花のように笑え 第1章 2
花のように笑え 第1章
目次
2
「瀬奈ちゃん、ほんとうに結婚してしまうんだあ」
真由が瀬奈のベッドに寝そべりながら言う。真由は叔父夫婦の娘で、だから瀬奈とはいとこになる。私立の高校に通う1年生だ。
「高校卒業して結婚なんてありえない」
そんな真由の言葉を瀬奈は勉強机の椅子に座って聞いていた。
「本当にその人のことが好きなの? ……その、森山さんっていう人」
「うん」
「ふーん……あたしはさあ、瀬奈ちゃんにはおにいちゃんのお嫁さんになってもらいたいなあって思ってたんだけどな」
「大輔さんの?」
瀬奈は笑って聞き返した。
真由の兄、大輔は瀬奈よりも一つ年上で今は東京の国立大学で機械工学を学ぶ1年生だ。
「大輔さん、彼女いたでしょ」
「だめだめ、お兄ちゃんたらほら、高3の時になんとかロボットコンテストっていうのに夢中になりすぎて彼女に愛想尽かされたんだから。高専のやつらには負けられないなんて変なライバル心燃やしちゃって。かないっこないのに。今だってきっとロボットでも抱きしめて寝てるのよ」
瀬奈は大輔が高校生だった時に食卓テーブルにラジコンカーのようなロボットのようなものを乗せてそれへむかって話しかけながらご飯を食べているのを見たことがある。大輔ならありえる。大輔がロボットを抱きしめて寝ている姿が目に浮かんで思わず瀬奈は吹き出した。
「でもさ瀬奈ちゃんかわいいし、頭いいし……お兄ちゃんのクラスの生徒会長だった人から告られたことあるんでしょ?」
瀬奈と大輔は同じ高校だった。瀬奈が2年、大輔が3年の卒業間際の時のことだ。
「お兄ちゃんから聞いたんだ。その生徒会長だったっていう人、友達にも瀬奈ちゃんのこと好きだって宣言して卒業前に告白するぞって言って、そんで見事玉砕だったって」
「それは」
「うん、そうだよね」
真由はベッドから起き上がった。
「その頃にはもう森山さんとつきあってたんでしょ? あたしもお兄ちゃんも知らなかったけど」
真由は顔を近づけて瀬奈の顔をのぞきこむ。少し明るくしている髪の色。ぽっちゃりとした父親似の真由の顔。
もしわたしがいなかったら、この子へ縁談が来たのだろうか。まだ高校1年の真由に。 わたしがいなかったら真由ちゃんが……森山さんと……?
「ちゃんとつきあって、それでわたしもいいと思って結婚するんだもの。東京へ行けるのも楽しみだし。真由ちゃん、夏休みには遊びに来てね」
「あ、行く行く。お兄ちゃんみたいなロボットオタクの部屋なんかより瀬奈ちゃんのところのほうが絶対いいに決まってる」
「そしたら原宿や六本木へ買い物に行こっか。わたしも行ったことないし」
「キャー、やったー」
瀬奈へ縁談がきたのは瀬奈がまだ高校2年生のときだった。
札幌で叔父夫婦と暮らす瀬奈は叔父夫婦からお前に縁談が来ているんだが、と言われてもなんの抵抗も見せずに承諾した。叔父たちは相手の写真を見せ簡単に彼の経歴を説明し、ぜひお前をと言われているんだが嫌なら断ってもいいんだよと言ってくれたが瀬奈は整った顔つきの森山聡の写真を見ながら、
テレビドラマみたいにとんでもなく年寄りのおじいさんに嫁がされるわけじゃない、こんな見た目も良くてお金持ちの人ならむしろわたしはラッキーなんだわ、と考えていた。
事業に失敗してしまった父。父の死後、病気がちになってしまった母が亡くなるまでの間、叔父夫婦にはずいぶんと経済的な援助をしてもらった。そして瀬奈が中学生になった時に母が亡くなり瀬奈は叔父夫婦に引き取られたのだが、瀬奈は母から聞いて知っていた。まだ父の借金が残っていて叔父が肩代わりをしてくれていることを。
