花のように笑え 第2章 5
花のように笑え 第2章
目次
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暗い。
息ができない。左肩や体の左側がどうにかなっているのが痛みでわかったが息を少しずつ吐くだけでも気を失いそうだ。朦朧としているのに痛みは感じる……。
体がねじれたように倒れているらしかった。左腕もまったく感覚がない。もう痛みを通り越しているのかもしれなかった。おそらく体の左側を打ちつけたのだろう。
「はあ……」
もがくように息をしていた。
どこだ……真っ暗で、まわりが樹……土の匂い、枯れ枝や落ち葉の朽ちた匂い。平らでない地面。どちらが空なのかそれさえもわからなかった……。
揺れる車の感覚。
聡が会社から連れ出され次に意識を取り戻したときは車へ乗せられているらしかった。音と震動に気がついたが動こうとしても手足を拘束されている。手足だけでなく体そのものが動かなかった。ぼんやりした意識の中で真っ暗だということがわかったが、それは目隠しをされているせいだった。
続く震動を感じてはいたが口を塞がれ車の後部座席のようなところへ転がされたまま体が痺れて動かない。
ここはどこだ……どこへ……社長室でいきなり襲われた……あれから……。
車が左右に振れながらカーブを走っていく感じ。スピードの変化はあっても停止したりしない。
どこへ? ……だれが? ……専務か……。
少し経つと思考がだんだんと戻ってきたが体を動かそうともがいてみても手足の感覚はなく動けなかった。どうする事も出来ない。
自分を連れ去った男たちは会社の人間ではなかった。では、仕組まれたことか。専務に? 会社に? それとも……。携帯電話など取り上げられているのに違いない。これからどうなるかという恐怖が湧きあがってくる。この男たちは素人ではない……。
ふたたび聡が気がついた時、あたりはぼんやりと明るくなっていた。
俺はまだ生きているのか……。
もう動けなかった。痛みさえ遠いもののように感じる。このまま死んでしまうのか……死んで……土にまみれ、このまま土へ還っていくのか……土へ……。
それでも無意識に聡は体を動かしたようだった。また激しい痛みが左半身を襲う。しかしその痛みで聡は引き戻された。
……瀬奈!
瀬奈! 助けてくれ……いや、瀬奈を……瀬奈を……瀬奈はいったい……?
聡は眼を開いた。見える。木々が茂り薄暗くはあったが昼のようだった。
右腕を動かしてみた。痛みはあったが動く。なんとか右腕を頼りに体の左側をかばうようにもがいてみたが右足は動いたが左半身だけでなくどこもひどく痛んでまた動けなくなった。顔を土につけて絶望が広がる。
瀬奈……瀬奈……君だけは……。
上着も着ておらず靴も脱げていた。道路脇の崖のようなところから落とされる前の男たちの行動が頭をかすめた。
「注射をしろ」
男たちは拘束を解かれても動けない聡を車から引きずり出した。動けないのにさらに注射をするのはなぜだ……? しかしその時、何人かの男たちが争うように動きだした。
「……った!」
「ちっ……やれ! ……だっ!」
断片的な男たちの声にも聡は地面へ横たわったままだったが、体が誰かに引っ張られるように動いた。
「殺させはしない……!」
「この野郎!」
体が引きずられたが次の瞬間ずるっと落ちた。聡を引っ張った男もろともふたりの体が落ちていく。
あれは誰だ……?
