芸術家な彼女 14

芸術家な彼女

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14


 立原にも言われた。
「こっちの部屋に来れば?」
 そうしてもいいかな、とは思ったけれど私は仕事用の手持ちの材料をかなり増やしていた。おもに造花用の布地だったけれど立原が車を出してくれることをいいことにかなり買い込んだ。問屋さんでたくさん買えば割安になるし、前から買いたかったものだ。 こっちにお金をつぎ込めば生活が苦しくなるけれど、なんとかなりそうだった。
「のぞみちゃーん、お仕事熱心ねえ」
 おネエ言葉を使うな、立原。デカい体で気持ち悪い。

 いまは5月だけど秋の結婚式のウェディングブーケの注文がきている。これは滝口さんの友達の大島さんのつてできたもの。 花嫁さんがどうしても桜の花のブーケを持ちたいと言う。挙式も本当は桜の季節にしたかったらしいがいろいろな事情で秋に挙式することになり、結婚後はすぐにご主人の仕事の関係でイギリスに行くという。
 秋に桜の生花はまず無理だろう。生花の桜自体がブーケに向いている花でもない。ということで私に話を持ってきて下さった。
 花嫁さんにもデザイン画を何枚かお見せして打ち合わせをしてある。ぜひソメイヨシノで、という希望だった。八重桜でも彼岸桜でもない染井吉野。間違っても商店街の飾りのような桜には出来ない。

 淡い淡いピンク、ではなく桜色の花……枝ものだからそれを活かして……すてきな花にしたいなあ……。
 すでに仕事のことで頭がいっぱいな私。
「のぞみちゃーん」
 殴ってやろうか、立原。
「なんですか?」
「あれ、仕事モード入っちゃった?」
 さっきから入ってます。

 あれから立原のサッカーの試合にもう一度応援に行った。あいかわらず見ていてもよくわからないけれど立原は私が応援にきているだけでうれしいらしい。なんか歳の割に素直だな、この人。
 試合はだいたい月に1、2回くらいで、練習は平日に毎週あるらしいけれどそれは見に行ったことはない。
「来月の試合にも来てくれよ」
 まあその頃にはブーケも出来あがっているだろうし、そろそろ暑いから冷たい飲み物でも持って行ってあげよう。

 けれどブーケの予定がかなり遅れた。挙式は秋だから時間の余裕があってまだ大丈夫なのだが、ソメイヨシノだけでブーケをまとめるというのは実際やってみると予想以上に花というか、花をつけた枝が必要だった。花と枝が少ないとスカスカした感じになってしまう。 当初の2倍の花とつぼみを作ることにして組み直す。そんなこんなに気を取られていたら立原の試合の日になってしまった。
「無理そう……」
 応援にいけないかも、と思って立原に言った。
 実は追加で桜のコサージュも注文を受けている。3個も。イギリスの友達へのお土産にするそうだ。日にちに余裕があるからと先延ばしにしていたら他の仕事が入ってきたときに受けられないからどんどん進めるのが私の主義だ。
「仕事だろ? いいよ、気にすんな」
 立原も気にしていない。



  ……もう試合は始まっただろうか。
 ふと仕事の区切りがついて考える。以前はそんなことは気にならなかった。どうでも最後まで仕上げてしまわなければと思って作っていた。でもこの頃の私は余裕というか、区切りのいいところで休んでもいいんじゃないかと思えるようにもなってきていた。
 少しだけど応援に行こう。試合の途中になってしまうかもしれないけれど一緒に帰ってくるだけでもいい。そう思って私は電車に飛び乗った。

 やっぱり試合はもう後半らしかった。グラウンドの向こう側の応援の人たちのところへ行こうかと思ったが今日は何か知らない人もいっぱいいるのでやめておいた。道に近いこちら側には見物人がたくさんいて見ている。 私は自転車を止めて立って見ているおじさんに「どっちが勝っているんですか?」と尋ねてみた。おじさんは「赤いほうが1点入れてるよ」と教えてくれた。赤いほう、赤いユニフォームは相手チームだ。負けているらしい。今、後半のどのくらいだろう?  攻め込まれていて立原のチームにボールがなかなか回らない。立原もかなり疲れているふうだ。立原のチームが攻めようとしてもすぐに戻されてしまうように見える。その繰り返しで点も入らず私にはぜんぜんわからない。と、思っていたら笛が鳴った。え? 交代? 立原?
 立原だ。入れ替わりに立原が外に出ている。ベンチへ行って座って……なんか苦しそう。下を向いてハアハアしているみたいだ。ちょっと行ってみようか……。


