芸術家な彼女 16
芸術家な彼女
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16
このあたりの不動産屋さんをまわるのもあきらめて私は傘をさしてとぼとぼと帰った。
じめじめとした暗い雨……まるで私だ。
せめて貧乏のせいにしたかった。仕事の収入があればこんな事にならなかっただろう、と。お金があったら立原を好きにならずにいたかもしれない。貧乏だから……こうしてまた立原のマンションへ帰るしかないんだ……。
なのに……マンションの前、誰かいる。建物の下の雨に濡れないところで女の人が立っていた。
マンションへ入ろうとした私をその女の人はちらっと見て目をそらした。ウェーブをつけた長い髪。フリルのあるシャツブラウスにぴったりとした細身のパンツ。ちらっと輝くネックレス。そして……はっきりとした目鼻立ちの華やかさのあるきれいな顔、グロスをつけた唇。
ドアを開けて中に入りながら私は考えた。でも考えなくてもわかっていた。セールスでも、立原の会社の人でもない。親戚でも家族でもない。友達? ばかな私。そんなわけないじゃない。
いつかグラウンドで見た、立原と話していたあの人だ。
あの人は立原が帰ってくるのを待っているんだ。あの人は……。
きれいな人だった。
立原が帰ってきたら……あの人は、いや、彼は、立原はどうするのだろう……?
部屋に入って仕事机の前に座る。布をたたみ、何枚かを重ねると薔薇の花びらの形の型紙をあてて縁をシャープペンシルでなぞる。次にそれをハサミで切り抜く。何枚も、何枚も。
数えきれないくらい。何百枚も。
何も考えずに。いや何も考えたくなかったから。
肩が凝ってハサミを持つ指が痛くなってきて私はようやくやめた。この花びらを染めればさまざまな色の薔薇の花びらができるわけだが、今は染めたくはなかった。
何の色に染めても出てしまう、きっと。
……私の心が。
こんな時は花を作らないほうがいい。わかっている。だからこんな下準備のようなことをするしかない。布の種類を変えて今度は葉の形に切り抜いて行く。何枚も、何十枚も。
気がつくともう真夜中だ。こわばってしまった体を動かして私は寝室に行くとそのままベッドに入りこんだ。目を閉じる。
何も考えたくないのに。
でも立原とあの彼女の姿を消すことができない。
きっと私より古い知り合いの彼女。私の知らない頃の立原を知っている。そして今の立原も 知っている……。
あたりまえか。
立原にそんな人がいても不思議じゃない。立原はお気楽で強引で口がうまくて……でも親切で人の心配ができて、無理するなって言ってくれて。 でも、それは私のためだけにあるんじゃないってことに……気がつかなかった。
うとうとしてすぐに目が覚めてしまった。ぼうっとして頭が働いていない気がするがそのほうが良かった。考えたくなかった。
窓の向こう、家々やマンションやビルの並ぶ東京の街。雨がやんでやっと明けてきた朝だったけれど、それでも東京の街はいつでも動いているような気がする。
夕べ、立原はどうしたのだろう。
帰って来て、彼女がいるのに気がついて……それから……。
立原は今朝も走っているのだろうか。
立原はまた私の部屋に来るのだろうか。他愛のないおしゃべりをしに。それとも私を抱くために?
そしたら私は…… 。
部屋にいない今沢。
出かけているらしかった。そして夜になって帰ってきた。
携帯は電源を落としていて、それがわかった時はむっとしたが今沢に指図して電源を落とすなとは言えない。今沢は必要以外は携帯の電源を落としていることが多い。電気代は払わなくていいのだから充電の電気代を気にすることはないのに。
「遅かったな」
だから直接彼女の部屋を訪ねた。いくら俺でもスペアキーでずかずか入り込むことはしない。
「うん、買出し。材料やなんかいろいろ仕入れてきたんだ。あー、疲れた」
「そっか」
今沢がのんびり目をこすった。眠そうだ。
「じゃあ、こんど飯食いに行こう。また電話するから」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
金曜日に今沢を誘って飯を食べに行った。
「あー、おいしいねえ。これ」
スパゲティをぱくつく今沢。
「サラダも食うか?」
「そうだね。野菜食べなきゃ」
なんか素直だな。
「仕事、どうだ?」
「うーん、ちょっと忙しいかな。というより自分の勉強のために作っている。いろいろ試作したり 作ったものをストックしておいてもいいかなと思って。立原さんは?」
「相変わらず。今は引っ越しシーズンじゃないから割とひまなんだ。それより今度また試合があるから来る?」
「ごめん、ちょっと無理かな」
すまないと言うように今沢が笑った。
当然ながら一緒に帰って来て部屋の前に来る。
「俺のところに来いよ」
今沢に来て欲しい。
「ごめんね……今、生理中なんだ」
別にセックスだけがしたいわけじゃない。一緒にいたい、それなのに。
「おやすみ」
すっとドアが閉められる。
……なぜかはずされた。……今沢に。
次の日の土曜日に昼前に今沢の部屋を訪ねる。今沢はいつもどおり部屋に入れてくれる。
「今ちょっと仕事しているところだから。相手できないけど」
「いいよ。見ているから。かまわない?」
「うん」
黒っぽい花がいくつも並んでいた。薔薇か……。黙々と続ける今沢。花だけをいくつも作って出来たものを並べている。時々首を回したり、なにかを取りに立ったりしてもまた作り続けている。
そんな今沢の様子はいつもの通りなのだけど。
作っている時の今沢は口数が少ないのはわかっていたけれど。
1時間ばかりそんな今沢の様子を見ながらインスタントコーヒーを飲んだりしていた。そんな俺もいつも通りなんだが。
「また来るよ」
「うん、また」
目も上げない今沢。それだっていつものことだ。だけど……。
……手が震えて、思うようにならない。
それでも立原の手前、いつも通りに作り続けていた。もう出来がどうかなんてそんなことはどうでもいい。ただ何かをしていなければ。
立原がいたあいだに作った花はひどかった。どこがどうひどいとは言えなかったけれど私は立原が出ていくとその花を全部ビニール袋に突っ込んだ。ビニール袋を押しつぶすようにして台所の大きなごみ箱に入れてしまう。
こんなことは初めてだ。こんなに花を捨てるなんて。
自分の作ったものに愛着がないわけじゃない。材料だって惜しい。出来が悪ければばらして作り直したりしてなるべく無駄は出さないようにしているのに。
ぐしゃっと潰された黒っぽい薔薇の花。ワイヤーが飛び出し、潰されて形が崩れて……崩れて……。そんな花。今の私は……。
今くらい花を作るのがいやになったことはない。今までどんなに作ってもこんなことは感じなかった。いくら作っても飽きることはないとそう思っていたのに。
ううん、飽きたんじゃない。私は……。
立原……もう……こないで。
もう私の心の化学反応を抑えられないよ……。
2008.01.29掲載
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