花のように笑え 第2章 4

花のように笑え 第2章

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「私は部外者ですので」
 AMコンサルティングの入っているビルの前で東郷は車から降りずにそう言ったが、瀬奈が礼を言って車を降りたのが東郷にはちょっと意外だった。瀬奈が一緒に来て欲しいと、そう言うと思ったのに。まあ結果は変わらないが。
 瀬奈は不安で不安で押しつぶされそうになりながらもひとりで行くつもりだったが、それは無鉄砲に等しいことだろう。そんな瀬奈の様子がわかっているのか、東郷は車へ乗ったまま窓ガラスを下げた。
「お困りでしたらいつでも相談にのりますよ、瀬奈さん」
 連絡先を書いた紙を瀬奈へ差し出し、瀬奈が受け取ると車の窓ガラスが閉じられていく。そのガラス越しに東郷は瀬奈が意を決したようにビルの入口へ向かっていくのをわずかに笑うように口元を歪めて見ていた。

 AMコンサルティングの受付へ行って森山の妻だと告げる。瀬奈はそう言うしかなかったからだ。受付嬢が立ちあがって奥へ入っていくとずいぶんと待たされてやっと中へ案内された。妙に静まりかえっているような会社の中。瀬奈が待っている間にも誰の姿も見てはいない。
 ひとつの部屋へ案内されて、そこは社長室のような部屋なのだと瀬奈は気がついたが中にはひとりの男が待っていた。家へやってきたあの専務という男だった。
「あなたもわからない人だ」
 いきなり言われる。

「森山が出てこない以上こちらとしては法的な手段を取るしかない。簡単に言えば無責任ですよ。社長ともあろうものが逃げ出すなんてそれで済むと思っているのか。ただでさえこの会社は危ないのに、こんなことになってしまったらもう会社を存続させるのも難しい」
 専務は瀬奈に座れとも言わない。
「会社へ対する責任、顧客へ対する責任、社員へ対する責任。森山はなにひとつ果たしていない」
「会社がなくなるのですか……?」
 震える声で瀬奈が問う。
「わかりません。潰してそれで済むのか。他の会社の傘下へ入るのか。今のところはわかりません。だが潰れれば社員は皆、失業だ。社員へ対する責任というのはそういうことを言うのですよ」
 容赦ない言い方が瀬奈を追い詰めていく。
「あなたへどうこう言ってどうなる問題じゃあないんだ。もう二度とここへ来ないでほしい」

 突き放されるように言われた瀬奈は逃げるように部屋を出た。エレベーターで1階まで降りて来るとそこに数人のAM社員らしき男たちが立っていた。男たちが自分を待っていることに気がついて思わず瀬奈の足がすくんでしまう。
「森山社長の奥様ですね」
 ひとりに言われてかろうじてうなずく。
「社長はどこにおられるのですか? いったい社長はどうされたのですか?」
「社長は逃げたのだと専務たちは言っています。そうなのですか? どうして……」
 詰め寄られるように矢継ぎ早に言われても瀬奈にはひと言も答えることができない。
「奥様!」
「よせ」
 瀬奈の蒼白な顔、見開かれたままの目を見て年かさのひとりが止めた。
「奥さんに聞いても無駄のようだ」
「だが!」
 最初に瀬奈へ話しかけた男が叫ぶ。
「社長を信じていたのに! それでは、それでは……」
「なんだって社長は……」
「奥さん」
 年かさの男がまた口を開いた。
「社長がいなくなってしまわれたのは本当なのですね? 奥さんさえ行先をご存じないらしい。失望しました。私たちは社長を信じてここまでついて来たのに。こんな形で裏切られることになるとは思ってもみませんでした。 社長が失踪してしまった今となってはAMコンサルティングもこの後どうなるかわかりません。たぶんもう駄目でしょう」

 こんな形で裏切られることになるとは……
 こんな形で裏切られることになるとは……
 たぶんもう駄目でしょう……

 ふらふらと歩いているという感覚もない瀬奈に専務の言ったことが繰り返し頭の中へ押し寄せる。

 無責任……
 逃げ出して……
 なにひとつ責任を果たしていない。社員は皆失業……

 そして社員たちの言葉。

 こんな形で裏切られることになるとは……
 裏切られる……

 社長を信じていたのに、そう言われて瀬奈はその場を逃げ出すしかなかった。
 いったいなぜ? わからなかった。瀬奈にはすべてのことがわからなかった。混乱した頭の中でかつて父が亡くなった前後の急激な生活の変化、 子供心にも憶えているあの何もかもが奪われていくような記憶が蘇ってくる。
 いや! そんなことって……。

 聡さん、どこにいるの? どこにいるの? なぜいなくなってしまったの?
 なぜ! なぜ! ……なぜ!




 瀬奈は大輔の部屋へ戻ると部屋の隅で壁に寄りかかるように座りこんだ。体がだるく下腹部が痛い。規則正しい周期で生理が始まっていた。 にじむ血を感じながら瀬奈は皮肉に考えていた。聡さんはどういうつもりだったのだろう。
 もし……。

 聡さんは避妊をしていなかった。夫婦なのだから、結婚しているのだから当然だとわたしは
思っていた。たとえ結婚式の前に子どもができてもそれはそれでうれしいとわたしは思っていたし、聡さんも自然に任せているのだと思っていた。
 夜、聡に抱かれたいくつもの夜、繰り返し愛されて聡の愛撫に気が遠くなりながら彼を受けとめる幸せに酔っていた。聡から愛情を注ぎこまれるように抱かれるのを求めていた。

 でも、もし子どもができたら、わたしが妊娠したら聡さんはいったいどうするつもりだったのだろう。婚姻届を出していなかったのに……。いつか彼が言っていた。借金は妻には関係ないと言っても実際には……。
 それは、それは、わたしが関係ないと言えるように? ……でも……。

 あんなに愛し合ったのに!
 聡さんに抱かれて結婚できた幸せを疑いもしなかったのに!

 どうして……
 …………





 聡が社長室の棚の前で三田が作った株主総会用のファイルを開いていた時だった。
「なんだ?」
 ノックをして数人の男が入ってきた。しかし尋常ならないその男たちの様子に聡の本能が緊張する。男たちはいずれも知らない顔。
「ちょっとご同行願えませんか、森山社長」
「誰だ? どうして行かなければならない?」
 自分の背後に壁がくるようにデスクのむこうへ聡がまわりこもうとしたその先を読まれた。ふたりの男に腕をとられ背後にも回られる。
「くっ」
 容赦なく背後の男へ肘鉄をして手を振りほどこうとする。男たちに押さえつけられながらも聡は別の男を蹴りあげていた。しかしそれ以上はどうする事も出来なかった。すでに4、5人の男に飛びかかられ床に押し付けられる。
「さすがにケンカ慣れしている」
 手足を縛られ、口に粘着テープを貼られて聡の自由が奪われていく。体をもがく程度の抵抗などほとんど無駄だ。しかしそれがわかっていても聡は抵抗するのをやめなかった。
「おとなしくしろ」
 腕に痛みが走って手っ取り早く動けなくされる。注射だ。男たちが聡を押さえつけたまま動けなくなるのを待っている。
 だめだ! 意識を保つんだ。意識さえあれば……。
 暗闇へ落ちて行く意識の最後の力を振り絞って見たのは会社を興した時から一緒に仕事をしている専務のその顔だった……。
 …………


2008.06.12

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