花のように笑え 第1章 1

花のように笑え 第1章

目次



 玄関の車止めへ瀬奈(せな)の乗った高級国産車がすべるように止まると、となりに座っていた瀬奈を迎えに来た川嶋晴代という40代の女性が瀬奈へうながすように頭を下げた。
「着きましたよ。奥様」
 奥様、その言葉に内心の不安を隠しながら瀬奈が川嶋の顔を見ると紺色のスーツを着た川嶋は人のよさそうな笑顔を浮かべて「さあ、どうぞ」と言った。たぶん瀬奈の戸惑いが顔にでていたのだろう。 しかたなく、もうそうするしかなかったので開いてもらった車のドアから瀬奈は降りた。

 大きな家の玄関の前。
 この家で働く人らしい年配の男女が数人玄関の前に並んでいた。瀬奈を迎えるためだろう。「ようこそ奥様」とひとりが言って数人が一斉に頭を下げると川嶋がすかさず玄関ドアを開けてくれる。なかば唖然としてまわりを見回す。
 すごく高い天井。吹き抜けがあって、外の光が入って明るくて……こんな家、テレビでしか見たことない。……豪邸、よね 。……え、え? 応接室? この、この中へどうぞって……あ……。

「瀬奈さん、ようこそ」
 森山……聡(あきら)さん……。
 わたしの婚約者だ。いや、今日結婚したからわたしの夫、その人が目の前に立ってわたしを迎えてくれた。180pはあろうかという長身。黒に近い濃紺のスーツに控えめなごく細いストライプの入ったワイシャツ、暗いグリーン系のネクタイという完璧なスーツ姿で立っている。 しかしそれにはちょっとそぐわないくせのある長めの髪。日焼けしているというほどではないけれど健康的な肌の色。
「待っていたよ。疲れなかった? どうぞ座ってください。ちょっと家の者たちを紹介するけれどすぐに済むから」
 言われたとおりに座るとそれを待っていたかのようにドアが開いてさっきの川嶋さんを先頭に4人の人たちが入ってきた。
「川嶋さんにはこれから君がこの家に慣れるまでいろいろと世話をしてもらうよ。君の秘書だと思ってくれればいい。それからこの家の家事をしてくれる家政婦の小林たまきさんと男性のほうは三田勇三さんと私の運転手の笹本さんだ」
 思わず立ちあがってその勢いのまま挨拶する。
「立花瀬奈です。今日からお世話になります。よろしくお願いします」
 車の中で誰かに会ったら何と言おうかといろいろ考えていた挨拶の中から言葉が飛び出してしまったが、これでよかったのだろうか。わたしが立ちあがったので聡さんも立ち上がって4人へ向き直った。
「妻の瀬奈だ。これからよろしく頼みます」
「お待ちしておりました、奥様」
「よろしくお願いします」
 4人が口々に挨拶して頭を下げると川嶋さんがお茶をお持ちしますと言ってから4人は出て
いった。
「瀬奈、座って」
 4人へいちいちお辞儀をして硬直したように突っ立っていたわたしを聡さんは優しく促した。
「立花、じゃないだろう」
 あ、そうか。もう結婚したんだから……わたしは森山瀬奈なんだわ。どうしよう、最初から間
違ってしまった。
「ごめんなさい。わたし、つい……」
「いいんだよ。瀬奈、そんなに緊張しなくても」
 聡さんは応接セットの椅子のひとり掛けのほうへ、わたしはソファーに座っている。

 緊張するなと言うほうが無理だと思う。こんな豪華なお屋敷で、ううん、変にゴージャスなだけじゃなくって落ち着いた品のいい大きな家で、使用人さんが4人もいて……その人たちに「奥様」なんて呼ばれて……。わたしはまだ高校を卒業したばかりで今日やっと19歳なのに……。
 座っていても緊張が取れない。それに、さりげなくわたしを見ている聡さんの視線。

 川嶋さんとさっきの小林さんがワゴンの上へお茶の支度をして運んできた。
「あ……」
 テーブルへ並べられていくティーセットと皿。そして最後にケーキの乗った皿が中央へ置かれてわたしは目をみはった。
 淡いピンクのマジパンで覆われてその上には真ん中にちょこんと銀色のアラザンをのせた小さな白い花の形のマジパンがかわいらしく散らされている。そして小さなホワイトチョコのプレートには「HAPPY BIRTHDAY」の文字。
「誕生日おめでとう、瀬奈。そしてようこそ私の家へ」
「聡さん……」
 小林さんが紅茶を淹れてくれると聡さんが自分でケーキナイフを手に取りケーキを切り分けてくれる。意外に慣れた様子で器用にケーキを切っていくその聡さんの手元をじっと見る。
 聡さんが私の前にケーキをひと切れ乗せた皿を置く。香り高い紅茶、だったと思う。柔らかな甘さのケーキ、だったような気がする。聡さんの家で初めて一緒にお茶を飲んだというのにわたしは緊張でそれらのことを味わう余裕さえその時はなかった。
 こんなに緊張するなんて、聡さんに初めて会った時以上だわ……。