瀬奈にとって不運だったことは旭川で牧場をやっていた母方の祖母はすでに亡くなり、牧場を続けていくことができなくなった祖父が牧場時代の借金を抱えてひとり細々と旭川で暮らしていることだった。父方の祖父母は健在だったが高齢になりつつあり、次男である叔父夫婦はそれらのことも考えてそのうえで瀬奈を引き取ってくれたのだ。
しっかり者の叔母は瀬奈に対しても自分たちの子どもと努めて同じように接してくれた。その叔父夫婦から勧められた縁談だ。断れるはずがない。
一緒に暮していればなんとなく叔父の家の経済状態もわかる。建設業を営む叔父の会社が苦しいこと、瀬奈の縁談相手がどうやらその援助をしてくれるらしいこと、それとなく聞こえてくる話から瀬奈はそれを感じ取っていた。公立とはいえ、高校へ通わせてもらうのも心苦しく感じていた。そんな時に聡の写真を見せられたのだ。
わたしがこの人と結婚すれば叔父さんの会社は助かるの? お父さんの借金は返せるの?そうは聞けなかった瀬奈は「……いい人なんでしょう?」とおずおずと叔父夫婦に尋ねた。
「もちろんだよ。若いが東京で会社を興して広げている。ご両親はもう亡くなっているそうだが、だから早く落ち着いた家庭が欲しいと言っているそうだよ。しっかりしているじゃないか。見た目も悪くない。いや、いい男と言うべきかな。きっとお前にはお似合いだよ」
叔父は森山を褒め、けっして自分の会社のことは言わなかったが、まだ高校生の瀬奈へ縁談を勧めるのはやはり相当な理由があるとしか思えなかった。
一応は「一晩考えさせて」と言ったが、瀬奈の心は決まっていた。年寄りの資産家に嫁がされるのでもない、中年の金持ちの後妻に入れられるわけでもない、と思うことにした。こんな人が結婚相手ならきっとわたしはラッキーに違いない……。
瀬奈が高校2年の11月に札幌へ森山聡がやってきてくれて瀬奈は初めて彼と顔を合わせた。11月の札幌はすでに寒く、黒のロングコート姿で北海道までわざわざ来てくれた森山は写真通りの人だった。サラリーマン風とは程遠い少し癖のある長めの髪を無造作な感じで整え、スーツは対照的に渋いものでそれが森山の風貌を際立たせていた。
黒いロングコートが余計に背の高さを感じさせる。少し浅黒い肌、濃い眉と二重の目の彫りが深く、あごのラインがくっきりとしている。が、日本人離れしているという印象ではなく、それはきっと目が少し切れ長だからだろう。この人はきっと洗いざらしのシャツやジーパンも似合うに違いない、瀬奈はそう思った。
スーツよりもそういう服のほうがわたしも気楽でいいんだけれどな……。
瀬奈と年齢は離れてはいるものの森山は申し分のない人に思えた。むしろその森山の姿形だけではない自然な物腰、さりげなく瀬奈をエスコートしてくれるその態度に瀬奈のほうが本当にこの人はわたしのような子どもでいいのだろうかと疑問に思ってしまったほどだ。
それからひと月に一度、森山が札幌へ来てくれるという規則正しいデートを繰り返していたが、森山は紳士的にデートを重ねても、瀬奈を家まで送ってきてくれても、結婚に関する具体的な事はなにも瀬奈へ話さなかった。
瀬奈はこんなものだろうかと思って言われるままに月に一度のデートをするしかなく、結婚までの段取りにしても瀬奈にはなんの知識もなかった。
叔父に引き取られているという以外はごく普通の高校生で、瀬奈は自分のことは特に目立っているとは思っていなかった。高校3年生になり学校は進学校だったからすでに友達は誰もが志望校を決め受験へ向かっていた。