「響、お疲れ」
 女の声に振り向いて驚いた。
「理香……?」
「驚いた? 久しぶり」
 ごくっとスポーツドリンクを飲んでそのまま息が落ち着くのを待つ。
「向こうのグラウンドの試合を見にきたんだ。でもこっちの試合のほうが競っていて面白そうだから見ていたんだけど響がいるじゃない。驚いたわ」
「おまえが素人の試合を見るなんて珍しいじゃないか」
「そんなことはないわよ。基本的にサッカー好きだし」
「はぁ〜、ガタガタだ」
 俺は汗を拭きながらうなだれた。交代してもらわなきゃやばかったな。
「見ただろう? こんなもんさ」
「そうね……」
 理香は別段なんともないように答えた。
「でも思い出していた。響が競技場のピッチに立っているところ……」
「まあ、それは俺にとっちゃどうでもいいことだけどね。それより負けたな、今日は。じゃあな」


 立原が立ちあがった。
 私は試合終了の笛の音も耳に入らず遠くからじっとふたりを見つめていた。
 立原のチームの人たちがぜいぜいしながらベンチに引き揚げてくると立原は女の人から離れてチームの人たちを迎えていた。チームの人たちと飲み物を飲んだり話をしているようだったけど、やがて片付けも終えてチームの人たちが帰っていく。 立原が帰るのをその女の人は待っていた。歩きだした立原に追いついて……親しげに何か話しながら……立原の腕に自分の腕を絡めて……。

 グラウンドの向こう、みんなが帰ってしまったその後も私はしばらく動けなかった。 薄暗くなりはじめてやっと私は立ち上がると服を払い、歩いて駅に向かった。

「よお」
 私が帰って来ると立原が自分の部屋から顔を出した。
「ただいま」
「出かけてたのか」
「うん、仕事のことで電話があって、ちょっと。試合どうだった?」
 立原がケーキの箱を持って出てきた。
「いやー、今日は負けたよ。調子もいまいちだったし。それよりケーキ買ってきた。一緒に食おうぜ」
「うん、ありがと」

 みっともないまねはしたくない。私が変人でも。
 私の部屋で一緒にケーキを食べてお茶して。
「やっぱこの歳になると前後半出るのはしんどいな。後半で交代したよ。俺っておじさんかなあ」
 まあね……。
「今日の相手にはなかなか勝てないんだ。去年の市民リーグで優勝したチームだしな」
 へー……。
「あー、疲れたなあ。たまには望に慰めてもらいたいなあ」
 …………。
 私の心の中で静かに化学反応が起こった。亜鉛が希塩酸にぶつぶつといって溶けるような。
 どうしてどうしてそんなことを言うの。今、この時に。あんた、帰りに一緒だったんでしょ。あの……あの人と。

「なんてね。調子悪かったのはホント。だからへこんでいるんだ」
 立原が私の化学反応に気がつかずに言う。
「……具合、悪いの?」
 以前の病気のせいだろうか。不意に背筋が寒くなるような思いで私は尋ねた。
「大丈夫だよ。ちょっとしんどいって感じるくらいだよ」
 真面目な顔で答える立原。本当らしい。
「……じゃあ」
 そう言って私は立ちあがって立原の前にいった。彼も立ち上がる。そして私はぎゅっと立原を抱きしめた。何も言わず。 私よりずっと背も高く体も大きい立原を、抱きしめるというよりも私が抱きついていると言ったほうがいい。それでも立原は驚いているようだった。
「望」
「無理するなっていつも言っているのは立原さんでしょ」
「……うん、そうだな」
 立原の唇。
 そのキスに応じるのに私はありったけの冷静さをかき集めた。
「無理しないんでしょ? 私、仕事あるから」
 私が顔を離して言うと立原は素直に自分の部屋に戻っていった。ありがと、のぞみって言いながら。
 立原はまだ私の心の化学反応に気がついていない……。


2008.01.22掲載

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