなと言ってある。早朝に、しかもこんな時にいったい誰が来るというのだ。たとえ客が来てもガードマンにチェックさせているし警察ならそう告げるはずだ。
東郷は窓へ寄って外を見たが、車が1台門の内へ停められているほかは周りは静かだった。
「誰だ?」
どうして車が門の内側に停められている? 誰が車を入れさせた?
ガードマンのひとりに瀬奈を別の部屋へ連れて行かせてから年配の家政婦を振り返ると家政婦は無表情な顔で言った。
「森山聡様とおっしゃっています」
ゆっくりと東郷が向き直った。
黙って部屋から出て階段まで行くと玄関ホールが見えた。そこに立つひとりの男。
「生きていたのか……」
「瀬奈を返してもらおう」
激しく睨みつける東郷に森山聡は大きくはない声で言った。
「……そういうことか。おまえが生きていたとはな。だが」
ふいに東郷の表情が変わり笑い出す。おかしそうな笑いがだんだんと冷たい笑いになる。
「わかっているのか? あの女がすでに俺のものになっていることを。俺のところに来てその体を投げ出したことを。たいした、ああ、たいした女だよ」
杖をついた聡の体が揺れたかに見えた。しかしそれは一瞬のことだった。
「瀬奈は俺にとっては変わらない」
瀬奈がいる部屋のドアがノックもなしに開く。東郷かと思った瀬奈が思わず立ち上がったが、しかしこの家の家政婦がするすると瀬奈へ近づいてすばやく言った。
「お嬢様、お迎えでございますよ」
「え?」
家政婦の言った意味がわからない。問い直そうとしたが家政婦はさっと瀬奈のいる部屋から出ていってしまった。
迎え……わたしを迎えに? ……まさか、それは……。
家政婦が開けっ放しにしておいたドアから廊下へでる。廊下の先には階段があり、その下が玄関ホール。階段の下に東郷が立っているのに気がつく。じっと前を見ている。東郷の見ているその先には……。
瀬奈は無意識に階段の手すりに手をかけた。一歩階段を降りようとしたその足がひどく重い。その時、東郷を見ていた聡が見上げるように階段の上にいる瀬奈を見た。
なつかしいまなざし。
東郷が全身で睨みつけるような怒りを発散していたのにもかかわらず、聡が瀬奈へ向けた目は静かだった。東郷との距離を保ったまま瀬奈を見上げている。
聡の伸びてしまった癖のある髪。やつれている頬。右手で杖をついて、袖を通せないまま肩へ羽織っている上着のその下の左腕が三角巾で吊られるような位置で固定されている。
かたや東郷は背は聡ほどは高くはなかったが、怪我が治りきっていない聡など簡単に追い出すことができるだろう。しかし力だけではない拮抗がふたりの間にあった。何もかもを失ってしまった聡と失おうとしている東郷。瀬奈をめぐるふたりの男。
俺も森山もたいして変わらないな、と東郷は心の中で皮肉に笑った。
……では、残されたものは。
瀬奈の体が一歩を踏み出したまま止まっている。不思議なほどに声も出ない……。
瀬奈を見上げていた聡が杖を離すと瀬奈のほうへ右手を差し出した。瀬奈へ向かって手を差し出している。瀬奈の意志を信じて、瀬奈が降りてくるのを信じて聡は手を差し出していた。
瀬奈が石のように固まってしまったかのように思えた。聡を見つめているその表情が永遠に変わらないのではないかと思えた。永遠に……。
しかし瀬奈はゆっくりと階段を降りはじめた。東郷のそばを通り過ぎると瀬奈は差し出された聡の手を見て、そしてまた聡の顔を見た。
瀬奈が手を伸ばす。触れたと感じる瞬間にぐっと瀬奈の手が引き寄せられた。
「……瀬奈!」
響くように家の外がざわめいている。
人の気配。車の音。尋常ではないざわめきが時間とともに揺れ動くように大きくなった。