そんな中で進学も就職もせず何もすることのない瀬奈はひとり流れから浮いた存在だったが、友達には卒業後は叔父さんの世話にならないように東京へ行くとだけ話していた。
「東京で働くの?」
友達に聞かれてたぶん、と答えたものの森山との規則正しいデートだけの付き合いではなんとも答えようがなかった。それでも結婚するのは間違いないだろうと瀬奈は思うしかなかった。
高校3年生の10月になってある土曜日、突然に森山から連絡が入った。仕事で今、札幌に来ているのでこれから会えないかと。瀬奈が承諾すると森山が車で迎えに行くと言う。叔母は喜んでちょっと大人っぽい黒いギャザーのふんわりしたワンピースを着るように勧めてくれた。
レンタカーらしくない高級車で森山が現われて札幌市内の高級ホテルで夕食を共にし、何と言うこともない会話を交わす。
「土曜日もお仕事で大変ですね」
「いいえ、瀬奈さんに会えるかもしれないとそればかりを考えて北海道へ来たんですよ」
そうは言ってもいつも無駄なおしゃべりをしない森山がその日はもっと寡黙だった。自然、瀬奈も黙り込む。
夕食を終えて瀬奈を家まで送ってくれて家の前へ車が止められた。礼を言って降りようとしてドアへ手をかけた瀬奈の手ごと森山がドアを抑えた。
「瀬奈さん。本当に私でいいのですか?」
え……?
「森山さんでいいとは……?」
助手席に座ったまま振り返った瀬奈の声がかすかに震えている。
「私は……あなたと歳も離れているし、もしかしたらあなたは大学とか何かやりたいことがあるんじゃないかと」
森山聡がちょっと困惑の表情を見せている。
「もし、結婚がいやならそう言ってください。あなたはまだこんなにも若くてかわいらしい。もし結婚するのが早すぎるとお考えなら私は待ちますから」
確かに早すぎるかもしれない。でも瀬奈は迷いたくない、ずっとそう考えていた。
「大学へ行きたいなと思ったこともありましたけど、でも東京で森山さんが許してくれるのなら 大学だけでなくていろいろなことを勉強してみたい。森山さんが許してくれるなら……ですけど……」
瀬奈のその言葉に聡の表情が変わる。
「あなたを束縛するために結婚するんじゃない。あなたは素直な人だ。まっすぐで汚れのない、そんなあなたと結婚できるのなら私は夢がかなったようなものです。……私と結婚してくれますか?」
……この人は誠実な人なのだ。わたしよりもずっと大人なのに高校生のわたしに対してもこんなにも礼を尽くしてくれる。きっと叔父さんたちにも……。
聡の体が乗り出して静かに瀬奈の唇へ彼の唇が触れた時、瀬奈は目を閉じて聡の唇を受け入れた。 わたしの直感を、聡さんの誠実さを信じよう。自分のために……。
ずっと姉妹のように仲良くしてくれた真由。兄のように気兼ねのない大輔。
このふたりのために自分へかかる経済的な負担だけでも減らせるならなんだっていい。瀬奈は本気でそう思っていた。大学へ行きたいと以前は漠然と考えていたが、国立大とはいえ東京にアパートを借りて大学へ通っている大輔と、私立高校に通う真由。
この上自分が大学へ行きたいとは叔父たちには言えなかった。
そして瀬奈は縁談が来たことで奨学金制度などを調べることもとっくに諦めてしまっていた。
自分が犠牲になるんだという気持ちはなかった。森山が自分を望んでくれることがわかった今、叔父さんたちへのせめてもの恩返しになるならと前向きに考えている瀬奈だったが、それにしても森山さんはどうしてわたしが大学へ行きたいと思っていたことがわかったのだろう……。
2008.03.21
目次 前頁 / 次頁
Copyright(c) 2008 Minari all rights reserved.
|