だれだ……なぜ……な……
痛みでそれ以上は考えられない。どうすることもできなかったが聡は動く右手で体を触る。感覚のない左手の指に触れ、その時聡は気がついた。結婚指輪。 指輪がまだある……。
瀬奈との結婚指輪、いとしい瀬奈……もう俺に残されたものはこの結婚指輪だけだ……。
絶望に打ちひしがれていたが、しかし指輪をさわるうちに聡は落ち着いてきていた。固い指輪の輪郭が唯一確かなものとして感じられる。まだ生きている。
少しでも呼吸が楽になるように体を動かすだけでもありったけの精神力が必要だった。痛みでまたしばらく動けなくなるが少しだけ呼吸が楽になったような気がする。そうしているうちに聡は自分のいるところが斜面であることに気が付いていた。
地面の下りの先のほうが木々が少なくなっているらしく少し明るい感じなのがわかった。聡は横たわったままじっとそちらを見ていた。
「瀬奈、いったい何なんだよ!」
黙って視線も合わせないこの数日に大輔はとうとう怒って言った。瀬奈は部屋から1歩も出ずに布団の上で丸まるように横になってばかりいる。
「おまえ、家へ帰らなくていいのか。旦那、心配しているぞ」
「戻る家なんてない」
瀬奈はそう言ったが赤くなった目は前を睨んでいる。
「あの人は危なくなった会社を捨てていなくなってしまったんだから。だから家も何もかも取られてしまった。もう家なんてないのよ!」
「瀬奈……」
あまりにも激しい瀬奈の言葉に大輔のほうが唖然としてしまった。ここ数日のような瀬奈を見たのも初めてだったが瀬奈がこんなことを言うのも初めてだった。怒って、顔を歪めて。
「やっぱりな。インターネットのニュース記事で見たよ。旦那がいなくなったって、それ、本当か?」
「そうよ」
瀬奈は答えたが。
「それでおまえ、どうしたんだ?」
「え?」
大輔が真剣な顔でかがみ込む。
「ここへ来て、そんでどうしたんだ? 警察とか、捜索願いは出したのか?」
「えっ……」
「まだ行方がわからないんだろう? 連絡がつかないんだろう?」
その通りだった。瀬奈がつまづくようなうなずきかたをした。
「来いよ」
大輔が瀬奈を引っ張り上げて立たせた。警察へ行くという。
「警察へ行って捜索願いを出して、そしておまえは札幌へ帰るんだ。親父やお袋には俺が連絡してやるから」
「……でも!」
大輔に腕をつかまれたまま瀬奈は叫んだ。今、札幌へ帰ったら、そしたら……。
「だけど、だけど……わたしは……」
大輔の表情が怒って歪む。
「おまえ、いったいどうしたいんだよ。おまえに何ができるって言うんだ?」
何ができると……。
「警察にまかせるしかないだろ? おまえがなんとかできるわけないだろ?」
何もできない……。
「瀬奈、もう森山っていう男のことはあきらめろよ」
「大輔さん」
「逃げたんだろ? おまえを残して自分だけ逃げたんだろう? そんなやつのこと、どうするって言うんだ。捜索願いを出して、もう警察へまかせておまえの役目は終わりだよ。札幌へ帰るんなら送っていくよ。札幌へ帰るんだ」
「…………」
それは、それは、そうしたら……。
大輔が見たことのない表情で瀬奈を見つめていた。迷惑だと言いたいのだろうか。心配そうな、でも、それだけではない大輔の表情。
「もうこれ以上親父たちに黙っていることはできないんだよ、瀬奈!」
ぐいと引っ張る大輔の手を瀬奈は激しく振り払おうとする。
「いや! 放して! いやよ!」
「瀬奈!」
「いや!!」
さっき大輔に札幌へ帰れと言われて瀬奈は迷った。どうしてわたしはそうしなかったの?
あんなにも聡を責めていてもどこかで聡を信じたかった。聡を、自分を愛してくれた聡を、どんなに信じられないと心の中で繰り返しても瀬奈を愛してくれた聡を消すことができない。
それはわたしの自分に都合のいい言い訳なの? ……それとも……。
「ちっきしょう!」
びくりと瀬奈の体が縮みあがったが同時に大輔が乱暴に手を放した。怒った顔で言う。
「何なんだよっ!」
腕を放された瀬奈が床にあった自分のバッグを取り上げた。そのまま玄関のドアへ向かう。
「瀬奈、どこへいくんだ?」
振り返って大輔を見た瀬奈の瞳。
「わたしは……彼が、聡さんが好きなの。札幌へは帰らない」
「じゃあどうするんだ?」
「わからない。でも……」
瀬奈がドアを開けて外へ出る。
「待てよ、瀬奈!」
ふっと瀬奈の姿がドアの向こうへ消えた。しばらくは聞こえていた瀬奈の足音。
やがてすぐに聞こえなくなった瀬奈の足音を聞きながらも大輔は何もできずに立ち尽くしていた。
もう大輔のところへも……戻れない。
瀬奈はバッグの中から紙切れを取り出して電話をかけた。東郷昭彦へ。
2008.06.20
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