すでに家の外には警察の車らしい何台もの車がつけられていた。私服の、背広を着た警察関係者。家の外には報道のカメラマンが何十人も。制服の警察官が規制線を張っている。空に響くヘリコプターの音。
フラッシュが目のくらむほどたかれカメラマンたちの怒声が飛び交う。それ以外にも大勢の報道やマスコミの関係者や野次馬が取り巻く中、ひとりの男が車に乗せられていく。
完全に後部座席をシャットアウトしたワンボックス車がカメラマンたちに取り巻かれ、引きずるようにして出ていく。車が出て行った後にもすぐには引かない喧騒と興奮……。
その後も長い、長い時間、こだまするような騒ぎの音が残っていた。
瀬奈は目を開いた。
ここはどこだろう……
聡の右腕に引き寄せられていた。
胴へ回された彼の腕がきつく瀬奈の体を離さない。彼が怪我をしているのだとやっとそれだけがわかる。聡の唇が狂おしいほどに瀬奈の唇を離さない。息をする間もないほどに口づけされながら、しかしそのせいではなく暗い闇にすうっと
落ち込むように瀬奈の意識が遠ざかった。体から力が抜け、もう聡が支えてくれていることもわからなくなった……。
眠りから覚めるように少しずつ瀬奈の視界が明るくなっていく。
ベッドへ横たわっていたが、ひとりではない感覚を体に感じる。体へ回されている腕。うっすらと目を開いた瀬奈に聡の声が聞こえてくる。
「瀬奈……」
耳に届く聡の声に瀬奈はふたたび目を閉じた。
生きている。まぼろしでも、夢でもない。生きて聡がここにいる。
聡の服を通して感じられる体が、あたたかい体温が、怪我をしている様子さえも彼が生きている、ここにいるのだということを感じさせてくれる。
動けなかった。
目を閉じたまま指1本さえも動かすことができなかった。
瀬奈のほうが現実ではないような感覚だった。すべての力が抜け落ちて思考さえもがぼんやりとしている。聡さんはまぼろしではないのに……。
ただ聡にじっと抱きしめられていた。何も、何も言う事ができない。
何も話さず……聡さんの目を見ることもせずに……ただこうして時間が巻き戻るのを待っていたい……。
白い壁の部屋。
瀬奈がベッドに肘をついて顔をあげると薄暗い部屋の中でも壁の白さがわかった。窓にかかる白いレースのカーテンの外は夜明けの空の色。
柔らかな薄い掛け布団が素肌に感じられていた。となりを見ると聡が眠っている。あお向けの体がこちら側を向き、伸びてしまった髪が顔にかかり閉じられたまぶたが紫色に翳って見える。
裸の体の左肩から右脇へかけてサポーターのようなベージュ色の幅広の包帯で幾重にもテーピングされている。聡の右腕は瀬奈の体を離さないとでもいうように瀬奈のほうへ差し出されていたが瀬奈に触れてはいなかった。
呼吸で上下する聡の胸を見ながら瀬奈は、よかった……と心の中でつぶやいた。
聡さんが生きていてくれる。ただそれだけでいい。
ふたりのあたたかい体温に染まったベッドの中。
そのあたたかさから瀬奈は起き上がった。聡の眠りを覚まさないように瀬奈はそっとベッドから出た。
服を着て部屋の外へ出る。
見知らぬ家の中で見当をつけて廊下を歩く。その先の玄関には瀬奈の靴があった。
「行かれるのですか」
静かな男の声に瀬奈は振り返った。廊下の奥から三田が瀬奈を見つめている。
三田さん……。
しかし声には出さなかった。三田も瀬奈のほうを見たまま動かなかった。三田の表情からは何もうかがわれない。そして瀬奈からも。
瀬奈は振り向いたまま少し笑った。三田へ答えるように。
2008.08.17
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