 お茶が済むと聡さんはふたりの部屋へ案内してくれた。2階にある広い居間。窓が大きくて明るい。ここにもソファーが置かれ、低いテーブルがありテレビやキャビネットもある部屋。現代風だがオーソドックスな落ち着いた雰囲気の家具類。クローゼットのある部屋とその横にパウダールームと浴室。 ウォークインクローゼットというのだろうか、それだけでもひとつの部屋なのだから。
 そして大きなベッドのある部屋。聡さんがドアをあけて中を見せてくれたがわたしは大きなベッドからあわてて目をそらした。そんなわたしを聡さんは何と思っただろう。
「私の書斎は寝室のとなりだから」
 そうか、西側のあのドアね。でも聡さんはその部屋へは行かず、反対側のドアを開けた。
「こっちは君の部屋だよ」
 え? わたしの部屋? わたしだけの?
 そこはきれいなドレッサーやタンスやライティングテーブルなどが置かれた明るい部屋だった。窓にはレースのカーテンがかけられテーブルには花が飾られている。必要なこまごましたものは揃えられているらしく、いつでも使える雰囲気だ。
 まさか自分の個室が与えられるなんて。そしてそこに置かれたリボンのかけられたプレゼントの箱がいくつも。
「見てごらん」
 聡さんが一番上の小さな箱を手に取って開いて差し出す。そこにはきらめくダイヤとルビーを花のように組み合わせたネックレス。
「これは君へ誕生日プレゼント。婚約指輪に合わせたんだ」

 わたしはあわてて飛び上がりそうになった。 今日はクリーム色のツーピースという服装だったが、結婚して夫のところへ来るというのに彼からもらった婚約指輪をしていなかった!
「ご……ごめんなさい! わたし、すっかり忘れて……」
 もったいなくてもらった時に一度だけはめてから箱へしまってしまった婚約指輪。わたしの誕生石でもあるダイヤモンドに聡さんの誕生石だというルビーを組み合わせたその婚約指輪はとても普段につけられるものではなかった。 わたしはここへ持ってきたバッグへ指輪を大切に入れてあったが指にははめていなかった。
「いいんだよ。今日からはこれ」
 今度は聡さんはスーツのポケットから白い指輪の箱を取りだすと、ひとつを自分の指にはめ、そしてもうひとつをわたしの左手の薬指に通した。
 結婚指輪。プラチナだろう、銀色の輝き。控えめながらピンクがかった小さなダイヤが邪魔にならないデザインではまっている。
「今日から君は私の奥さんだ」

 聡さんの顔が近付き、頬へ唇があてられながら抱きしめられた。
「聡さん……」
 そしてこんどは唇にキス。待ち切れないようにわたしの唇を開こうとする聡さんの唇。やわらかくて、熱い……彼のその唇に陶然として体の力が抜けていく。ああ、ついに……。
 そう思ったところで聡さんが私の顔を離した。
「悪いね。どうしてもあとひとつ仕事を片付けなくちゃいけない。夕食には戻るからいい子で待っていてくれないか」
「はい……」
 赤くなってしまった頬を隠すようにうつむいた。 聡さんは何かちょっと言いたいような感じだったがそれ以上は何も言わず、わからないことは川嶋さんに聞くといい、と言い残して出ていってしまった。
「行ってらっしゃい……」
 わたしも玄関までと思ってあわててついていこうとしたが、聡さんは居間のドアのところで「いいよ」と言ってくれた。
 ひとりになって居間のソファーへ腰をおろし、あたりを見回して、そしてやっとはぁーっと大きなため息をついた。

 聡さんがお金持ちなのは知っていたけれど。
 31歳という若さで会社の社長なのだということは知っていたけれど。
 まさかこんな大きな家に住んでいるとは。わたしの住んでいた家のゆうに3倍はありそうだ。明るさがあるが落ち着いた洋風な家の中の様子、調度品、家具。いずれも彼の好みなのだろうか。

 渋いつやのある家具を眺めながら瀬奈はもう一度ため息をついた。


2008.03.13

目次    次頁

Copyright(c) 2008 Minari all rights reserved.